エピローグ:影の中の観察者

事件から10年後の2032年3月。

佐々木誠こと高橋は不動産会社の支店長になっていた。


既に表向きは模範的な人物。ボランティアに参加し、困った人を助け、地域の評判も上々。同僚や近所からの信頼も厚く、結婚相手としても注目の的だった。


が、内面は変わらなかった。すべての行動は「実験」の一環。人々の反応、社会の仕組み、すべてが彼の研究対象だった。


支店長として、部下を使った「実験」に熱中。

ある社員には過剰な褒め言葉、別な社員には常に叱責。両者の働きぶりの変化を観察。

同じミスをした二人に対し、片方には甘く、もう片方には厳しく接して、その後の行動パターンの違いを記録した。


「人間の行動分析には最高の環境だ」と密かに喜んでいた。


東京出張の帰り、偶然、蒲田翔太記念基金の10周年記念式典のポスターを見かけた。蒲田の写真と、山田明美の姿が印刷されていた。


足を止め、じっと見つめた。

顔には好奇心と挑戦的な笑みが浮かんでいた。


「10年か…長いような短いような…」


考え込みながらホテルに戻り、式典の詳細を調べた。二日後、東京都内のホールで開催予定。


「行ってみようかな…」


突然思い立った。「どんな反応が見られるか。ライオンの檻に入るネズミみたいなもんだな」と思うと、背筋がゾクゾクした。「もし正体がバレたら…彼女の顔、周りの反応…どうなるんだか」


頭の中で「ゲーム」が始まっていた。危険な橋を渡るスリルを楽しむように。


二日後、黒スーツ姿で会場の一番後ろに座った。マスクと帽子で顔を隠している。

会場は満席。多くの人が蒲田を追悼し、基金の活動を称えていた。


壇上には山田明美。力強い声で語りかけていた。


「翔太が亡くなって10年。私たちはこの悲劇を無駄にしないよう、様々な活動を続けてきました。被害者支援、倫理教育、共感と責任の大切さを伝えるプログラム…」


佐々木は静かに聞いていた。「いつまで続ける気だ?そのうち疲れて投げ出すだろ」と冷ややかに分析していた。


「私たちは問い続けます。あの日、なぜあの男性は翔太の命を奪ったのか。法は彼を罰せられませんでしたが、私たちは憎むことを選びませんでした」


眉をひそめた。「おいおい聖人ぶるなよ。本当は俺に会ったら殺したいだろ」と内心で嘲った。


「代わりに問いかけます。どうすればこんな悲劇を防げるのか。それは他者への想像力、自分の行動が与える影響の自覚、そして勇気を持って正しいことをする姿勢ではないでしょうか」


大きな拍手。佐々木も機械的に手を叩いた。

しかし、胸の中で何かがざわめいていた。


式典後、出口に向かいながら、偶然、山田が来賓たちと話しているのを見かけた。10年の歳月は彼女をより美しく、強くしていた。


衝動的に近づいた。「話しかけてみるか。俺が誰か、わかるはずないしな」


「ありがとうございます。素晴らしいスピーチでした」


声を低くして言った。山田は振り向き、礼儀正しく頭を下げた。


「ありがとうございます。来てくださって嬉しいです」


彼女はわずかに目を細め、佐々木の顔を見ようとした。マスクと帽子で大部分は隠れているが。


「長く活動されてますね」


佐々木は続けた。山田は静かに頷いた。


「はい。でも、まだやることがたくさんあります」


「あの…犯人を…恨んでませんか?」


思いがけない質問が口から出ていた。山田は一瞬言葉に詰まった。


「恨むのは…簡単です。でも、それで何も変わりません。むしろ、『なぜそうしたのか』を理解したいんです」


予想外の答えに、佐々木は心の奥で何かが揺らいだ。「理解したい…?俺を?」その言葉が胸に引っかかった。

「俺のことなど分かるはずがない」と思うはずなのに、彼女の真っ直ぐな目が不思議と彼の心に刺さった。(これは…動揺?いや、そんなはずはない。これはただの観察なんだだ)と自分に言い聞かせた。


「そうですか…」


声が小さくなった。

会話を続けることができなくなった佐々木は、頭を下げて立ち去った。


その夜、ホテルの窓から東京の夜景を眺めながら、複雑な感情が渦巻いていた。


「あの女の目…俺を見透かしてるようだった」


自問自答した。「俺を本当に理解したいだって?バカげてる。知ったら絶対に許さないはず」


窓に映る自分を見て、笑った。冷たい、空虚な笑い。

一生懸命に筋肉だけで笑っているような不自然さだった。


「面白い実験だったよ、蒲田クン。あんたの死で、俺は色々学んだ。そして、この『実験』はまだ終わらない」


翌日、蒲田翔太記念基金に匿名で10万円を寄付することにした。贖罪でも反省でもない。単なる「新たな実験」だった。


「どんな気分だろう?被害者支援団体に金を送るなんて。自分を罰してるみたいで、皮肉だな…」


ベッドに横になり、天井を見つめた。心の中の闇はまだあった。だが、微かな亀裂も生じていたかもしれない。

彼自身は気づいていなかったが。あるいは気づいていても、それすら「実験結果」として冷ややかに観察するだけだっただろう。


高橋誠は、依然として影の中の観察者だった。そして、彼の「実験」はこれからも続く。


「次は何をしようかな…」


そう呟きながら、目を閉じた。闇の中で、次の実験を思い描きながら。


(完)

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偶然の共犯 月夜 宴 @Spooky00

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