2話
全身性変異呪詛、というらしい。
「何のひねりもない名前でしょ?」
魔法使いは声を上げて笑った。むなしく乾いた、冷たい声音だった。
「呪いと言っても、そちらの感覚では病気みたいなものでね。原因と対処法さえわかっていれば怖くない」
ならば裏を返せば、という話になる。そこが問題なのだと、こめかみを押さえて魔女は言った。
「犯人はわかったし、もう捕まった。でも、呪った本人にも解呪法がわからないからお手上げ。これが猫じゃなくて猿あたりなら、そこらで売ってる薬でも治ったんだけどね」
トレニアは何も言えなかった。言えるはずもなかった。あまりに飛躍した話に、どう受け止めればいいのか迷っていた。
結局、しずかに客の話を聞いていた。商品を持つ手を止めて、口をつぐんだまま。
それをどう受け止めたのか、客は眉を跳ね上げた。
「もしかして、嘘だと思ってない?」
「え? いえ、そういうわけでは」
「いいよ、そう思うのも無理ないもんね。……あまり気持ちのいいものじゃないけど、見せてあげる」
トレニアの返事も聞かず、魔法使いは自身の片手を持ち上げた。その手首から先を、もう片方の手で包むように握る。
手袋を引っ張るのに合わせて、持ち上げている方の腕を反対側へと引いていく。
トレニアは目を疑った。
手袋から引き抜かれた手は、文字通りの黒一色だった。例えるなら、黒いボアマフラーを手の形に整えた、とでも言うべきだろうか。
女の髪色と同じ黒い毛並みが、手の甲から掌まで覆いつくし、手首にまで侵食していた。
「そのうち、全身にも生えてくる。骨格や筋肉が変わる頃になれば、変異痛で出歩くこともできない。……だからせめて、その前にやれることはやっておきたかったんだけど」
手袋を戻しながら、魔法使いは淡々と語った。
「もってあと半年。正直、この子がちゃんと生まれるかも怪しいところなのが参るよね。ほら、下手すれば私の方が赤ちゃんより小さくなるから」
トレニアに子供はいない。そもそもとして、結ばれようと思う相手もいない。
そんな彼女に「子供」と呼べるものがあるとすれば、それは今まで作ってきた品物たちだった。どうやっても人間の子供とは違うが、それでも気持ちを推し量ることはできる。
マフラーやセーター、ベスト、帽子、ジャケット……彼らが自分のせいで、本来出会うべき人々と出会えず、また誰かに使われることもない図を想像した。
あまりにも身につまされる話だ、とトレニアは思った。
「ご主人には、もう?」
「言ったよ。仕事で遠くにいるから、魔導通信越しにだけど。すごく泣かれちゃった。悪いことをしたな、ってあの時はつくづく思ったよ」
眉を下げ、恥ずかしそうに笑う魔女のまなじりも、ほのかな朱色に染まっていた。
「まあ、呪いを受けたことはもういいんだ。魔法使いに生まれたからには、いつかこんな日も来るって思ってたし。ただ、子供にもう会えないのが心残りで」
「どうして? そばにいてもいいじゃないですか。猫になっても、ご主人やお子さんと一緒に暮らせば……」
魔法使いは、にわかに厳しい顔を作った。怒りの表情にも、泣く寸前のそれにも見えた。
「駄目。そういう決まりなんだ。呪いを受けたものは、すみやかに
古臭い掟。
女はため息混じりに付け加えた。何かを諦めたような風情だった。そしてそれきり、口を閉じた。
表を行き交う人々の笑い声が、寒々しく店の中に響いている。店の壁にぶら下がっている時計が、規則的な針の音を奏でている。
トレニアは、やりきれない気持ちで話を整理していた。ただの人間、しかも羊毛店の店主にどうにかできる範囲はとうに超えている。
それでも、何かできることがあるのでは?
少しでも役に立ちたかった。せっかく客として来てくれた彼女を、このまま寂しい思いで帰したくはなかった。
「……あの、」
ふと、ひらめいた考えがあった。単なる思いつき以上のものではなかったが、中身を判断するより先に、気づけば口から飛び出していた。
「猫になったあとで、うちに来ることはできませんか」
魔法使いは首を傾げた。
怪訝、の文字がありありと顔に浮かんでいた。
「マフラー、うちに預けていただけるんですよね。なら将来、必ず取りに来られますよね。そのときにお子さんも一緒に来てもらって、そしてお客様がここにいれば……」
会えるかもしれない。
みなまで言う前に、魔女はトレニアの言葉を遮った。無言のまま、開いた手を女店主の顔の前まで伸ばしていた。
「……ちょっと、待って」
ややあって、魔法使いはその一言を絞り出した。懊悩が形をとったような声音だった。期待と遠慮の間で、表情は揺れていた。
「本当に?」
「お嫌でなければ」
「嫌なわけが!」
静かなトレニアの言葉に、客は叫ぶように応えた。すがるような眼差しが一瞬ひらめいたが、次の瞬間には思案げな面様の下にするりと隠れた。
トレニアから目をそらし、魔女は口元へ手をやった。ときどき小さく唇が動くのを、トレニアはじっと見ていた。この客が次にとる言動を、ただひたすらに待っていた。
やがて。
「……産む。私、何があってもこの子を産むよ」
会話は、決意から再開した。
「無事に生まれれば、夫が育ててくれる。だから、この店へ連れてくることは難しくないはず。いや、10歳になったなら、たぶん1人で来ることもあるかもしれない。可能か不可能かで言えば、十分に可能だと思う」
「なら、」
「問題は私ね。変異後、記憶が残るかどうかは今のところ完全に運任せ。となると、記憶が消える前提で考えた方が……」
トレニアがただの聞き役に徹していられたのは、そこまでだった。
魔女は勢いよく立ち上がった。カウンターの上に置かれたままのマフラーやセーターが、その拍子に軽く揺れた。
女は勢いよく両手を伸ばし、カウンター越しにトレニアの肩を力強く掴んだ。骨まで響いた痛みに、潰れたカエルのような声がトレニアの喉から迸った。
肩に置かれた手からは、ぱちぱちと何かの弾ける音が聞こえていた。静電気にも似たそれは、魔法使い《かれら》が大きな感情に晒されたときに起こる、魔力の漏洩だった。
「……あなたの助けがいる。あなたさえ承諾してくれれば、きっと何もかもうまくいくはずなんだ。協力してくれる?」
鮮烈に輝く赤い瞳に、トレニアはそのとき初めて気がついた。
赤ビロードを思い起こさせる深紅の色合いは、宵のうちに燃える炎を連想させた。見るものを引き付けて離さない、魔性の色であった。
一も二もなく、女店主は頷いた。
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