3話

「……ええ、はい、それでは2号店の方はお任せします。ご連絡ありがとうございました」


 素焼きレンガのオレンジ屋根と、漆喰の白壁が並ぶ街。抜けるような青空が、その風景に彩りを添えていた。

『トレニア羊毛』本店のカウンターで、トレニア・ゼンヨウが電話を切った頃、店の表から従業員の青年が慌ただしく飛び込んできた。その手に、黒い塊をぶら下げながら。


「店長、この子なんとかしてくださいよ。まーた表のミントかじってたんですが」

「あなたも頑張るわね……止めなくていいって言ってるのに」


 トレニアの声が聞こえた瞬間、『それ』は思いきり身をよじった。青年の手から逃れるやいなや、カウンターに駆け上る。

 そのまま女店主の腕に寄り添うように、我が物顔で腰を下ろした。


 凛とした面立ちで佇む、黒い一匹の看板猫がそこにいた。


「ご飯の後だから、その口直しでミントをかじったんじゃないかと思うんだけど。どうでしょう?」


 トレニアが首を傾げると、小さな頭が上下に振られた。頷くような動作だった。


「ほら、そうだって言ってる」

「店長……何度だって言いますけどね、んなことあるわけないでしょう。人間じゃあるまいし」


 呆れながら唇をとがらせたスタッフに、トレニアは苦笑した。その表情の意味を知るものは、彼女と猫のほかには誰もいなかった。

 毛を逆立てて青年を睨む小動物の背を、宥めるようにトレニアの手が撫でさする。ややあって、ふんと鼻を鳴らすと、猫はその場で丸くなった。


「いやしかし、長生きですよね。こいつ」


 従業員があまりにしみじみと言うものだから、トレニアは思わず噴き出した。


「どうしたの急に、改まって」

「だって、僕がここでお世話になり始めた頃ですよね? この子が来たの。あの頃は吹けば飛びそうなガリガリの痩せっぽちだったのに、まさかこんなに長い付き合いになるとは思わなくて」


 青年がおもむろにカウンターへ近づく。途端、猫の耳がぴくりと動き、尻尾がいらいらと左右に揺れた。


「店長が親切でよかったなー。ここに迷い込んでなきゃ死んでたかもしれないぞ、お前」


 その手が猫の背に触れる寸前、ムチのような音がした。およそ獣の尻尾とは思えぬ速度で、スタッフの手を勢いよくはたき落とした音だった。


「痛ッた! おま、もう10年くらいの付き合いになるんだから少しは懐いてくれても……」

「ああもう。二人ともやめて、大人気ない。さ、もうすぐ時間だから、表の掃除終えちゃって。ついでに開店プレートも出してきてくれる?」


 従業員に指示を出しつつ、書類まみれのカウンターをざっと片付ける。青年が出ていったのを横目に確認して、トレニアは口を開いた。


「……彼じゃありませんけどね、無事に辿り着いてくれてよかったですよ。もう何回も言っていることですし、しつこいかもしれませんが」


 女店主は、囁くように話しかけた。黒猫は書類を掴んだ手をぺろりと舐めて、それからトレニアの方をじっと眺めた。

 かつての彼女と変わらぬ、赤い瞳だった。


「私は、あなたの言う通りに動いただけですから。あなたがここに来るまで何があったのか、肝心なところはひとつもわかっていないので……」


 協力を約束したものの、トレニアの方で何かをしたという実感は薄かった。マフラーの受注を受けた後も、件の魔女とは何度か私的なやりとりを行っており、その中での指示に従ったにすぎない。


『この手紙が届いてから、4度目の満月が昇る夜』

『胡椒をひとつまみ、どこかの窓辺に置いて』

『色違いのタオルを2枚重ね、枕の下へ敷いて』

『水を注いだマグカップを、3度回して南の部屋に置いたら』

『適当な紙を4枚、束ねて暖炉に入れておいて』


 半信半疑で言われるがままにしたところ、はたして次の日の朝には店のカウンターで半死半生の黒猫がうずくまっていた。ドアも、窓も、すべてトレニアが昨夜見回ったときと変わらず、鍵がかかった状態のままで。

