椿夫人の密やかな自殺
@boneANDhoney
椿夫人の密やかな自殺
【花を喰らった三つの死体】
椿夫人の唇からは、いっそ花弁が吐き出されないことが不思議に思えるほどに花の香りがした。それも一種や二種の話ではなく、夥しいほどに濃淡の違う様々な色の花の香りがするのだった。ともすれば、一言ごとにぽっと花が唇から零れるのではないかとさえ思えるほどに。
「ええ、ええ、そろそろ飽いていたのです。彼は自分の食事にも拘らない性分で、ね、下手ではないのだけれど。彼が精魂込めて育てた花ですもの、美味しく食さなければ失礼でしょう?」
ころころと蕾を転がすように笑うと、椿夫人は手にしていた藤色の小さな小鉢から、粉雪にまみれた冬の菫に似たものを摘み取って口に含んだ。
「これから少しばかりお料理を作っていただいて、それで貴女を雇うか判断してもよろしいかしら?」
「もちろんです」
それはよかったわ、と、椿夫人は空気に融解する声で云って、長い廊下に柔白のスカートを揺らしながら歩いていく。
椿夫人の本当の名前は、新聞の広告欄の上で見たはずだったが、どうにも思い出せなかった。
【花の調理師 募集】
【・住み込み ・衣食手当有り】
たったそれだけ簡素に書かれたその文字は、ひっそりと新聞の隅に咲く雑草の花だった。その下段にあった椿夫人の本当の名前は、葉末に隠れた蝶の蛹のようにささやかで、秘密めいていたことだけは覚えている。
なんにせよ、重厚な樫材の扉の向こうでかの広告主に出逢い、そして彼女の唇が少し厚めの椿の花弁のように色づいていることを認識した瞬間から、私にとって彼女は椿夫人であるより他はなかった。
「薔薇は料理の基本ですから」
そう云って、春陽の注ぐ絨毯の敷き詰められていた廊下を先導していた椿夫人は歩を止めると、がたりと重たげな音をさせて扉を開いた。彼女の屋敷である割には、この住居はどこもかしこもが大きく、重たい。彼女の後ろ姿を見ていた私には、まるで彼女がサイズの合わないドールハウスの中に住まわされた人形のように思われた。
通されたのは、眩しいほどに光を取り込んだ、薄暗い台所だった。何人分の食器が置いてあるのかも定かではないが、少なくとも、椿夫人だけで使い切るには一週間は必要だろうと思えるほどの食器のしまわれた棚があり、小さなパーティならば一時に全てのパンを焼いてしまえるほどのオーブンもあった。
「前職は何を?」
「この間まで、花屋を。実家です」
「まあ素敵ね。観賞用だわ」
「ええ、花束を作るのが私の仕事でした」
花を扱ったことも、料理をしたことも、人並み以上にはあるけれど、花を料理したことはついぞなかった。そんな私の小さな緊張を見抜いたのか、椿夫人はころりと笑って、私の腕にテーブルに用意されていたボウルを押しつけた。
「花束のように心を込めなくてもいいの。ただ、美しく作っていただけたらそれで十分だわ」
ひんやりと私の熱を奪っていく鉄製のボウルには、残念ながら椿ではなく、真紅に燃え盛る瑞々しい薔薇が苺のように身を寄せ合っていた。
私はかつて、花束に心を込めたことがあっただろうか。もしも本当にそうして花束を作っていたのだとしたら、私の心はもう、花弁のように千々に剥がされて、売り捌かれてしまったのだろう。
だから、椿夫人に心を込めなくてもよいと云われたことは幸いだった。私はただ透明に、従順に、皿に花を飾れば良かったのだ。
「きっととても美味しい花になるのでしょうね」
そう勝手に期待だけを投げて、椿夫人は台所を辞した。
私はその蝶のように儚げに飛んでゆく後ろ姿を見送ってから、薔薇の花弁を洗いだす。ぷつりぷつりと萼から剥がされてゆく花弁は、心臓から溢れる血のように赤かった。
私の作った夥しい薔薇に覆われたケーキを、椿夫人は昆虫の標本を作るような手つきで解体した。銀のナイフが閃いて薔薇の背骨を切り分けるたびに、血液の代わりに赤い薔薇の花弁が零れて落ちた。薄く引かれたグラサージュのためにいよいよ燃え上がった炎の断片を、椿夫人は一欠片も残すことなく、小さな唇の奥へとしまっていった。
私は彼女が皿の上に紅色の血痕にも似た残滓だけを残すに至るまで、ただ静かに、彼女の食事を見守っていた。
蝶の翅のような睫を伏せぎみに、私には一瞥もくれることなく黙々とフォークを口元へ運ぶ椿夫人は、どこか官能的で美しい。花弁は決して堅い音をさせはしないけれど、その柔らかな咀嚼音はだからこそ残酷に思われた。彼女は今、肉よりも柔らかい温度を食んでいる。
最後の一枚の花弁を嚥下すると、椿夫人は翅を休めるように両の目を閉じた。一秒、二秒、三秒と、遠くで時が針に刺殺されてゆく音がする。
「とても美味しゅうございました」
ゆっくりと、笑みを形作って開かれた椿夫人の双眸を見た瞬間、私はそこに椿の蕾を見つけた。春まだ遠い日の、木の実のように堅く閉ざされたビリジアンの眸だった。
あの蕾は、どんな花を咲かせるのだろう。私は無性に、それが知りたくなった。どんな色の花弁が、あの身の中で縮こまっているのだろう。
そんな惚けた私を気にした風もなく、椿夫人は優雅な手首を真白い陽光に晒すと、りり、りん、と、銀色の鈴を鳴らした。
「是非とも貴女を雇わせてくださいな。こんなに美味しい花は他に食べたことがなくってよ」
りん、りりん、と鳴る鈴と地続きの声は酷く満足そうだった。
長方形のテーブルの長辺の真ん中に座した椿夫人の背には、きっととても大きいのだろう中庭が広がって見えた。それが広大だと断言できないのは、一分の隙間もないほどに鬱蒼と佇む花木があったからだ。眩しいほどの採光があるのが不思議なほどに、空はまるで見えなかった。いっそ咲き乱れる花の一つ一つが輝いているのではないかとさえ思える。
そんな花絵を背にして、椿夫人は優美に微笑んでいる。
花は無音だ。あらゆる音を花弁の奥に呑み込んで、花開く瞬間さえ誰にも悟らせない。
だから、目前に置かれた茶器が小さな音を立てて花弁を切り裂かなければ、私は彼に気づくことはなかっただろう。
「彼女を雇うことに決めました」
私から離れ、一つの道しか知らない魚のようにテーブルに沿うて歩く男に、椿夫人は緩やかな笑みを手向けた。白々とした真昼の埃の浮いた光に包まれた椿夫人の領域に彼が踏み込むと、ほのかに甘い香りが強く漂った。
男の腕には光が抱かれていた。目映く銀を散らすそれに目を凝らすと、そこには一組のカップとティポットが置かれている。姫百合をそのまま磁器にしたような華奢な一組を椿夫人の前に添えて、漸く男は私に視線を投げた。
私のカップには紅茶が注がれてはいなかった。椿夫人とは別の、花のない空色のティポットが用意されているばかりだ。私は仕方なく、自身でポットを傾ける。
ゆるりと注がれた透明な紅色の底に映された私の目は、今、この時、一対の蕾に見つめられていることを確信していた。
「彼は屋敷専属の庭師なの。紅茶の味はよろしくて? 彼が気を使うのは花と紅茶の淹れ方だけなのよ」
そう云って、椿夫人はほっそりとした百合の茎のような喉に紅茶を伝い落とした。
男は、静かに皮膚という土の下で蠢動する椿夫人の胸元を見つめている。それはまるで植物の根が腐っていないか確かめる、職人の目のように私には思われた。
「お仕事は明日の朝からでよろしいから、今日中にお荷物を持ってきてくださいね。お部屋はどこでも好きなところを使ってちょうだいな」
機嫌良く風に吹かれる白木蓮のように肩を震わせて、椿夫人は立ち上がった。ゼラニウムの健やかな香りが、彼女の肩口から落ちる。
椿夫人が食堂を出て行くと、そこにはもう、彼女がいたはずの痕跡は残されていなかった。彼女の口にしたカップも、皿から零れそうになっていた花粉の一粒も、彼女の唇から吐き出されていた声のいち音さえ、風に浚われたように消えていたのだ。
「明朝、」
ふっと私の頭上から落とされた声は、その自重のためにすぐに足下へと転がった。私が即座に拾い上げられたのは音ばかりで、意味を解するには一瞬の時間が必要だった。
