第4話:転落の瞬間
2022年3月18日
もはや高橋の変貌は周囲の目にも明らかだった。
仕事ではミスの連続。同僚との関係も悪化。前日のプレゼンは大失敗で、上司に一時間も説教された。家でも会話の行き違いが増えて妻とは口論ばかり。
もう娘と話すことすらほとんどなくなっていた。
けれど、高橋自身は自分の変化に気づいていなかった。彼にとっては「目覚め」だった。
「なんで誰もわかってくれねぇんだ…」
朝、いつもより早い電車に乗った。昨日のミスを取り戻す必要があった。車内は比較的空いていて、後方のドア付近に立った。いつもの「観察ポジション」だ。
このとき、一人の男に目が留まった。
黒いスーツの男。三十代後半くらいか。中央付近に立って、落ち着きなく周囲を見回している。何か小声でブツブツ言っているようにも見える。
胸ポケットには手を突っ込んだままだ。
東京なんて変な人いくらでもいるし、いつもならいちいち気にも留めなかっただろうが、今の高橋には何か引っかかるものがあった。
「こいつ…なんか変だ」
次の駅で乗客が増え、少しずつ混みだした。それでも高橋は動かなかった。ここがいい。全体が見える。
突然、黒いスーツの男が動いた。
何かを取り出して、叫んだ。
「聞け!全員聞け!」
空気が凍りついた。男の手には小型の拳銃があった。車内の乗客たちは一瞬固まり、次の瞬間、小さなざわめきが起こった。
「2度咳払いしたあと、笑いながら柏手を3回打ったら殺す!誰も動くな!」
男の言葉に、周囲の乗客たちの間に困惑が広がった。
「は?なんだって?」
「何言ってんだこいつ…」
「気が狂ってるのか?」
あきらかに困惑の色を帯びた小声のつぶやきが聞こえる。
ジリリリー!
誰が押したか非常ベルが響き渡る。
男の脅迫があまりにも奇妙で具体的だったため、最初は理解できない人も多かった。サラリーマン風の中年男性は眉をひそめ、隣の人に「妙なこだわりだな…」と囁いた。
若い女性は「え?咳払いって…柏手って…なに?」と混乱した表情で友人と目を合わせていた。
男は命令口調だがどこか冷静な声で、また同じ事をわめいた。
「この車両いるやつ、誰でもだ!2度咳払いしたあと、笑いながら柏手を3回打ったら誰か殺す!誰も動くな!」
車両の前方を指さした。
「こっちのほうのやつらを撃つ」
その目は切羽詰まったような異常な光を帯びていた。まるで自分だけが理解できる何かの儀式を執り行っているかのようだった。
状況が飲み込めてきて、乗客たちは次第に恐怖に包まれていった。
身を縮める人、扉に寄りかかる人。高橋の近くにいた女性は小さく悲鳴を上げた。
「オイオイ…、冗談だろ?」と若い男性が声を上げかけた。
「冗談だと思うな」
男は窓に向けて発砲した。轟音と共に窓ガラスが砕け散った。
その瞬間、車内の雰囲気が一変した。それまでの困惑は純粋な恐怖へと変わり、車内は一気にパニックになった。
「うわっ!」
「撃った!マジで撃った!」
「助けて!」
悲鳴と叫び声が車内に響き渡る。何人かは床に伏せ、別の人々は扉の方へと必死に移動しようとした。
「もう一度言うぞ!」男の声は以前より高く、鋭くなっていた。「2度咳払いしたあと、笑いながら柏手を3回打ったら殺す!誰も動くな!」
今度はみんなが男の言葉を真剣に受け止めていた。
その奇妙なルールが、突然恐ろしいリアリティを帯びた。誰もが息を潜め、最悪の事態を恐れていた。
「頼むから、誰も変なマネするなよ…」誰かが小声で懇願した。
「みんな静かに…刺激するな…」別の声が聞こえた。
高橋はその光景を、まるで映画を見るかのように眺めていた。彼の心には恐怖よりも、強烈な興奮が沸き起こっていた。
