第5話 アリピプラゾール

 『存在と時間』は、聖書のように分厚い本だった。

 私はその本を開き、電車内でゆっくりと読み進めた。



 ハイデガーは、存在はしばしば普遍的であり、前提条件として語られると言った。


 「何故存在は存在しているのか」といった問いに答える際も、「何故ならば存在しているからだ」というような循環論法に陥りがちだと指摘した。


 『存在と時間』は難解な本だった。しかし、前提に次々と疑問を投げかけるという点では、実に哲学らしい書物だった。



 不思議なことに、私はその本を電車内でしか読まなかった。

 家に帰ると、どうしてもその本を読まなくなってしまった。


 家では、ベッドに仰向けになりながら、ただぼんやりと天井や窓を眺めているだけだった。

 意識を曖昧にしているうちに、何故自分はこの世界に存在しているのだろうという思いさえ浮かび上がった。


 その思いこそが、『存在と時間』を選んだ理由だった。

 私は自分がこの世界に存在しなければならない訳を知るために、ハイデガーを頼ることにしたのだった。



 夜になり、私は寝る前の薬を飲むことになった。

 それはアリピプラゾールまたはエビリファイと呼ばれる薬だった。


 気分を落ち着かせる薬らしかった。私は医師の説明を何となく受け流していたので、その効果についてはよく知らなかった。


 私は、何日も薬を飲まずに過ごすことも多かった。

 薬を飲むのは、生きるために努力するようなもので、何とも面倒なことのように思えた。


 私は1杯の水とともに、仕方なくその薬を飲み、部屋の明かりを消した。

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