男は自ら動くことのできないものを見る目で私を見下ろしていた。腕の中にある銀の盆は、椿夫人の領域にいた時よりも形を成して見える。それは同時に、彼の顔を私が初めてしっかりと見ることのできた瞬間でもあった。
「七時に台所へ来てください。仕事を説明します」
土へ染み入る水のように不定形な声で彼は云うと、それきり、私には一つの眼差しも寄越さずに椿夫人の背を追った。
私は、彼の双眸が葉末に潜む夜陰の色であることを知った。
翌朝は、まだ朝露を散らす者は誰も起きていないだろう時間に目が覚めた。朝靄に寝惚けた烏の啼き声が遠くから聞こえてくる。窓から注ぐ黎明の陽を遮る影は一つとしてなく、どうやら庭には一羽の鳥も来訪していないらしいことが知れた。
そなえつけのクロゼットにしまわれていたワンピースは、古びてはいたが清潔だった。すっと清水のように冷たい袖に腕を通すと、漸く私も時間の凝固した、けれどどこか清らな屋敷の一部になれたような気がして、ほうっと吐息することができた。その息は埃と黴の香りはすれど、花の香りを感じ取ることはできない。私も花を食べれば、あの吐息を手に入れることができるだろうか。
結局、一日で持ってくることができたのは、鞄に一つ程度の荷物だけだったが、それ以上の物を再び取りに帰る気にはなれなかった。大方の物は、まるでそこに今の今までひとが住んでいたように部屋に揃えられていたし、何より、鞄から取り出した私の服にナフタリンの臭いを嗅ぎ取った瞬間に、私はあの家から持ち出すすべての物がこの屋敷には相応しくないことを悟った。これからこの屋敷で暮らしてゆく私にはすべて必要のない物なのだと、そう感じずにはいられなくなった。
鞄の他に持ち込んだのは、実家の花屋の売れ残りである小さなサンシキスミレの花束だった。
死体のように重たくなった鞄を抱えて家を出る直前に目に入った鉢に植わったそれを、私は半ば衝動的に引き抜いていた。日光に消毒された土の香りと、水を含んだ青い匂いの他には、花らしい香りをさせないささやかな植物。もう少しで誰もいない家に置き去りにされ、腐るばかりであったはずの健気な彼女を、私は花束にした。
白椿の花弁のように滑らかな手触りのリボンで結ぶと、シジミチョウのように地味な彼女たちも、高級な菓子のように見えた。椿夫人が食むには少しばかり物足りないようにも思えたけれど、それでもその時の私には、それが精一杯だったのだ。
果たして、椿夫人は春告げ鳥の啼き声を聞いた桜のように笑みを綻ばせて、花束を受け取ってくれた。デコルテの開いたドレスの上、細い鎖骨に咲かされたサンシキスミレは高貴な役割に震えるペンダントのようで、誇らしげだった。
軽い目眩を感じて、足を冷たい床に落としたまま、ベッドに背を倒した。いまだ私の温度を残したままのシーツは真昼の微睡む太陽に暖められた白木蓮の花弁のようだった。
そう、昨夜の夕餉は白木蓮だった。
私は唐突に思い出した気になって、目眩の原因である昨夜の風景に想いを馳せた。
強いて夕食を作ると云い出したのは、私の方だった。それはもちろん、私が家から持ち出したささやかな記憶を、椿夫人に食べてもらいたかったからに他ならない。
だから私は、当然のようにそれを許可された時にはもう、サンシキスミレの調理法を考えていた。冷蔵庫にはどんなソースが置いてあっただろうか。私の小さな心にはどんなお皿が合うだろうか。そんなことばかりを考えて││そして台所に置かれていた白木蓮を見つけて、とてつもない羞恥に襲われたのだ。
寝転び見上げた視界の隅に、薄墨色の天井近くにかけれた時計の針が目に入った。外庭の向こう側にいてなお届く烏の鳴き声とは違い、その振り子の音は一つも耳を打つことはない。まるで時間が死に絶えたように、屋敷の内部には静謐だけがあった。
頂点を指すことなく息の根を止めた長針を見やり、私は花の寝台から背を引き剥がした。
七時に、台所へ。
それが彼と私の、初めての約束だったからだ。
「眠れませんでしたか」
私の顔を見るなり、彼は開口一番にそう問いかけた。鏡を覗かなくともわかるほどに、憔悴していることは私自身にもわかった。
彼は私に特別の関心や理解を示すことなく、ただそうして私が在ること自体を道理だとでも云うように一つだけ頷いて、すぐに裏庭へ出る勝手口を開いて、外へと出て行った。
「奥様は、サンシキスミレをお召し上がりになられましたか?」
私は彼の背を追って、逆光に深く影を増した後ろ姿に問いを投げた。喪服じみた夜色の服は、ぽっかりと空間に夜空を広げて、稜線から零れてくる新しい朝を拒絶している。
「いいえ」
たった三文字の言葉で返答したきり、彼はそれ以上を説明しなかったが、私の土へ染み渡るその声に、それ以上の声を聞くことができた。曰く、それは彼女の食事を目にしていた貴女が一番にご存じでしょう、と。
彼は不思議な話し方をするひとだった。笑うことを知らぬまま窯に入れられた磁器人形が話すように、最小限の唇の動きだけで声を出す。それは存在感の希薄な声であるのに、決して失われることなく私の耳に届くのだ。
迷路のように雑多に入り組んだ、洗練されているとは云い難い庭を、長く歩いた。彼の背を伝い、私の背へと流れてゆく風景は、次々にその色彩と香りを変える。屋敷から遠ざかるにつれて、低木が減り高木が増えてゆくのがわかった。鮮らかな唐紅の躑躅に別れを告げて行き着いた先には、今日の朝食が待っていることだろう。
「奥様は何故、私の花を食べてはくださらなかったのでしょう?」
ふっと、彼の身の内に静謐を湛えた湖面が揺らいだのがわかった。私は知らず、その静寂へ足を浸してしまったらしい。
彼は、瞬間的に制止した足をすぐに動かし始めると、ただ、緩やかに、
「なにもなかったからでしょう」
とだけ云った。
「なにも、とは」
「なにもは、なにもです」
一重の気持ちもなかったのでしょう。そう、彼の水は云う。
「心はいらないと、奥様は仰ったわ」
彼の湖面が、一つ二つと波を打っては静まりかえることを繰り返す。私はそれを知りながら、そこに指先で触れることをやめられなかった。
「私は、奥様にあの花を食べていただきたいと思いました」
それ以外の善意も悪意も、そこにはなかった。心がないから食べられなかったのか、あったから食べられなかったのか、私にはわからない。
その願いだけでは不足だったと云うのなら、私の羞恥はいよいよ燃え盛ってこの身を焼き尽くすばかりだ。私はなんと思い上がったことをしたのだろう。
八つ当たりをするように彼の湖を爪先で侵し続ける私に、ついに彼が薄氷をその表面に張ったのがわかった。
「ならば、それが好意であったから、召し上がらなかったのでしょう」
それは私を氷の上から押しやる小さな北風のように私の背を撫でて、そのまま遠い場所まで吹き抜けてしまった。
「好意で、あったのでしょうか」
「少なくとも、害意ではありません」
しんしんと地表へ注ぐ雪の淡い声音で彼は云うと、ついに弛むことなく歩を刻んでいた足を止めた。黒い靴音が、葉末へ呑み込まれて跡形もなく消えてゆく。
彼が歩を止めた先には、巨大な藤の樹が袖を広げて立っていた。その腕の下にそっと隠れるように、一つの脚立と籠が置かれている。彼は黙って私に籠を持たせると、慣れた足取りで脚立を登り、懐から大きな時計の針を組み合わせて造ったような鋏を取り出した。
「この庭の花は、みんな貴方が?」
パチン。音がして、葡萄の房に似たそれが彼の手へと落ちる。
「庭師ですから」
パチン。彼は花弁を傷つけない花の扱い方をこの上なく知っているのだと、その手つきから知ることができた。けれど、彼はその命を摘み取っているのだ。
「それじゃあ、貴方は――害意を以て花を育てておられるのですか?」
奥様が召し上がる、この花達を。
パチン。彼は美しいままに腐敗を知らず食される運命にある死体を、私の腕の籠へ落とした。そこにはきっと、全ての答えがあっただろう。けれどただの調理師であり、死化粧の言葉を持たない私には、それを解読する術がない。
「三つほど、お約束していただきたいことがあります」
まるで針の飛んだレコードのように今の瞬間にあった問いを飛ばして、彼は言葉を継いだ。
