第1話 紛失物
道を歩いている時、とある通行人が煙草の箱を落としているのを目にした。
私はしばらくその箱をじっと見つめていたが、そのまま手を付けず道を去った。
「落としましたよ」
それが理想的な声掛けかもしれなかった。
しかし、私は無視し、その人のためになるようなことをしなかった。
「ただ、物が落ちている」
その時、私が直感したのはその一言だった。
結局、通行人は自分の落とした箱に気づかず、スマホを見つめたまま遠くへ行ってしまった。
私は、もし自分が拾った時のことを想像した。
こちらが「すみません」と声をかけ、相手が怪訝そうな顔から段々と申し訳なさそうな顔に変えるまでの流れを、一通り思い浮かべた。
想像を膨らませているうちに、まるで実際に起こったことかのような錯覚に陥ったが、実際には起こらなかった。
世界に対して、何の働きかけもしなかった。
私の手元に残った事実はそれだけだった。
あの通行人は、後に煙草をポケットから取り出そうとした時に、「ない」と気がつくのだろう。
通行人は一服することができず、悶々とした感情を抱えたまま、仕事に戻るのかもしれない。
それは小さな悲劇のように思われた。
私は人助けの瞬間を逃し、その悲劇を防ぐことができなかったのだ。
僅かな罪悪感と諦念が、脳裏をかすめる。
だが、過ぎたことはどうでもよかった。あの箱について考えているうちに、私は段々と面倒な気持ちに駆られた。
私は気だるささえ感じた。何故たった一箱のことで、こうも悩まなければならないのだろうと思った。
銀色に輝いたあの箱が鬱陶しかった。私は心が重い鎖で縛られるのを感じながら、その道を去った。
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