第7話:社会的制裁と再起への道

判決から一週間、高橋の人生は音を立てて崩れていった。


会社からは「信用失墜行為」で即日解雇。実際は、取引先からの猛抗議が殺到したからだ。「あんな奴の関わった仕事は受けられない」と次々と案件が流れた。


真由美も荷物をまとめていた。


「もう無理」


「待てよ、俺は無罪だぞ。裁判でも勝ったんだ」


「それがどうした?!」彼女は初めて声を荒げた。「あんたが何をしたか、私にはわかってる。法律がどうとか関係ないでしょ?私の夫は、あんなことする人間じゃなかった…あんたは、もう誠じゃない」


その夜、真由美は美咲を連れて実家に帰った。彼女が振り返らなかったことが、高橋には呆気なさを感じた。


2週間後、離婚調停申立書が届いた。文面を読んでも、特に何も感じなかった。


「そりゃあ、こうなっちゃうよね。ま、しょうがないか」


年末近くなり、今度はアパートの更新を拒否された。

大家は言った。「他の住民に迷惑だ。出ていってくれ」


友人たちからは一斉に無視された。電話は繋がらず、メールも既読無視。一人、昔からの親友だと思っていた奴が最後にメッセージをよこした。


「お前マジで頭おかしいな。二度と連絡すんな」


「クソが」高橋は携帯を壁に投げつけた。


テレビでは「電車挑発男」と呼ばれ、コメンテーターどもが勝手に彼の人格を分析していた。「共感性欠如」だの「反社会性パーソナリティ」だの、前から事件の度に出てくる決まった解説ばかり。


「なにが共感性欠如だ、バカかよ」


高橋は孤立していた。けれど、不思議なことに、それが心地よかった。誰にも縛られない自由。もはや失うものもない解放感。


年が明け、親戚の家に身を寄せていた。

叔父の古い別荘で、郊外の静かな場所だった。親戚の前では「反省している」ふりをした。「申し訳ない…迷惑かけて…」と頭を下げる。


だが一人になると、彼はノートに細かく記録していた。


「法的責任と社会的制裁——この差が面白い。法は守ってくれたけど、社会は俺を追放した。みんな建前と本音の使い分けが下手くそだ。そもそも人間なんて、どいつもこいつも偽善者なのに」


少しして、離婚調停に応じた。争う意味もなかった。

慰謝料と養育費の支払いに合意。「せいぜい使えよ」と内心で毒づいた。


だが、完全に過去から逃れるには、さらなる対策が必要だった。

どこへ行っても世間から追われるような状況はさすがに厳しい。


「あとは名前を変えるしかねぇな…」


戸籍法107条。名前の変更には「やむを得ない事由」が必要だ。家裁の許可も要る。


法律書を読み漁り、判例を探った。「社会生活上の著しい支障」で認められた例を発見。「使えそうだ」


家裁に申立書を提出。「現在の名前では社会生活が不可能」と訴えた。


審問は計3回もあった。

高橋は今度も演技した。脅迫状、嫌がらせ電話、娘のいじめ、窓ガラス破壊…すべて証拠として提出。「子供にまで被害が及んでいます…お願いです…新しい人生を…」と涙を見せた。


「よし、良い感じにできたかな」と内心で笑った。


担当裁判官にも見え見えの演技は伝わり、厳しく審査された。「単なる社会的批判は『やむを得ない事由』に当たらない」と一蹴。


「名前変更は本来、婚姻や養子縁組などの身分変動時や、差別的名前の変更時に認められるものです。あなたの評判の問題は、名前を変えれば解決するという単純なものではありません。ましてや、社会的に注目された殺人事件に関与した方の氏名変更は、原則として認められません」


高橋は必死に食い下がった。


「俺を殺すって脅迫状まで来てるんです!家族まで危険なんです!」


厳格な審問の中で、脅迫状、嫌がらせ電話の録音、娘のいじめに関する学校からの報告書、窓ガラス破壊の被害届など、客観的証拠を次々と提出。特に、娘が受けた深刻ないじめの証拠が決め手となった。


三ヶ月ほどして、裁判所は異例の判断を下した。

「本件は極めて特殊な事案であり、申立人の社会復帰の機会を与えるとともに、何より無関係な家族、特に未成年の子の安全確保のためやむを得ない」


名前変更を特例的に許可。ただし、「この決定は前例とはならない」との付記もされた。

「安全確保のためやむを得ない」として名前変更を許可。ただし、「あなたの道義的責任は消えません」と厳しく諭された。


高橋は唇を噛んで「はい、肝に銘じます」と答えた。本当は笑いをこらえるのに必死だった。


こうして「佐々木誠」が誕生した。


夏になり、東京から700キロ離れた地方都市へ移住。

小さな不動産会社に就職。「家庭の事情で」と曖昧に説明するだけで、誰も詮索しなかった。


表向きは模範的市民を演じた。仕事は真面目に。挨拶も欠かさず。地域ボランティアにも顔を出す。だが、すべては「実験」だった。


他人を欺く小さな喜び。約束の時間に意図的に10分遅れる。「すみません、電車が…」と嘘をつき、相手の表情の変化を楽しむ。困っている人に「手伝いましょうか」と声をかけるが、わざと状況を悪化させる。机の上の書類をこぼしたり、荷物の持ち方を間違えたり。


「人間の反応って楽しませてくれる。面白いなあ」


まだ子供の頃の感覚を引きずり、大人の知恵も付いて更に楽しんでいた。

ただし細心の注意も払っていた。バレたら終わりだ。過去の亡霊が追いかけてくるわけにはいかない。


内面は変わらないまま、外見上は社会に溶け込んだ佐々木は、徐々に会社で評価され、3年後には係長に昇進した。仕事の合間に、同僚や上司、取引先の弱みを探り、ノートに書き留めておく習慣もついた。「いつか使えるかもな」


表向きは更生した男を演じながら、内心では人間実験に没頭する彼。一度法的裁きから逃れた経験が、奇妙な自信を与えていた。


「法律もルールも、結局は人間の作ったゲームだ。ゲームにはバグがある。抜け穴がある」


彼は法的には無罪だが、何か答えを出さねばという思いもあった。


「勝訴したけど、これで終わりじゃない」


だが、その「答え」とは、新たな「実験」の可能性だった。

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