第7話 心との距離感

 結局、仕事は午後から行くことになった。

 眠気が収まらず、午前中はひたすらベッドに横たわっていた。


 最近は、眠ることが多くなっていた。憂鬱症のよくある例かもしれないが、私にはどうでも良いことだった。



 仕事の帰り、私は再びあの地下街へ寄り道をしていた。

 地下街は相変わらず通行人が絶え間なくおり、夕方のせいか帰宅者が多く見られた。


 人混みに何となく嫌気がさしたので、私は地上に移動し、誰もいないベンチに座ってぼんやりとしていた。


 天気は晴れだった。3月に入ってから、少しずつ風が暖かくなっているように感じられた。


 生暖かな風が肌を撫でつけた。私はこれから新生活を迎える人々について考えを巡らせ、彼らがいかにして新しい環境に悪戦苦闘するかを想像した。



 大学の頃、私は周囲に上手く適応しなかった。

 というより、はじめから馴染む努力をしなかった。私は人間関係をただ煩わしいものと思っていたので、自発的に一人で過ごすことが多かった。


 一人で過ごしている間は、やはり読書をしていた。フロイトやデュルケームなど、精神分析学や社会学を興味半分でかじるのが好きだった。


 私は図書館にこもっていることが多かった。

 静かな場所で精神世界に潜り、人間とはどのような生き物なのかについてひたすら考えていた。



 考えているうちに、私はその世界へ迷い込んでしまった。

 人間の心について、私はやがて科学的に説明できるものと見なすようになり、心は外的刺激によって如何様にも変化することを悟った。


 要するに、心とはクッションのようなものだった。それは、重りを置けば形崩れ、重りを取り除けば元に戻る。普段使っている低反発の枕も同然だった。



 それを知って以降、私は心に対して、夏の海のような幻想を抱かなくなった。


 心は煌めくものでもなければ、水面のようにきめ細かく揺れるものでもない。

 そこにはただ物理学が働いているだけだった。心同士は近すぎれば摩耗し、距離を置けば無関心でいられる、そんな単純な存在に過ぎなかった。


 私は人々と距離を置くことを選んだ。人間関係についてあれこれと悩んだ時期もなくはなかったが、結局必要なのはそれだけだった。


 私はそのようにして、自分自身の心とも距離を置くようになった。そのためか、心を動かす方法がわからなくなり、感情はいわゆる鈍麻状態に陥った。



 私は何事に対しても大した興味を抱かなくなった。それについては、後悔する余地すらなかった。

 感情が鈍麻している以上、後悔も希望もないのだ。


 それは、傍から見れば平静に映るかもしれないが、当事者としては虚無という方がより正しかった。


 今も変わらず、私はこの世界に何の価値も見出だせないでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る