 何をどうやって羊毛店に来たのかは、結局最後まで明かされなかった。


 気を遣ってくれたのだろう、とトレニアは考えている。魔法使い以外の者が迂闊に魔道の知識を得たために、とんでもないしっぺ返しをくらう話は、巷間の噂でよく耳にしていたから。


「あなただって大変だったでしょうに、こちらのことまで考えて……その罪滅ぼしってわけじゃありませんが、せめてあなたを健康体でお子さんに会わせてあげたいんです」


 だから、と。


「ミントを食べるのはそろそろ本気でやめてくださいね? 猫の身体には合わないんですから」


 トレニアは、わざと怖い顔で黒猫に迫った。

 赤い双眸は、何度か驚いたように瞬きを繰り返していたが、やがて未練がましい眼差しをトレニアに向けた。


「そんな顔しても駄目です。じゃ、私も開店準備に戻りますので」


 今日の受け取り予定を壁のカレンダーで確認しながら、商品倉庫へ足を進めるトレニアを「店長!」と大きな声が引き止めた。

 振り向いた先では、青年がドアを半端に開けたままこちらへ体をひねっている。


「お客さんがもうお見えなんで、店開けますねー」

「いいわよ。今日なんてすごく寒いし、早く入れてあげて」

「はーい。……ほら、おいで」


 青年の後ろから、小さな魔法使いが顔を出したのは、まさにその時だった。


 頭の帽子から足の靴まで、まんべんなく黒い。しかもご丁寧に、片手には箒を携えている。あまりに大きなとんがり帽子は、つばも妙に広く、トレニアの方からはかろうじて口から下が見える程度だった。


「あの、こちらで、私の『せいじんいわい』のマフラーをおあずかりしてると聞いたので、受け取りにきました」


 たどたどしい挨拶に合わせて一礼した拍子、とんがり帽子が床に落ちた。

 途端、長い銀髪がこぼれ落ちる。ああ、と慌てて拾い上げる動きに合わせて、朝日を反射した光の束がキラキラと揺れた。


「ママ……じゃなくて……えと、母が、注文したものです。それで、わかりますか?」


 立ち上がると同時、伏せられていた目も正面を向く。

 見るものを引き付ける光をたたえた赤色だった。その色に、トレニアはひどく見覚えがあった。

 かつて赤ビロードのようだと思い、そして今も黒猫を見るたびに思っている、あの深い紅色だった。


『あの人は、とても綺麗な銀髪でね』


 ふと、トレニアの頭に懐かしい声が響いた。


『日の光に当たると、キラキラ輝いて見えるんだ。私にはないものだから、やっぱり憧れちゃうよ』

『お子さんはどちらの色になるんでしょうね?』

『どっちでもいいかな、無事に生まれてさえくれれば。……ああでも、もし髪が銀色なら、せめて目くらいは私と同じ色になってほしいかも。全部あっちだけに似るのって、なんかちょっと頭に来ない?』

『それは……確かに、わかるかもしれません』

『でしょ?……ねえ、今更だけど黒いマフラーでなくてよかった? 白でも銀髪にも合うと思う?』

『合いますよ。黒に黒じゃ重くなりすぎますし』

『あら、私に喧嘩売ってるのかしら』


 にゃあん。

 甘い鳴き声とともに、カウンターの上にいた黒猫は、疾風のような速さで少女に駆け寄った。従業員がこぼれ落ちんばかりに目を見開くのを、トレニアは笑い出しそうな気持ちで眺めていた。

 そういえば、この猫がここまで露骨に客を歓迎するのは初めてだったかもしれない。


「わ、わ、」


 人なつこく足にまとわりついて鳴く猫に、少女は困り果てた様子で店主を見やった。未だ幼い顔立ちに、当惑の感情がありありと浮かんでいた。


「ねえ、猫はお好き?」


 トレニアが問うと、少女はたちまち破顔した。いつかの彼女の母親を彷彿とさせる、懐かしい表情だった。


「好き、大好きです!」

「なら、仲良くしてあげて。その猫さん、あなたが来るのをずっと待ってたの」


 10年間眠っていたマフラーを取り出すべく、今度こそトレニアは倉庫へ向かおうと踵を返した。

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ベルベット・ルビーの魔女 舶来おむすび @Smierch

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