第6話:法と倫理の狭間で

6月5日

東京地裁に訴状が提出された。


民法709条の不法行為責任に基づき、高橋の行為と蒲田の死亡の因果関係を主張という内容。

蒲田翔太は27歳の商社マンで、将来有望な若手社員だったことから、遺族側は当初、生涯賃金を基にした逸失利益を含む総額2億円の損害賠償を請求した。


しかし裁判の過程で、因果関係の立証が難しいと、逸失利益約3800万円、慰謝料1800万円、葬儀費用200万円の計5800万円に減額修正された。


裁判は7月15日に始まり、社会の注目を集めた。

通常、このような民事訴訟は1〜2年かかるところ、社会的影響を考慮した迅速審理が行われ、異例の速さで進行。

それでも5か月にわたり、計8回の口頭弁論と3回の弁論準備手続きが行われた。


核心は「相当因果関係」の有無と、高橋の過失の認定。

「予見可能性」「結果回避義務」という面で激しい議論が交わされた。


原告側の佐藤弁護士は映像を示し主張した。


「被告は安全圏にいることを知りながら危険行為に出た。これは明らかな過失です」


さらに、「条件説に従えば、被告の行為がなければ死亡結果は生じなかった可能性が高い。因果関係は明白です」


対する被告側の小林弁護士は反論。


「映像を見れば一目瞭然です。犯人は被告の行動前から武器を構え、発砲までしている。殺意は被告と無関係に形成されていました」


「法的には『相当因果関係』が重要です。本件では犯人の自由意思という決定的介在事由があり、因果関係は認められません」


9月22日、専門家の証言が続いた。


犯罪心理学者の中村教授は「犯人はすでに殺害を決意していた。被告の有無にかかわらず発砲した可能性が高い」と述べた。


法医学者の鈴木教授も「犯人はすでに実弾発射で殺傷能力を示していた。被告は新たな危険を生み出したわけではない」と証言。


一方、社会心理学者の田中教授は「集団状況での挑発は予測不能な反応を引き起こす。状況悪化の一因となった可能性は否定できない」と主張した。


傍聴席からは高橋への不信の声も。「証言中も目が笑ってるぞ」「反省してるフリが見え見えじゃないか」という指摘も出た。


10月12日の最終弁論。佐藤弁護士は感情をあらわにした。


「被告の行為が引き金になったのは明らかです!蒲田さんはまだ生きていたはずだ!」


小林弁護士は冷静に反論。


「感情ではなく法理で判断すべきです。介在事由による因果関係の断絶、予見可能性の欠如から、法的責任は認められません」


高橋は最終陳述で、表情筋を意識的にコントロールしながら悲痛な表情を作り出した。

声を震わせながら言った。


「あの日の私の行動が結果として悲劇につながったことを、心から申し訳なく思います。蒲田さんのご家族の悲しみを考えると…、まことに胸が締め付けられる思いです」


裁判官の表情が微妙に変化したのを見て、彼は内心で勝利を確信した。


「おおー、こんな演技に騙されるなんて…」


陳述を終えた彼が席に戻る際、一瞬だけ浮かべた微笑みを見逃さなかった者もいた。それは芝居が終わった役者の解放感のようなものだった。


10月20日、判決日。法廷は傍聴者と報道陣でいっぱいだった。


裁判長は厳粛な表情で30分以上にわたって判決文を読み上げた。判決では「予見可能性」と「相当因果関係」について難しい話が延々と言及された。


「本件においては、被告高橋誠の行為と被害者蒲田翔太の死亡との間の相当因果関係の有無が最大の争点となりました。裁判所は関連判例を詳細に検討し、法律専門家の意見も参考にしながら、慎重に判断を重ねました」


「被告の行為と被害者の死亡との間には、犯人鈴木哲也の自由意思による判断という重大な介在事由が存在します。この介在事由の存在は、相当因果関係を否定する有力な要素となります」


「また、被告の立場から見て、自己の行為が他者の死亡という結果を引き起こすことを予見することは困難であったといわざるを得ません」


「被告の行為は社会的・道義的に問題はあるが、『相当因果関係』『予見可能性』の観点から、賠償責任は認められない。よって原告の請求を棄却する」


静寂が一瞬訪れ、次の瞬間、どよめきが起こった。

蒲田の婚約者は崩れ落ち、遺族は呆然と立ちすくんだ。高橋はただ立ち上がり、弁護士と共に法廷を後にした。


判決後、法律家たちの論評が飛び交った。


「本判決は法的因果関係の厳格さを示した」と田中教授。「法と道徳の乖離も浮き彫りにされたな」


10月22日、原告側は控訴を検討するも、「勝算がない」と断念。判決が確定した。

山田明美は記者会見で絞り出すように言った。


「法的判断は…受け入れます。でも、あの方の行動が正しかったとは今でも思えません。亡くなった翔太のためにも、同じ悲劇を世の中へ繰り返さないよう、活動していきたい」


言葉とは裏腹に、その目には怒りと悲しみが渦巻いていた。

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