これは彼が何週間も想像し、求めていた緊迫した状況でもあった。極限状態での人間の反応を、目の前で見ることができる。
「これは…現実だ…」
高橋は自分の立っている位置を再確認した。車両の後方端、男とは十分な距離があった。そして男は確かに前方の乗客たちを脅していた。
「こっちのほうのやつら」という言葉が彼の耳に残っていた。
自分は安全圏内にいるんだ。
この認識が、彼の恐怖を和らげ、さらなる冷静な観察を可能にした。
けれど同時に、頭の中で疑問が渦巻いていた。「本当に撃つのか?それとも脅しだけか?」「あんな奇妙なルール、本気なのか?」確かめたくなった。
もはや理性的な思考回路は働いていなかった。極度の疲労と興奮が混ざり合い、「どうなるのか見てみたい」というふざけた妄想だけが残っていた。
周囲の乗客たちの反応は様々だった。泣き出す人、祈るように目を閉じる人、スマホでメール打ってる人…。
それぞれの本能的反応に、高橋はゾクゾクした。皆が男の奇妙な指示を絶対に守ろうとしている様子が、どこか滑稽にも思えた。
「咳なんてしたら殺される…」と誰かが震える声で言った。
「変な笑い声出すなよ…マジで…」別の人が警告した。
そして、彼の中で何かが弾けた。「もう見てるだけでは物足りない」自分も参加したい。意識が朦朧として、体が勝手に動いているような感覚。
「試してみたい…どうせ俺は標的じゃないんだ…やってみたい…」
口元がひくついた。子供の悪戯のような期待感。
スーっと長く静かに、しかも大きく息を吸って、音を出した。
「コホン」
一度目の咳払い。近くの乗客が振り向いた。
その、信じられないと言わんばかりに見開いた目が、快感だった。
「コホン」
二度目。周りの視線が痛いほど集まった。中年女性が「やめて!」と口パクでたしなめたが、もう止まらなかった。
二度目の咳の後、顔を上げて笑い始めた。もはや自分でも何をしているのか分からなかった。
「パン!」
両手を合わせて力強く一回。
車内が凍るかと思えるほど静まりかえった。
スーツ姿の中年男性が「やめろー」と口パクでこちらへアピールした。
「パン!」
二回目。
周囲の恐怖に満ちた顔が、まるでスローモーションのように見えた。
いろんな感覚が脳を駆け巡って急に頭が冴えたような気がした。
「パン!」
三回目。高橋は笑いが止まらなかった。解放感からくる、本物の笑いだった。「こんなに自由な気持ち、初めてかも」
いきなり学生らしき若者が「―!殺されるぞ、マジで!」とヒステリックに叫んだ。けれど高橋はもう周りが見えていなかった。日常の殻が完全に崩れ落ちていた。
一瞬の静寂の後、男が振り返った。
「お前…」
男の目が憎悪で燃えていた。けれど、高橋は恐怖を感じなかった。むしろ、「さあ、どうする?」と挑戦的な気分さえあった。
男は拳銃を上げた。けれど、銃口は高橋には向かなかった。前方の乗客の方を向いた。
「さて、殺すか…」
パンッ!パンッ!
乾いた銃声が二発、立て続けに車内へ響いた。
悲鳴と共に、前方の青いスーツの若い男が床に倒れた。白いシャツが赤く染まっていく。
銃声で少し耳がキーンとしつつ、高橋は冷静に見ていた。
心の中は不思議と静か。「これが現実か…」そして、密かな興奮も。「案外、簡単なんだな…人を殺すって」
その時、急停車。
直後に大勢の警察が突入してきた。
「動くな!武器を捨てろ!」
男は一瞬迷ったようだったが、銃を落として両手を上げた。あっという間に制圧された。
「医療チーム、急げ!負傷者だ!」
車内は混乱の極みだった。高橋は壁に寄りかかり、全てを静かに見つめていた。彼の顔には、奇妙な満足感が浮かんでいた。
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