「一つに、食事にはこの庭の花を使うこと。
一つに、庭の花には調理以外で決して触れず、必要な時は必ず僕にとらせること。
そして一つに、貴女御自身の食事には庭の花を用いないことです」
彼はそれきり、何も云わずに花を屠り続けた。パチン、パチンと銀色の音に切り裂かれた朝靄は、けれどすぐに身を寄せ合って永遠のふりをしている。
昨夜、椿夫人が私のサンシキスミレを食卓に飾っていた花瓶も、調度こうした色合いの薄紫をした硝子細工だった。
彼が彼女にそれだけを食べさせたかったのか、彼女が彼のためにそれだけを食べるのかは、私にはわからない。わからないけれど、私は、自身が腕に抱く屍が持つ意味の一端を、そこに見たのだと思う。
私は唐突に、じっとりと朝の湿気に濡れた鼠色のスカートが惨めになった。椿夫人の白い朝と、庭師である彼の黒い夜の隙間で漂う、曖昧で寂しい自分を自覚した。
ぼたりと藤を伝い落ちた紫雲の欠片が、弔うように腕の中の死体を濡らしていった。
パチン、パチン。屠殺の音はまだ消えない。
はたりと彼の腕をすり抜けて落ちてきた蝶が、呼吸をするように一、二度翅を瞬かせて、動かなくなった。
真昼の月の浮かぶ空があんまりに淡く春に色づいていたので、昼食は瑠璃唐草のココットに決めた。私は瑠璃色に煙る思い出色の花を注文するために、蝶の模様の入った便箋と鉛筆を手に、裏庭へと出た。
椿夫人と会話をすることと、屋敷の中を整えること、そして庭を歩き回ることの他に娯楽のない小世界を把握するのに、そう多くの時間を要することはなかった。椿夫人は神出鬼没で唐突に降る天気雨のように気紛れだったから、彼女は私の時間を長く使わなかった。「貴女のお仕事は料理を作ることですよ」と微笑まれれば、そう多くの家事をこなすこともできず、私は大半の時間を庭を歩くことで消費していた。気分は、マーケットで夕飯のメニューを考える母親と似通っていた。
椿夫人の庭には節操がない。けれど、だからこそ自身の居場所を正確に知ることは容易だった。傍らに水仙があれば、私は池の端にいる。足下に鈴蘭があれば、私はそこより先へ行ってはならない。同じ花は別の場所には咲いていないから、私はただ一つしかないその場所がどこであるかを迷う必要がない。
夕食、明日の朝食、そしてティータイムのメニューを考えながら、周囲に目を配る。五月の盛りを終えて夏へと移行する庭は、少しばかり疲労の濃度を増して見えた。初夏の空気はいつも人肌の温度で、凛と咲くには暑すぎるのだ。
病んだ薔薇園を抜けて、倦み疲れたものと咲き初めたばかりのものが交互に並ぶ雛罌粟を通り過ぎて、果実を実らせることを許されずに椿夫人に食された花梨の樹の下を歩く。四方へ四季を散らばらせた時間の中心に、彼の小屋はある。
私は彼の小屋へと辿り着くまでに必要と判断した花を記したメモを、戸口に取り付けられた箱へ入れる。風でメモが飛ばぬように蓋が付けられただけの、素っ気はないが気遣いのある木製の箱だ。こうすることで、昼には瑠璃唐草が、ティータイムと朝食にはその時々に必要な花が、台所に届けられるという仕組みだった。
「あの花が欲しいわ」
蜜を啄むハチドリの鳴き声のような声が聞こえたのは、春と夏の境目の曲がり角でのことだった。
「貴方の作る花は昔からとても美味しいけれど、昔はもっと甘かったわね」
ささやくようなその声を消さぬために跫を殺して、私はそっと夏の隙間から春を覗いた。
老いた吐息で最後の花弁を揺らす白い木香茨の向こうに、黒い死神と白い女神がいた。冬が春を空から引き摺り卸すように、死神は女神を抱き上げている。彼女はほっそりとしたたおやかな腕を、小高い崖の上に咲く躑躅の茂みへ埋めていた。
「甘い方がお好きでしたか」
「いいえ、いいえ、もっと苦くてもよいくらいですよ」
椿夫人は緩やかな手つきで庭師の髪を撫でると、もう片方の手で一輪の躑躅を口元へ運んだ。ふうっと呼吸するように震えた花弁に、私は椿夫人がその蜜を吸ったことを知る。その甘やかな唐紅の煙草の紫煙は、私のもとまで漂って、くらりと脳髄を溶かしていくのがわかった。
木香茨の淡い葉末の合間にしか見えない二人の姿は、赦されぬ逢瀬を愉しむ男女のようでもあり、完全なる姉弟のようでもあった。
「貴方が最初にくれた花を覚えているわ。とても美しかった白い椿よ。貴方はお父上に椿の枝を折ったことを怒られたわ」
「貴女は落ち込む僕の前で椿を食べて、ちゃんと受け取りましたと云ったんだ。そうして父には、椿なんて貰ってないと、きっと猫が折ったのだと弁護してくれた」
「あら、そうだったかしら?」
ころりと軽やかに小首を傾げた椿夫人とは逆に、庭師の声はどこか、いつにも増して土を湿らせて聞こえた。
葉末の下に覗く彼の足下に、ほとりと微かに空気を揺らして躑躅の頭が落ちた。椿の死骸にも似たそれは、けれど自殺体ではなく他殺体だ。それでも、椿夫人に魂を吸われたその花が、彼女を恨んでいるだろうとは思えなかったけれど。
「もっと苦いお花を作ってくださいな。苦くて、哀しくて、辛くなるようなお花を。それは貴方にしか作れない物なのですから」
黒影から滑り降りた女神が、自身の影を置いてけぼりにして屋敷への道を歩き始めた。一歩ごとに、その跫を遺すように躑躅が落ちる。
転々と血痕のように続く跫を丁寧に踏みながら、影は小さな歩幅で自身の主を追った。
私には、その踏み潰された花がとても美味しそうに見えてどうしようもなかった。その日の昼食ほど、私が椿夫人に捧げた花料理の中で心のなかった料理はないだろう。
椿夫人が足跡の代わりに遺したそれと同じように、躑躅の頭は音もなく私の爪先に落ちた。彼は、叩かれた私の手の甲よりも赤く燃える眸で私を睨みつけている。変わらず言葉は少なく、けれど、彼の湖は今や地獄のように煮えたぎっていることがわかった。
ついに私の唇に触れることなく命を終えた花を、彼は黒い死の爪先で潰すこともせず、ただ忌々しげに見下ろしただけだった。
「奥方様に云って、貴女を解雇してもらいます」
燃えるような憎悪に震えた声が、私を詰ることもせずに拒絶する。私に向けられた背は一つの意志を強固に主張し、遠ざかるそれを追いかけることすら赦してはくれなかった。
果たして、私の首を挟んだ鋏を退けたのは、椿夫人その人だった。
「貴女がいなくなったら、誰が私の食事を作ってくれると云うの?」
さも当然とでもいう風に、椿夫人は金雀児の金糸雀の羽のような花弁を飲み下しながら笑った。相変わらず、彼女の背には奇妙に輝く中庭が広がり、その柔らかな威光を示すように私に影を注いでいる。
金雀児のタルトは椿夫人の気に召したようで、いつもはお茶の時間は影が私の背に届くまでかかるのに、今日はまだ私の手にも届いていなかった。
「以前は彼が作っていた、と」
「ええ、そしてその腕はあまりよろしくなかったの」
「それ以前は、どうしていたんですか?」
私は椿夫人の背後へ歩み寄ると、唐草の絡みつく空の皿にもう一切れタルトを載せた。丁寧に編み込まれた髪の幾筋かが、鉄砲百合の襟のように優雅な項で朝露の輝きで光っている。
「そう、以前は乳母が作っていました。その前には酷く神経質な料理人もいたけれど、そう、最後には母よりも私を知る彼女と、私の素敵な庭師さんしか残らなかったの」
真珠のように項に浮いた脊椎が、緩やかに蠢動して椿夫人の声を言葉に変えている。
「なぜ、みんないなくなってしまったのですか?」
あの、庭師を除いて。
私はそっと薄い表皮の下で蹲っている真珠の数を指で辿るように、なんの悪意もなくそう問いかけた。
「殺してしまったからですよ」
椿夫人も、邪気のない声で答える。優美に湯気をくゆらせる紅茶に、彼女の伏せた眼差しが映り込んでいる。固い蕾が、凍ったように鈍く冷たく光って見えた。
「どなたが?」
「私が」
カチリと小さな音をさせ、椿夫人はタルトの薄皮を切り裂いた。カチリ、カチリ、時計の針に似た音で、銀の光の塊は着実にタルトをバラバラにしてゆく。
私の舌は妙に乾き、椿夫人の紅茶を欲していた。決して口にしてはならないと、私とはいつも分けられるポットから注がれるそれを。
