第8話:残響
2027年3月、事件から既に5年が経過。
蒲田翔太記念基金は全国的な被害者支援団体へと成長していた。
婚約者だった山田明美は基金代表として各地で講演。「悲劇から希望を紡ぐ人」として知られるようになった。
基金は被害者支援だけでなく、学校での倫理教育プログラムも展開。特に「傍観者の責任」という、事件関係者でもなければ扱いが難しいテーマにしたワークショップが評判だった。
法学界でも「高橋事件」は重要判例として研究されていた。
刑事・民事責任の境界、法的には罰せられなくても倫理的に問題ある行為をどう扱うかなど、議論の的だった。
一方、「佐々木誠」こと高橋は、静かな生活を送っていた。
地方都市の不動産会社で課長にまで昇進。「誠実で信頼できる人物」と評判で、独身男性として近所の世話焼きおばさんたちからは「いい人がいるわよ?フフッ」と紹介話が絶えなかった。
表面上は社会に適応していたが、内面は全く変わっていなかった。むしろ「二重生活」の技術は磨かれていた。
会議中に「熱心に考えてます」という顔をしながら、同僚の反応を観察して内心で笑う。真剣な表情で頷きながら「またそのセリフかよバカじゃねーの」と鼻で笑う。
「感情って表情筋の動きに過ぎないんだよ」と日記に書いた。「コントロールさえできれば、誰でも騙せる」
数日後、佐々木はニュースサイトで「電車挑発事件5周年」という特集を見つけた。
「被告の高橋誠氏は姿を消しました。社会的制裁を避け、現在は新名前で別の場所にいると思われます。責任逃れだという批判も根強い」
佐々木は鼻で笑った。「俺ここにいるのにな」
鏡に映る自分を見た。かつての高橋の面影は、髪型とヒゲでうまく隠されていた。
5年間、自分の「前世」についての報道を定期的にチェックするのが習慣だった。
ある種の娯楽であり、自己確認行為。ネット掲示板で自分の事件について匿名で書き込むこともあった。「俺思うんだけど高橋って憧れちゃうよな」なんて書いて、レスが付くのを楽しんだ。
「まだ俺のこと忘れてないんだな。でももう見つからないさ。『高橋誠』は死んだ。完璧だ」
満足げにパソコンを閉じ、ウイスキーをぐいっと飲んだ。
翌朝、駅のホームで奇妙な光景を目にした。酔った中年男が若い女性に絡んでいる。女性は明らかに困っていたが、周囲の客は見て見ぬふりをしていた。
佐々木は立ち止まり、観察した。彼の目は冷ややかだった。まるでゲームプレイヤーが画面の向こうを見るような視線。
「またか。みんな同じだな。見てるだけで誰も動かない。あの電車と変わらねぇ」
突然、奇妙な衝動が湧いた。「実験してみるか…今度は違う役回りで」
大声で言った。「おい、あの男!女性を困らせてる!誰か止めないのか?」
周囲の反応は様々だった。驚いて佐々木を見る人、恥ずかしそうに目をそらす人。そして、二人の若い男性が前に出て、酔っ払いに声をかけた。
「ちょっと!やめてください。迷惑してますよ。」
酔っ払いは何か言い返したが、駅員が駆けつけて収まった。女性は深々と頭を下げ、佐々木と若者たちに礼を言った。
佐々木は謙虚な笑顔を見せながら、内心では冷静に分析していた。「最初に声を上げれば、他の人間も続くんだな。けど、その第一歩を踏み出す奴は稀。そして、最初の一声が『ヒーロー』扱いされる…いいなこれ」
仕事中も、朝の出来事が頭から離れなかった。新たな視点が開けたような気がした。
「俺って、観察者から、反応を引き出す側に変わったのかな…」
興奮を隠しきれなかった。「前は乗客の一人として反応しただけ。今日は自分から介入した。どっちも面白い実験だった」
この認識は新鮮だった。
電車事件では、犯人の脅迫に「反応」して他者の反応を引き出した。今朝は自分が状況に「介入」して反応を引き出した。「実験の新次元だ」
「もっと色々試せるかもな…」
窓の外の青空を見上げながら、佐々木の頭の中は次の「実験」のアイデアでいっぱいだった。
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