「紅茶を戴いても?」
私は素直にその欲望を口にした。まるであの躑躅の唐紅に誘われたその瞬間と同じように、時の音に揺らぐ血の海は蠱惑的に私を誘惑している。
ゆるりと、真珠の脊椎の上を彼女の髪が往復した。
「いいえ、私は貴女を殺したくありませんもの」
このタルトはとても美味しいわね、と、椿夫人は軽やかに笑い、唇の端から金雀児を零した。白椿から零れ、張り付き、そしてまた呑まれてゆく金糸雀の羽毛。椿夫人の体内には、花の死がある。
「貴女は彼の妹によく似ているわ。そう、あの子も花やケーキが大好きで、可愛い声で私の食事をねだったものよ。一番に好きだったのはキッシュで、それが彼女の死因でした」
椿夫人は一息に紅茶を呷った。まるで、私の手から毒を遠ざけるように。
「お母様によくそのことを叱られていましたけれど。ええ、蝶の標本を作ることの好きな娘でした」
「彼女も、奥様が?」
「ええ、もちろんですよ」
籠の蝶を愛おしむ声音で云って、過去の屠殺者はゆったりとカップを皿に置き、その音で以て会話にピリオドを打った。
私は深く椿夫人に一礼をして、羽毛の一片さえ残されなかった皿を下げた。テーブルの上には、私が贈ったサンシキスミレが病んでもなお飾られたままだった。
備え付けの机の抽斗を引いたのは、その日が初めてだった。何故か確信に富んでいた心で引いた重い箱から、ざらりと錆び付いた音がする。茶色い染みに冒されながら紙魚とともに眠る紙の小箱を開くと、そこには赤錆た肉の隙間から銀の骨を覗かせた針があった。細い、心臓を刺したとしてもその痛みに気づくことさえないだろう針だった。
きっと、この部屋の前の主はとても慈悲深い人だったのだろう。慈悲深く、蝶を葬ったのだ。
月の指先のようにほっそりと輝く針を一本手に取り、私は中庭へと出て行った。蝶の亡骸のある場所を、私は知っていたからだ。
林檎の真白い花が咲いていた。彼はぱちりぱちりと実を結ぶことなく美しいままに朽ちてゆく彼女たちを摘み取り、籠に落としている。私が脚立の下に立つと、彼はちらりと私を見たきり、すぐに職人の手で花を摘む作業に戻った。
私は足下に置かれていた籠を拾い上げ、彼が落とすレースの束を受け止めた。喪服の職人はそこには少しも関心を示さず、ただ、この花たちの墓場は籠の中の他にはないとでも云うように、黙々と花を落とし続けた。
「なにを作るつもりだったんですか?」
ぱちり。彼が花を狩る。
ぱさり。それは私の手に落ちる。
「色のない花は、なんにでもなれます。ライスやパスタに色をつけることなく、そっと気づかぬ内に寄り添っていることができます。ただただ傍にいることができます」
私は、白いスカートの裾を汚さぬようにたくしあげ、そっと朝露に濡れた芝の上に膝をつく。彼が籐の棺に落とし損ねた花たちが、弔うように蝶の死骸を包んでいた。翅の根本も、最も蝶が生きていると感じることのできる脈の近くを掴んでみても、そこに拍動はない。
ぱさり。私の頭の上に、花が落ちた。
「今夜はキッシュにしましょう」
地面に近い場所から見上げた彼は、逆光に照らされてますます死の影を濃くして見えた。哀憐の情が、静かな頬に浮かんでいる。
「おまえはつまみ食いをしないように」
まるで兄が妹に云うように、あるいは、父が娘に云うように、甘く厳しく絆された説教と一緒に、一輪の花が落ちてくる。
「もちろんよ」
私は少し、明るい声で云って、柔く笑って彼に返した。
手の中の蝶の死骸は、部屋の壁に磔にした。
彼が花を摘み、私が料理をし、椿夫人が食べる。ささやかな花盗人の茶会を断罪する声はなく、そして静かに庭は時を移ろわせる。
書斎にはあらゆるレシピ集、あらゆる住人たちの日記、あらゆる時代の記録が置かれていた。かさかさと紙魚の泳ぐ音に耳を澄ませながら、私は一冊のノートを引きずり出し、湿気た埃の香りを散らして、目当ての頁を探す。
不思議なことには、まるで頑なに真実から目を逸らすように、書斎には一冊も花の図鑑が置かれていなかった。紙魚がすべて平らげてしまったかのように、ぽっかりと口を広げたどっしりと重たい書架は、そこになにが在ったのかを教えてはくれない。たっぷりと一分の隙間もなく本で満たされた本棚の森の中、その書架だけが空腹を抱えていた。
私は数冊のレシピとノートを抱えて、私の小さな城へと戻る。そろそろ、今日の昼食を作らなくてはならない時間だった。
台所のテーブルにレシピの背を置いて、一つ二つ、頁を開く。憂鬱で怠惰な雨音が、ゆったりと空間を満たして世界を水底に沈ませてゆく。海底神殿の台所で、私は昼食のメニューを考えているのだ。
朝に焼いた紫陽花のブレッドが、まだ残っている。残り物は普通、使用人が食べるか、城の外へと下って売り払われるものらしいが、この領域での約束事がある以上、私が食べるわけにはいかなかった。椿夫人は云った、「残りは昼食に出してくださいな」戸惑う私に向けて、「花弁の一片も残したくありませんの」つまり、私と彼女の利害は一致していた。けれど、私は不変ではいられないそれを、再びありのままに彼女に呈することに抵抗を感じていた。
はたり、私は本を閉じ、昨日買ってきたばかりの卵と牛乳を冷蔵庫から取り出した。作業はこの上なく単純であったと云っていい。ただ混ぜて、浸して、焼くだけだったのだから。
昼食のメインメニューは紫陽花ブレッドのフレンチトースト。体躯の割に健啖家である椿夫人のランチには、これでは少しばかり味気ないだろう。もう一品、なにかを作らなくてはいけない。
さてなにを作ろうかと窓から広がる庭を眺め、その夏へと移り変わってゆく舞台の中に、私は一つの影絵を見つけた。その死神の人形がまさしくこの台所へとやってくるところなのだと確信したとき、私は、すぐに自身がなすべきだった日常を忘れていたことを思い出した。
「料理のレパートリィがついに尽きましたか」
不吉な大鴉のように鈍い音をさせて台所へ滑り込んできた彼は、開口一番にそう皮肉を云って、どさりと籠を本たちの隣に置いた。はらり、一片零れたのは、強く甘く香る山梔子だった。
彼は有能だ。私が半分は日課である仕事、つまりは庭の散歩と料理に必要な花たちのメモを彼に届けることを忘れても、こうして旬の花を届けてくれる。まるで、私のそうしたそそっかしさに慣れきっているように対応する。けれど、私がメモを忘れたのは今日が初めてだった。
「昼食は?」
「もうできました。貴方も一切れいかが?」
自身の落ち度を誤魔化すように、半分だけ笑って彼にフレンチトーストを示した。心底から厭そうな顔をした彼に、今度は本当に笑みを零す。“私”はそうやってこの人に拙い冗談を投げるのが好きだった。
優美な気分で山梔子を手に取ると、芳香はより強く鼻腔から脳へと浸透していった。ゆっくりと、その香りが脳を溶かしてゆくのがわかる。
「まるで毒物ですね」
私はほんの戯れにそう云って、指の隙間を伝い落ちてゆく雨粒たちの残滓を散らした。ぱたり、ぱたり。黒々と茂る葉陰に咲いた彼女たちは、きっと真珠を纏った貴婦人のように美しかったに違いない。
ふっと、途切れた会話に気づく。唐突に増して聞こえた雨粒たちの弾ける音が、やけに透明に世界に満ちている。
彼は、どこか呆然とした、まるでたった今悪夢から自身の悲鳴で目覚めた人のような面持ちで、私の手の中を見つめていた。私の手の中の、愛らしい毒物を。
「毒だと、思いますか」
彼は訊いた。
「ええ、とても。脳の隅から溶かしていきそうな、硫酸よりも優しくて甘い毒です」
私は素直に答えた。
嗚呼、その瞬間の彼の表情を、私はどう云い表していいのかわからない。まるで恩赦を託宣された老いし人のように、彼は花弁よりもなお柔らかく、泣きそうに笑ったのだ。
死にたがりほど、この屋敷に咲く花は美味しそうに見えるのだと云う。それを迷信だと一笑に伏してしまうには、この屋敷の周囲に住まう死の気配は濃密だ。私はそれを過去の事象として、かつての住人が記録した日記の中にしか見ることはできないけれど、それでもそこに挟まれた新聞記事の量はいささか暴力的なほどだった。
ある日、老いて歩けなくなった屋敷の主人が死んだ。彼は水仙を食べた。
ある日、嫁と子供を一時に亡くした新聞配達員が死んだ。彼は枸橘を食べた。
ある日、モデルの少女を失った男性の画家が死んだ。彼は冬薔薇を食べた。
ともすれば、とるに足らない日常的な殺人であり、自死だった。新聞の記事も、私がこの屋敷へ来るきっかけとなったそれと変わらぬほどに地味で、小さく、およそ主張と云うものとは無縁の、ささやかなものだった。
彼らは静かに死んだのだ。なくしてしまったものたちに思いを馳せながら。咽び泣いていただろうか。朝露に濡れて凍えてはいなかっただろうか。花弁が、喉に張りついたりはしなかっただろうか。
簡素な文章を読む限り、花は花のまま、調理をされていた形跡はない。残念なことだと、私は思う。私が最後に口にする花であるならば、とびきり美しく、美味しく、甘く苦い毒であるべきだと思ったからだ。
初夏を過ぎ、グロテスクな首をキリンのように伸ばし始めた向日葵の大きな瞼が、青く茂って庭から私を見つめている。窓越しに見返すその眸が開かれたならば、そこにはきっととても美味しそうな花弁があるのだろう。
私が物心ついた時、父はすでに一人で花屋を経営していた。そして私も、必然的に花屋になった。母を目にしたことは一度もなく、父も、彼女の存在を私に感じ取らせたことはなかった。ともすれば、私は容易く母というその概念を忘れることができたのだ。
小学生の頃、私が初めてその存在を認識したのは、学校帰りの山茶花の咲く道端で、友人の母に出会したことが原因だろう。
友人は、私のことなど忘れたように跳ね歩き、その女性に抱きついて歓声をあげた。
「おかあさん」と呼ばれたその女性は本当に彼女の母親だったのだろうかと、今でも私は疑うことがある。なぜなら、その人は酷く山茶花に似た女性であったからだ。きっとあの花が化けて彼女を騙しているのだと、そうして彼女も花にしてしまうのだと、私は悪意なく信望していたように思う。
友人は私に大きく手を振って、その母だという女性と帰っていった。柔い薄紅色に世界が染まる夕方のことで、山茶花の垣根を傍らに、私は二人分の背中を見送った。
それきり、彼女とは会っていない。彼女の行方は杳として知れず、母だと名乗る女性も現れることはなかった。
彼女の行き先を、私だけが知っている。きっと彼女も、山茶花にされてしまったのだ。
その時から、私の母親の偶像と山茶花の眩惑は強く結びついて離れない。私が翌年の誕生日に父にねだったのは、山茶花の鉢植えだった。
「実家のお花屋さんはどうしてらっしゃるの?」
朝顔のサラダを優雅に口に運びながら、椿夫人は私を雇い入れたその日以来初めて、私の素性に関する質問をした。さたさたとやむ気配のない雨が降る、灰色の朝食の席でのことだった。
朝顔を調理するならば、それは朝でなくてはならない。特に指示されたことではなかったが、私がそう判断して作り上げた今朝の朝食に、椿夫人は機嫌をよくしていた。そうした私の些細な気遣いを褒め、認めてくれる椿夫人に、私は子供のように自尊心を満たすことができる。
だから、そうして私自身に関する質問を投げられるまで、私と彼女がつい先の春まで他人であったことを、すっかりと忘れてしまっていたのだ。
「父が亡くなったとき、そのまま畳みました。今はもう、建物だけが残っています」
小さな店だった。一階は六畳程度の、腕を広げればすぐに花に触れることのできる造りになっていた。無造作と云えそうなほど無秩序に並べられた花の隙間に、小学生の私はよく隠れていた。そうしていると、父はその小さな茂みの中からすぐに私を見つけだしてくれたから。
私たちは二階に居住していた。あまり広くはないベランダには、プランターに植わったサンシキスミレやガーベラが住んでいて、彼女たちは私と父の洗濯物よりもずっと優遇されていた。お陰で、私の服は年中青く濡れた香りを放ち、父のエプロンは一度として石鹸の香りを知ることはなかった。
洗濯石鹸と柔軟剤の香りが微かに匂う灰色のワンピースを揺らして、私は椿夫人のカップへ紅茶を注ぐ。ありがとう、と、蝶の羽音のような囁きで椿夫人は礼を云う。彼女はきっと、花以外の香りなど知りもしないだろう。
入れ替わりに、空っぽになったサラダの皿を下げる。銀色のカートに載せられた梔のサンドイッチを椿夫人の目の前に出せば、紅茶の香りなど霞むほどの目眩みを起こす甘い香りが、私を食べてとばかりに立ち上った。
「お父様はなぜお亡くなりになったの?」
私が銀と白の隙間を往復し終えると、紅茶の表面を覗き込んだまま椿夫人は訊ねた。彼女の新芽の色をした瞳が、赤く濡れて揺れている。
椿夫人の声には悲嘆も哀れみも申し訳なさもなく、ただの朝食の席での世間話の軽さしか持ち合わせてはいなかった。そこには好奇心さえなく、ただ、私が誰かの日記を読む時のような、事象を観測する静かな眼差しがあったように思う。
父が死んだのは、去年の暮れも近づいた寒い日だった。
私は誰も来ない花屋の店番をし、父は二畳ほどしかない狭い裏庭で売り物ではない花の手入れをしていた。私が幼い頃にねだった山茶花は、ずっとそこに住んでいた。
低温に抑えられた店の中、私は自身だけを熱帯植物を生かすよう石油ストーブで暖めていた。店の一番奥に備え付けられた、レジと作業台の隙間でのことだ。
裏庭とレジとの間にある小部屋には、簡易キッチンがあった。しゅんしゅんと噴出する直前の間欠泉じみた声をあげたストーブ上のやかんをおろし、キッチンの一口焜炉の上に置く。そのついでの流れで、私は父にお茶はいかがと伺いを立てるために、裏庭への扉を開いたのだ。
「花を抱いていました」
「花を?」
椿夫人は紅茶から視線を上げると、絵本の続きをねだる子供のように小首を傾げて私を促した。
「山茶花の植木鉢でした。父は、それを両の腕に抱いて座っていました」
その日の朝まで、山茶花は目一杯に咲いていた。私も父も、その鉢にだけは特に気を配って、愛していたからだ。
だから、なぜ、彼がそうして花のすべての首を斬り落としたのかは、わからない。
彼の死体は山茶花の鉢を抱き、山茶花の花たちを侍らせ、そのうちの一輪を口にして目を閉じていた。唇からこぼれる程度の、浅い口づけだった。
椿夫人は私の独白じみた話を、ラジオの天気予報に耳を澄ませるようにして聞いていた。彼女の手にしたサンドイッチの隙間から、薄く味付けされた梔が落ちる。
「父が最期をともにした山茶花は、丁度、梔の花のような白さをしていました」
細い蔓のような椿夫人の指が、サンドイッチの腹を押し潰す。
「それはきっと、とても美味しそうな白さだったのでしょうね」
椿夫人はうっとりと云うと、かぷりと一口、潔癖な白のサンドイッチを食べた。
彼女の手からこぼれ落ちた花弁は、やはりあの日の、山茶花の色とよく似ていた。
薊のようなささやかな花でさえ、ここでは固有の場所を与えられる。なにものにも踏み潰されることなく、きっちりと分け与えられた花壇の中で、不可侵に安堵の息を吐きながら咲くことができるのだ。
私は夕食の詰まったバスケットを腕に、夜の庭を歩いていた。反魂草のおひたしとリコリスのオムレツの片手間に作ったもので、その中には一つの花も紛れてはいない。なぜなら、私は花を食べることを許されてはいないからだ。
毎食、椿夫人の食事を作ると同時に、自分の食事も作るようになって久しい。椿夫人はいつも食堂の暖炉の上にかけられた銀縁の皿のような時計で、きっちり決まった時間に食事をとる。だから私はその時間丁度に彼女に食事を提供できるように作り、それを作り始める前には自身の食事を作り終えているようにする。そうして彼女の食事が終わったら、すぐに自分の食事を開始するのだ。静かな、一人きりの台所で。
べたつく風は草木の隙間に引っかかり、その声を響かせるほかには無力だ。私はゆらゆらと揺れるランプに映し出された影だけをともにして、季節の中心、あらゆる時間の奥底に佇む小屋を目指す。鳥も鳴かない夜の庭は酷く静かで、そのために私の足は少しだけ歩調を速めていた。
その日、私は初めて彼の家を夜に訪れた。
コン、コン、と軽く木の扉をノックする。彼の家は呼び鈴も、ドアノッカーもなく、彼は誰も待っていなかった。だから、彼がそこに立っている私を見て酷く怪訝な顔をしたのも当然だっただろう。
「こんな夜更けにどうしました?」
「夕食を作ったの」
まるで勝手知ったる我が家に入るように、私は彼をバスケットで押しのけて、二間きりの小さな小屋へ入っていった。彼はそれを引き留めない。その時の私が、誰であるかわかったからだ。
「安心して、花は使っていないわ。約束だもの」
冗談めかしにそう云って、部屋中央のテーブルにバスケットの中身を広げる。焼きトマトのチーズココット、ハーブオムレツ、それにチキンを少し。どれ一つとして、この庭で生まれた物は使われていない。
質素な部屋だった。簡易な薪ストーブ以外に空調はなく、それも夏である今は埃を被ったただのタオル置き場になっている。そのくせ、剪定鋏は玄関のすぐ横に、大きさごとに几帳面に掛けられている。食器棚には空白が目立ち、しまい忘れたままの皿はなぜかタンスの上に置かれている。かと思えば、その隣には丁寧にヒトの手の油を吸った花の図鑑が佇んでいるのだ。彼が大事にしているものと、そうでないものの違いが、一目で知れてしまう部屋だった。
彼は食器棚の抽斗から、辛うじて幾本か残っていたらしいプラスティックのカトラリィを取り出した。そう云えば、皿を傾けないようにバスケットに入れるのに夢中で、ナイフとフォークは忘れていた。そんな私を、彼はそうだろうと思ったと云って笑う。
彼は私を知っている。
私も彼を知っている。
知っているから、当然のように、私たちは小さな祈りを捧げて食事を開始するのだ。
「夜の庭は迷いそうね。花の色がまるで見えなくて、匂いだけで道を辿るしかないの。白いふわふわしたものが見えたから、てっきり小鳥でも眠っているのかと思ったら、カラスウリの花だったわ」
「この庭に鳥はいない。いるとしたら、精々蝶くらいのものだろう」
「ええ、知っているわ。お陰で、朝は鳥の声に起こされなくてすむもの」
私が八を喋り、彼が二を返す。そうして成立する静かな晩餐は、ランプの薄暗いゆらゆらと微睡む明かりの中で、夏の温度に溶けてゆく。
隙間の多い安普請の家とは云え、風の通りは酷く悪く、遙かな香りの立ちこめる庭の心地よさは入ってこなかった。窓の一つも開くべきだろうか。蝶以外の虫をほとんど見かけない庭の中ならば、それも現実的だろう。そう思い、窓を見やって、唐突に気づく。
「ここから屋敷が見えるのね」
ぼんやりとランプの漏れ出る明かりに照らされている場所だけが、今の庭のすべてだった。それ以外はまったく深い夜陰の海に沈没し、汐の華さえ咲かさずに眠っている。星さえも鬱蒼と空を覆う木々の葉末の布団をかけて眠っている中に、ぽっ、ぽっ、と屋敷の窓に点る不知火が浮かんでいるのがよく見えた。
私がここにいて、彼がここにいる。今、あの屋敷にいるのは椿夫人ひとりきりだ。彼女も、あの窓辺から私たちを見ることができるのだろうか。
彼は、静かに私の示した灯火を見つめていた。きっと、私の知らない夜にもそうしているように、祈るような、責めるような細い眼差しで。
そこにいるのは、私の兄ではなく、、父ではなく、彼女の庭師だったのだ。
「父さん、」
私が呼ぶと、彼はすぐにその言葉が自身を指し示していることに気がついた。
小さな家だった。私と父と、夥しい花だけが在る家だった。それこそが私の望む世界だった。
彼の静謐を湛えた夜の目が、頌えるように私を見つめている。
私は眠りの縁の静寂を裂かぬように、音を立てずに皿を片づけ始めた。ブリキでできた小さな流しに、私の皿と彼のカップを運ぶ。
酷く出の悪い水道は、花の隙間を縫う風のように細い音だけをさせるから、彼が皿を洗う私の背後でタンスの抽斗を引く音がよく聞こえた。
「貴方は椿がお好き?」
小さく、小さく、声を殺してクロゼットで泣く子供の声よりも小さく呟いた私の問いかけさえ、彼には届いていただろう。振り向いて、その答えを得ることをしなかったのは、私がそれを疾うの昔に得ていたからだ。
椿の花は、山茶花によく似ている。
私の愛する彼らは、彼女達を愛している。
その日、私は彼の隣で眠った。狭いベッドに大人が二人、子供のように身を寄せ合って。パラパラと夏の生温い雨が、無愛想で無骨なトタンの屋根を叩く音に、耳を塞いで。
月はなく、夜に浮かぶ不知火も消えた。浅い彼の寝息はどれだけ近くで耳をそばだてても、貝の中から聞こえる潮騒よりも小さくて聞こえない。カーテンのない窓から注ぐ雨滴の影が、涙のように彼の頬を流れてゆく。
ごおっと強く吹き荒ぶ風は、どれだけ庭の花を散らせたのだろう。できるだけ多くの花が泣きますようにと祈りながら、私たちは葉陰で雨を凌ぐ蝶のように震え、空が泣きやむのを待っていた。
椿夫人の食事量が目に見えて減ったのは、秋桜が緩やかにドレスを広げ始めた頃だった。
白いプレートにまるまる残された、クルマユリの酢漬けと、酔芙蓉とダリアのステーキを下げると、椿夫人は申し訳なさそうに眉を下げる。
「お加減がよろしくないのですか?」
それは今更な質問ではあった。私が彼女の食事量の現象に気づいたのは、今日のことではなかったからだ。
はじめに気づいたのは一週間前のことで、それから日に日に、彼女の健啖は目に見えて鳴りを潜めていった。本当なら、もっと早くそう問うべきだったのだろう。そうしていれば、私はこの重い皿を抱くことも、なかったのかもしれないのだから。
椿夫人は、百合の骨でできたような指で胸を抑えた。
「ええ、まるで心臓の花の種が芽吹いたように苦しいの」
それは、彼女の冗談の一つであったのかもしれない。けれど、毎日花を食べる彼女を知っている、そしてその調理をしている私には、少し笑えない冗談だ。
そんな困惑している私を余所に、椿夫人はどこか嬉しそうに、病的な透明さを持つ頬で笑う。ふ、ふふ、ふ、と、断続的で柔らかなそれは、唇から花弁を零すような儚さで私の耳を優しく打つ。
椿夫人は、今日も柔白色のドレスに、雲色のケープをかけている。砂糖菓子よりも甘く、誰にも触られぬまま本棚に眠る本よりも潔癖なその白は、まさしく花のもののように思えてならない。ならば、彼女の心臓に咲くべき花は、椿をおいてほかはないだろう。白くたおやかに花弁を広げる、散り際の椿に。
皿をカートに戻し、代わりに食後の紅茶を用意すると、椿夫人はいつもと変わらぬ所作で優雅にそれを口にした。彼女はどこもかしこも病的で、それは最初からなにも変わらなかった。そう、変わったのは、食事量だけなのだ。
「お口に合いませんでしたか?」
テーブルを挟み、私は椿夫人の目の前に座る。それが彼女が指し示した、私の特等席だった。
私たち以外には誰もいない食堂で、銀皿の時計がチクチクと時間を刺し殺す音だけが、私と彼女の会話の隙間を埋め、咲いたばかりのエーデルワイスのように眩しい白のテーブルクロスが、私と彼女の間を隔てている。
「いいえ、まったく。むしろ、以前よりもずっと美味しく感じられるくらいです。それをすべて平らげることができないことを、とても惜しく感じられるわ」
彼女は白く、嘘がない。彼女達との約束ゆえに味見のできない私には、彼女の感想こそがすべてで、それを疑っては立ちゆかなくなってしまうから、私はただ、従順に彼女の言葉を信じるのだ。
彼女の背から差し込む陽の量が、増えている。夏を過ぎ、秋を謳いはじめた庭先は、穏やかに金色を帯びて輝いている。夏の緑の暗闇を疾うに忘れた昼下がりの光が、椿夫人の影をテーブルクロスの上に敷いていた。その影は、以前に見たものよりもほっそりとしている。
「蝶の収集は捗っていまして?」
どくん、と、花の種が芽吹いたわけでもない心臓が跳ねる。さわさわと風に揺れる葉末の音が、脳の内側いっぱいに広がった。
「……もうすぐ、箱がいっぱいになります」
「あら、素敵ね。できたら是非見せていただきたいわ」
からりと乾いた舌はもつれ、彼女の無邪気なお願いに答えることはできなかった。
そう、無邪気なのだろう。彼女はすべてを知ってさえ、きっと悪意なくそう云っているに違いない。
椿は白く、腐りきるよりも前に、首から落ちてしまうから。
「晩餐は軽めのものをお願いします。どうか私に、貴女の料理をすべて食べさせてちょうだいね」
椿夫人は花を手向けるようにそう云うと、紅茶の飲み干されたカップだけを残して食堂を去った。
彼女の影の痕跡は、テーブルクロスの白に塗り潰されて消えてしまっていた。
そこはもう、私の部屋であって私の部屋ではなかった。なぜなら最初からその部屋は、私である私に与えられたものではなかったからだ。
私が自室で過ごす時間は決して多くはなかったけれど、それがゆえにゆっくりと、着実に、丁寧に、死は埃のように降り積もっていた。青白く黎明の注ぐ早朝、あるいは、赤黒く黄昏の垂れる夕方、私はいつも、凍った翅を壁に打ち付ける。
林檎の花の饗されたその日から、彼は時折、私に蝶を届けるようになった。それはとても不規則に、いつともどことも限らずに私の手元に届く。たとえば、目覚めた朝の窓辺や、冷たいキッチンのシンクの角。彼の家のポストの中に落ちていた彼女は、まるで私たちのために身投げをしたようだった。
彼女達は決して、私のもとに生きて届けられることはない。だから私は一度として、彼女達が羽搏いているところを目にしたことはない。紺瑠璃の、翡翠の、瑪瑙色の翅が太陽を反射してひらめくのは、いつも植物たちの下で静かに頽れている時にしか見ることはできなかった。
机の中には、彼女達を不変に繋ぎとめるために必要なもののすべてが揃っていた。ささやかな死の寝台である展翅台があり、彼女達に永遠を注入するための注射器があった。けれど私以外に、それらの持ち主はいなかった。
彼女達の肩胛骨の中心に針を立てるとき、私の指が震えないことはない。彼女達はきっと、花の蜜を吸って死んだからだ。その翅が椿のように柔い白であるときなど、いっそおぞましいまでの恐ろしささえ感じる。
それはとても不思議な感覚だった。なぜなら、私は調理という直接的な凶行を成しているときには、決してそのような恐れを感じはしなかったからだ。
翅が欠けていても、脚が四本しかなくても、触覚が折れていても、私は彼女達をすべて平等に壁に打ち付けた。
はじめは窓のある壁に、次に机のある壁に。
彼女達の名前も知らない私には、翅の大きさや色数で刺す場所を決める資格はない。だから私が気をつかうのは、殊更に、彼女達のそれぞれのスペースが侵されないこと、つまりは、彼女達の隙間がきちんと等しく開かれていることだけだった。しかし、それは難しいことではない。なぜなら、細く小さな穴はすでに壁という壁に穿たれており、私が刺す針たちはいつもそこにぴったりと収まっていたからだ。まるで、そこが自身の本来の居場所であることをずっと以前から知っていたかのように。
窓のある壁が一杯になったのは、夏の終わり頃のこと。気温の高さと彼女達の死骸の発見頻度は比例するので、それにはたくさんの時間を要することはなかった。壁の角に咲いた最後の一匹は、絞首刑に処されたヒトのように頭を垂れた向日葵の下だった。
机のある壁が一杯になったのは、冬の終わりが近づいた頃のことだった。彼は蝶を見つける天才で、私がどれだけ散歩がてらに一生懸命に庭を覗いても見つけられない彼女達を、しっかりと一日一匹は見つけて私に届けてくれた。「おまえのために上手くなったんだ」と、不本意そうに語る彼は、きっと私がそれをどれだけ嬉しく思ったか知らないだろう。いつしか蝶を展翅する私こそが、私であるべき私になっていた。
そして、山茶花の季節は過ぎ、沈丁花のスープを私は作る。
椿夫人は彼女の歴史を斯く語る。
「この家は代々私の家系に伝わってきたものでした。それにはもちろん、あの庭も含まれます。
何年も、何十年も昔から、私たちは庭に花を植え、育て、そして時にそれを売りながら生きてきました。お得意さまは遠い場所に住まう貴族や王族ばかりで、彼らが花を買い求めると、そのすぐ後には別の貴族や王族が亡くなったものだそうよ。ええ、ええ、寝物語に聞いたお話ばかりですけれど。
私が花を食べ始めたのはいつだったかしら。もうとても昔のことだから、よく思い出せないの。でも気がついたら彼は私のすぐそばにいて、私にお食べと花を差し出してくれていたのよ。それがとても、ええ、あんまりに美味しかったから。私は嬉しくて、幸せで、それをみんなにも分けてあげようと思ったの。
けれど、誰もそれを許してくれなかったから。私はある日、素晴らしく特別な、誰にも平等にケーキの配られるその日、キッチンの大きなボール一杯に入っていた卵の中に、花を一輪落としたのよ。お気に入りの白い椿の花で、それはすぐに取り除かれてしまったけれど。
その日の夜に、誰も彼もが平等に死んでしまったわ。風邪で寝込んでいてケーキを食べられなかった彼と、その世話をしていた乳母と、ケーキを食べた私だけを残してね」
蝋梅と蒲公英のクッキーを摘んで、彼女はそう歴史の幕を閉じた。残されたのは、いつも通りの不変の静寂と、その歴史には登場しなかった私、そして歴史の幕の外へ閉め出されてしまった椿夫人だけだった。
晩餐の後の穏やかなひとときに、銀皿の時計がコチコチと水を差す。私は椿夫人がテーブルの上に広げられた千紫万紅の庭に満足をし、眠りの扉に手を掛けるのを待つ。
彼女の百合の骨と化した指がすべての花を摘んでしまうことを辛抱強く待ちながら、私はけれど、その一瞬が来ることを惜しんでもいた。
「蝶は、あとどのくらいで壁を満たしそうですか?」
その瞬間、私の心臓は銀の細い針に貫かれた。それはとても冷たい真冬の月光の銀で、私の時間を縫い止める。
椿夫人は悠然と変わらぬ笑みを湛えて、柔らかく、優しく、赦すように私を見つめている。私はただ、ぬるく温度を持ち始めた春の香りの中へ、冬の凍えた息を吐く。
「もうすぐ、すべて埋まりそうです。きっと今年の夏の終わりには」
嗚呼、なにを驚く必要があっただろう。彼女はずっと、私が生まれたその日から、私のことを知っていたはずなのだから。私の趣味が蝶の標本作りであることを教えてくれたのも、彼女だったのに。
最後の壁には、まだ一つの穴も穿たれていない。まっさらな、不完全な壁のままだ。私の部屋が完璧な標本室、完全な彼の妹の部屋になるのは、そう遠いみらいのことではないだろう。
「楽しみにしているわ。ずっと、ずっと」
椿夫人は最後の一枚のクッキーを摘んで、夢の中へと出掛けていった。
私はその夜、いつものように彼を訪ね、そして一匹の蝶を貰った。桜色の翅をした、儚く小さな蝶だった。
私がその朝、泣きながら目覚めたのは、きっとその日が最後であることを知っていたからだ。目が覚めてすぐ、頬を流れる生温い液体の冷える速度とその匂いに、私は秋がやってきたことを知った。
彼は私よりも先に目覚めていた。それはまったくいつも通りの出来事で、開け放たれた窓の向こう側の空の高さ以外には、前日と変わった風景は一つもないように見える。きっとこの庭の管理者である彼には、植物たちのささやかな声を聞き分けられるだけの耳もあるのだろうけれど、私には季節以外のものは不変であるように思えてならないし、そうであればいいとも願う。
そう、私は願っていたのだ。なぜならここには、母がいて、父がいて、兄がいて、私がいたから。
たとえ、私が一度として料理を作らなかった日はなかったとしても。
彼は窓越しに、静かに夜明けの屋敷を見つめていた。夜の葉末のあわいに佇む空の色をした眸が、ただ、ただ、朝に浸食されてゆく夜の終わりを見届けている。
彼が手を掛ける窓の縁に、一匹の蝶が呼吸していた。彼女は自身の脚で立つことも叶わず、ゆっくりと、死へと至る吐息をしている。ふう、ふう、と、そよ風が吹き込んでいるかのようにかろうじて開閉していたまっさらな翅の動きは、間もなくやんだ。
刹那に、私は錯覚する。彼が、その蝶を指の隙間に掬いあげ、細く巻かれた口を唇へ近づけたから。朝焼けに照らされた蒼白な劇場の中で行われたその儀式は、まるで、椿の花弁を食しているように見えた。
ぬるく冷えた床に足をおろすと、彼はすぐに私の起床に気づいた。
——おはよう、もう秋の空ね。
そう気安く声をかけることもできたはずなのに、私はそうすることはできなかった。
窓辺の小劇場から降り立った彼は、私の隣、密やかに逢瀬を重ねる兄妹のベッドに座る。寄せた肩だけが、今の私の唯一の温度だ。
「最後の一匹だ」
彼は睦言を吐くような、甘やかな水を含んだ土の声でそう云った。その土に吸収しきれなかった水が、彼の頬を伝って落ちる。私の頬をぼたぼたと流れてやまない、川のようなそれと似て非なるたった一滴の涙は、勿忘草の色を増してゆく空の光に弾けて消えた。
寡黙な庭師の土に乾いた手の中で、彼女は心地よさそうに身を横たえていた。
「おやすみなさい」
目覚めたばかりの私たちは、ひっそりと彼女に声を掛けた。
夜はすっかりと朝に浸食され、柔白色の雲がたなびいている。
彼女が待ちわびた新緑の複眼に映される夢を、いつか私たちも見られますように。そう祈りながら、私たちは、彼女の亡骸を椿の根の下へ葬ったのだった。
ごおっと恐ろしい嵐が山の向こうからやってきた次の日、私は扉の隣に掛けられた剪定鋏の中から、最も私の手に合ったものを選び取り、庭に出た。
昨日の雨がまだ木々の葉末に残り、時折、ぽたりぽたりと私の肩を濡らす。山茶花によく似た、白い椿の咲き乱れるその場所へやってきたとき、私の灰色のスカートは黒く変色してしまっていた。まるで、喪服のように。
ぱちり、ぱちり、と、椿の首を刎ねてゆく。落とした首は籠の中へ納め、一つだって傷をつけないように気を付ける。初めて手にしたはずのその鋏は、奇妙なほど私の手に馴染み、決して私を裏切ることはなかった。
一本だけ、私は椿を足首から切った。彼女だけは、他のそれとは違う役目を持っているからだ。
麗しき全能なる私の台所への道すがら、私は白い花を見かけるたびに足を止め、幾本かを切って籠へと納めていった。木は木の中に、花は花の中に、殺意は毒の中に隠した方がいいだろうと判断したからだ。
私はいつものように、朝食を作る。蜂蜜をたっぷり使ったバタートーストに、新鮮な可愛らしいベビーリーフを入れたサラダ、ソーセージとオムレツを少々。質素で豪華な、私の分だけの朝食だ。
同じ速度で、私は花束を作った。花嫁が持つブーケだって、こんなに幸福の匂いを放ちはしないだろうと思うくらいに、まっさらで香しい花束だ。夜の名残の雨滴が、茎と葉の隙間で弾かれては身を寄せ合っている。死体のように冷たい凍えた花たちに、私は朝と夜の狭間の色をしたリボンを結んだ。
屋敷のあるその街を離れたのは、私が椿夫人に雇われてから初めてのことだった。
決して遠い場所にあるわけではないのに、その要塞じみた灰色の立方体の建物は、私の来訪を拒絶し、善意も恩赦も遠ざけているように思えてならない。それなら、きっと彼には相応しい、緩やかな罰が与えられているのだろう。もう、その必要もないのに。
硝子越しに見る私の父、私の兄、私の共犯者は、殉教者の眼差しで私と相対した。面会時間は三十分と告げたきり黙りこくった看守が、彼と私の間で反射する硝子に映り込んでいて、少し邪魔だ。
彼はきっと、すぐに私の腕に抱えられた花束の意味に気がついただろう。
「椿が、ようやく綺麗に咲いたの」
去年と今年、二度しかその椿が咲いたところを見たことのない私には、それが最も美しく咲いていた時など知りようはずもない。それはきっと、彼女のすべてを見てきた彼だけが知ることのできるもので、私には一生手にすることのできない一瞬なのだろう。けれど、それは慥かに、去年よりも麗しく咲き誇っていたのだ。
透明な幕が私たちの邪魔をする。彼はとても愛おしそうに、泣きそうなほど幸せそうに笑って、夜の眸に愛を灯しているのに。私はその花束を直接彼に捧げることができず、ただ唇を噛む。
「今日のお昼はなににする予定だ?」
まるでもう、その花束を両手一杯に抱えてしまったかのように、彼は穏やかな大地の声でそう訊ねた。
「キッシュよ」
だから私も、まったく当然のようにそう答えて、彼のもとをあとにした。
長年の雇い主である女主人を殺害したとして、自らの罪を申告した庭師は、椿の花を口に詰めこんで死ぬだろう。まるで最愛のひとを、その腕に抱き締めているかのように、この上ない幸福の夢に浸りながら。
彼に宣言した通り、私は屋敷でキッシュを作った。昼と云うには遅い時間、材料の用意が間に合わなかったと言い訳をしながら、椿の花を具材にする。
誰に急かされるわけでもないのに、手早く作ってしまったその料理が並べられたのは、台所に粗末なテーブルの上でも、安普請の小屋の汚いテーブルの上でもなく、この家で最も上等なテーブルクロスの上だった。
椿夫人の影が伸びることのない昼下がりのテーブルの上には、キッシュと、紅茶と、銀皿の時計から降り注ぐ音だけが在る。誰もいない目前の席を目を凝らし、私はそこに在ったはずの愛を探す。
それは、山茶花ではなかったし、だからこそ、彼女は私の母ではなかったけれど。
私は銀のフォークとナイフでそれを切り分け、彼女の首を、心臓を、手足を翅を、すべて胃の腑へ落としてゆく。一片とて残すことなく、そこに在ったはずの愛も、憎悪も、憧憬も後悔も、なにもかもを喰らい尽くして飲み干してゆく。
幸福が、私の指先を痺れさせていった。陶酔が私の脳を恍惚に溶かし、ちかちかと真昼の空が瞬いて、銀の弾く光が幾重にも拡散して定まらない。急いで平らげたせいで味はろくに感じられなかったけれど、不思議と、私はその満腹感に満足していた。
嗚呼、とても眠い。怠惰な午後の陽射しと温度が、満たされた胃袋から流れ出る眠気に拍車をかける。もしも父が、兄が、この場所にいたならば、なんとはしたないことかと私を叱ったことだろう。そうして彼女は、そんな私たちをたおやかな笑みで愛でるように見つめていたのに違いない。
けれど、もう、誰もいない。この屋敷には、私しかいない。
ほたほたと流れ落ちるそれがテーブルクロスを汚しきってしまう前に、私は自室へと戻ることにした。食器の片づけは、少し眠ったあとにすることにしよう。それを咎めるひとは、どこにもいないのだから。
攪拌する光、おぼつかない足取り、急げと罵る時の声に怯えて泣く子供のように呼吸は荒れる。それでも変わらず、四季の庭は夥しい花を従えて、私の姿を窓越しに見つめている。
ようやく自室へ辿り着いたときにはもう、私には上下左右の感覚がなくなってしまっていた。
彼がこの屋敷をあとにしてから、私はすっかりと蝶を見つけるのが下手になってしまい、あれから一匹の蝶も増えてはいない。もとより、四面を埋め尽くしたこの部屋にはもう、その証は必要ない。けれど、嗚呼、どうしたことだろう。見渡す限り、部屋の中の至る所に彼女達はいた。四つの壁はもちろん、天井にも、床にも、机や椅子の上にさえ彼女達は磔刑にされていた。
立つことさえままならない私は、ベッドへと身投げする。彼女達を潰してしまうことを承知で、そうするより他はない。かさかさと微かな音をさせ、彼女達が頽れてゆくのがわかった。自分で壊して、殺して、永遠を剥奪したと云うのに、私にはそれが哀しくて堪らない。
やっと、私は目を閉じる。誰も抱き締めてくれない体に、自分の腕を巻き付けて。不思議なことに、私の指先には蝶の骨の一片さえ触れることはなく、それがまた、とても寂しく寒かった。
小さく咳こんだ。僅かに唇を伝って吐瀉物が吐き出される。それはぬめった胃酸の中で、白く光っている。
それを見た瞬間の多幸感をなんと云おう。私は痺れ、寒く、動けなかったけれど。それでも彼女はそこに、私の中にいるのだと。その淡雪の色をしたひとひらは、私に優しく教えてくれたのだ。それならもう、私は少しも寂しくない。
私はなおキツく自分を抱き締める。私の中にいる彼女達ごと自分を抱き締め、そして蛹ではなく、蝶になるのだ。美しい椿の下で眠る、一匹の蝶に。
椿夫人の密やかな自殺 @boneANDhoney
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます