第5話 国の寿命

 この老人と話をしていると、どこかが何か狂っているかのように感じられた。自分の話に何ら意義を唱えることをせず。それでいて、自分から意見を述べることもない。典型的な引っ込み思案な人間という風に見えるのに、どこが狂っているというのだろう?

 やはり。最初からこちらの話をずっと聞いていて、何も言わずに、今まで黙っていたことで、それなりに何か意見もあるはずなのに、何も言おうとしないのは、そこに、何ら自分の意見としての考えが潜んでいるということであろう。

 だが、その意見をいかに表現すればいいのかということが分からないということか、ハッキリと表現ができないのは、意見を持っていないからだと思われても仕方がないのに、そうは見えないところが、狂っていると感じさせるところなのだろうか?

 そんなことを考えていると、歴史の話をし始めた自分に対して、何か違和感を感じさせるのであった。

 というのも、

「俺は、歴史の話に導こうとは思っていなかったはずなんだけどな」

 と感じたからだ。

 確かに、タイムトラベルの話よりも、歴史の話の方が好きなので、歴史の話に誘われているというのは、無理もないことだと思う。

 しかし、それも、

「自分からしよう」

 と思うのでなければ、相手に誘われているわけで、それは、自分としては、不本意に感じることであろう。

 確かに、違和感というものはある。だがその違和感は、あってしかるべきもので、

「自分からしようと思ったわけではないのに」

 と感じることであった。

 しかし、

「違和感」

 というものと、

「何かが狂っている」

 ということが同じことだといえるのだろうか?

 山本はそうは思わない。どちらかというと、

「狂っている」

 という方が強いわけで、それは、

「違和感というよりも、状況が先に進んでいる」

 ということになるのではないかと思うのだった。

 それを考えると、山本という男が、歴史の話をしたいと思うのは、

「少しであるが、タイムトラベルの話をしていて、この人なら、歴史の話をしても楽しいはずだ

 と感じたからだ。

 いや、

「自分が「感じるのだから、相手だって感じても悪いわけではない」

 と思った。

 その方が自然であり、そう考えれば、話が歴史に変わっていったとしても、そこに違和感などないはずで、ちゃんと納得できる答えがそこにはあるということになる。

 それでも、

「何かが狂っている」

 と感じるのだ。

 それは、

「違和感を感じる」

 ということよりも、

「何かが狂っている」

 と最初に感じたからで、

「もっといえば、この二つを同時に感じるということは、普通であればあり得ない」

 と言ってもいいのではないだろうか?

 そう感じてから、目の前の老人を見ると、老人が微笑んでいるように見える。

 その顔は、

「すべてを見越している」

 と言わんばかりで、却って気持ち悪くもあるのだった。

 それを考えると、

「この老人は、何を言い出すか分からないな」

 と思った。

 自分の意見もいわず、異論を唱えるということもない。

 ということは、口を開いた時、

「何を言われるか分からない」

 ということになるであろう。

 山本は、なるべく、

「差し障りのない話をしよう」

 と思っていた。

 話はすでに、

「完全に歴史の話」

 に変わっていた。

 本当であれば。史実であったり、誰か個人に対しての話をするのが普通なのだろうが、山本は、そんな話をするわけではなかった。

 そもそも、山本は、

「歴史を学問として見ている」

 と言ってもいい、

 最近でこそ、

「歴史というのは、いろいろな見方がある」

 と言われている。

 テレビ番組でも、

「ある事件のある瞬間を結論として、その結論を導き出すのが歴史」

 という見方から、編成された番組もあったり、

「歴史というものを、馴染みのある学問」

 ということで、

「クイズ形式」

 にしたり、

「ドキュメンタリーのドラマ形式で、ある一点だけを中心に描くようにわざと、時系列を無視」

 したり、

「時代考証に沿わないという内容で描いたり」

 という演出で、いかに歴史に興味を持ってもらおうかということをしていたりする。

 某国営放送での、

「旧教育放送」

 では、

「アイドルを出演者に起用し、視聴率を稼ごう」

 とでもいうのか、露骨に感じさせる番組もあったりする。

 しかし、それでも、

「歴史に興味を持ってくれれば、きっかけは何であってもいい」

 というのが最近の考え方なのか、山本は、それでもいいと思っているのであった。

 だが、話をしていると、この老人は、ハッキリとは口にはしないが、

「その考えには反対だ」

 とでもいっているように感じる。

 山本も、実は、

「歴史にたくさんの人が興味を持つということは悪いことではない」

 と思っているが、本来であれば、歴史に興味を持っている人間は、

「それなりに、基礎知識を持ってほしい」

 と思っている。

 そうでなければ、

「歴史という学問を好きだと言っている人間が、すべて一緒くたに扱われてしまう」

 と感じるからだ。

 確かに、

「ピンからキリまでいる」

 ということで別に構わないが。まわりからの視線が、

「にわかファンではないか?」

 という目で見られるのは、嫌なことであった。

 にわかファンというものが、いかなるものかということを考えると、どうしても意識してしまうのは、

「プロ野球などのファン」

 であった。

 たとえば、

「普段は、弱小な球団で、ずっと優勝から離れていたが、地元だけでなく、なぜか全国でファンが多く、しかも、そのファン層は、かなり独特な球団」

 というのがあり、その球団が、その年は、何か、

「狂い咲きであるかのように、戦力が充実」

 していたり、

「他の球団が、けが人続出の中で、その球団だけは、けが人もなくシーズンを過ごすことができて」

 しかも、

「今までは、ほとんど活躍しなかったような選手が、監督の期待に応える」

 などということになれば、

「奇跡の優勝」

 ということだってあるというものだ。

 特に、シーズン中に、

「奇跡の試合」

 などという、

「優勝するには、そういう神話のような試合が数試合ないといけない」

 と言われていて、それは逆にいえば、

「そういう試合があればファンというものは、今年こそ奇跡を」

 と思うだろう。

 そして、その奇跡が実際に起こってしまうと、

「街を挙げての大フィーバー」

 ということになる。

 そうなると、必ず出てくるのが、

「にわかファン」

 というものだ。

 それまで、他のチームのファンを騙っていたやつが、大っぴらに、にわかファンとなるのだ。

 優勝に浮かれている、

「老舗のファン」

 でも、くらいは、にわかファンであっても、許される」

 と思っていることだろう。

 そんなにわかファンも、今年の優勝が、本当に、

「奇跡の優勝」

 ということで、翌年は、

「優勝にい程遠い」

 ということになると、もう、ファンではなくなっているわけだ。

 だからこそ、

「にわかファン」

 というのである。

 山本は、そういう、

「にわかファン」

 というものを、小学生の頃から毛嫌いしていた。

 だから、

「自分はにわかファンにはなりたくない」

 という気持ちから、子供の頃でも、

「スポーツは見ない」

 と決めていた。

 もちろん、地元の球団が優勝でもすれば、街が賑やかになるのは嫌ではなかったが、それも子供の頃までで、高校生になったくらいから、

「優勝などという余計なことをされると困る」

 と思っていた。

 というのは、

「下手に優勝などすると、シーズンが終われば、優勝パレードなどされて、電車が遅れたり、街では交通規制が行われ、バスが遅れる原因となる」

 ということであった。

「野球が好きな人はいいかも知れないが、別に野球が好きでもない人から見れば、そんな余計なパレードはやめてほしい」

 と思う。

 本当に余計なことではないだろうか?

 歴史にしてもそうであり、

「自分が本当に好きなものに、にわかファンは必要がない」

 と思っていた。

 ただし、歴史のような学問は、

「好きな人」

 というのが増えないと、なかなか、他の学問に押されてしまい。その立場が、肩身の狭い思いをして、

「知りたいことが制限されてしまう」

 ということになるかも知れない。

 それを考えると、

「歴史」

 というものを、

「学問としてではないもの」

 と考える方が気が楽に感じていた。

 しかし。

「歴史を学問として見るから、歴史が好きなんだ」

 ということも真実であり、この、

「矛盾した考え方」

 というものを、どう考えればいいのか?

 と思えば、

「少なくとも、にわかファンだけは、ありがたくない」

 と感じるのだ。

 だから、

「この人は歴史が好きかも知れない」

 と思っても、いきなり歴史の話に入ることはない。

 まずは、他の話で様子を見て、

「この人が歴史を、学問として見ているのかどうか?」

 ということを探ろうとするからであった。

 実際に、この老人に関しても、同じようにしたつもりだったが、まさか、相手から、こちらの思惑を無視するかのように、歴史の話をするとは思わなかった」

 というものであった。

 そして、まだ少しではあったが、歴史の話を始めてから、この人の話を聞いていると、

「本当に、歴史を学問として見ているのだろうか?」

 と感じた。

 確かに、話の感じでは、

「学問として見ている」

 という人に分類できる相手なのだが、自分がその判断をしようとすると、まるで、霧の中に紛れてしまったかのように、相手の姿が見えなくなってしまうのだった。

 それを感じると、またしても、

「狂わされたような気がする」

 と感じたのだ。

 その、

「狂わされた」

 というのが、

「調子を狂わされた」

 というのか、それとも、

「頭の思考を狂わされた」

 というのかということが、いまいちわからなかった。

「調子を狂わされた」

 というだけであれば、すぐに治る気もするが、

「頭の思考を狂わされた」

 ということであれば、そうもいかない。

 ただ、

「調子を狂わされた」

 という場合であっても、簡単に落胆できるものでもない。

 狂わされた調子が、今日だけのものであればいいのだが、もし、元に戻って、また後日。この老人と歴史の話をした時、

「まったく同じ感覚」

 というものを味わわされるということになれば、果たして、簡単に事が運ぶと言ってもいいのだろうか?

 そんなことを考えていると、目の前の老人が、

「本当に歴史が好きなのだろうか?」

 と感じた。

「ひょっとすると、自分と同じように、何か他の話に誘い込もうとして、歴史の話をしただけなのかも知れない」

 と感じた。

 そうなると、老人が歴史の話をするのはあくまでも偶然であり、山本が思っているような、

「この人は歴史ファンなのだろうか?」

 という根本的な話は、

「まったくとんちんかんなことを言っている」

 ということになるのではないだろうか?

 それを考えると、

「俺って、こんなにいろいろと考える人間だったのか?」

 と思うようになった。

 確かに、

「歴史の話」

 であったり、

「タイムトラベル」

 のような話であれば、真剣に考えるであろうが、それも、

「局地的な考え方」

 ということで考えるだけであった。

 それは、自分が、

「局地的な考え方になるのは、それを学問と感じているからだろうか?」

 と考えるからで、

「タイムトラベル」

 という話も、

「基本的には、物理学というものが基礎にあるからで、見えないところで、他の学問も誘発させるものではないか?」

 と考える。

 それが、他の人は想像もしないような、

「歴史」

 であったり、

「心理学」

 のようなものに派生するから、それが、ストーリーになると、SF小説となるのではないか?

 とも感じられた。

 だから、山本は、

「心理学」

 というものにも、造詣が深かった。

 というのは、山本の知り合いに、最近、

「精神疾患を患っている人が多い」

 ということであった。

 それは、

「最近知り合いになった」

 という人も多いが、

「昔から知り合いだった」

 という人が、

「急に、精神疾患を発症した」

 ということも多かったりする。

 実際に、今の時代では、

「生まれつきの精神疾患の人も一定数はいるが、途中から精神疾患を発病する」

 という人も多い。

 それは、

「育った環境に影響する」

 というもので。下手をすると、

「選ぶことのできない生まれた時の環境」

 というものが、

「育ってきた環境」

 ということで、一緒に考えられているのであろう。

 山本は、心理学を勉強することで、

「生まれる時と、死ぬ時は、自分の意志ではどうにもならない」

 ということを考えるようになった。

「死ぬことは、自殺をすれば、選ぶことができる」

 という人がいるが、確かにそうである。

 宗教的には、

「自殺を奨励はしない」

 ということで、

「十戒」

 の中にある、

「人を殺めてはいけない」

 という言葉は、

「自分でも同じことで、だから、自殺を許さない」

 ということになるのだ。

 これが問題となったのが、戦国時代の悲劇とされる。

「細川ガラシャの自殺」

 という事件であろう。

 関ヶ原の戦いの前夜、西軍の石田三成が、東軍の徳川家康が、

「上杉征伐のために、会津に出兵」

 という事態において、ほとんどの大名が大阪を留守にしたのをいいことに、

「好機至れり」

 とばかりに、出兵に発った大名の家族を人質にしようとした時のことであった。

 細川忠興も、その一人だったことで、大阪の細川屋敷も襲われ、人質になりかけたところ、奥さんの細川ガラシャが、

「旦那である忠興の足かせにはならない」

 ということで、自害を考えたが、キリシタンとして、洗礼も受けている彼女は、

「自殺は許されない」

 という戒律によって、どうするかと考えた時、

「配下の兵に、自分を殺させる」

 という手段に出て、

「戒律を守る」

 ということには成功したのだ。

 これを、

「戦国の悲劇」

 ということでありながら、

「戦国の美談」

 ということでも、語り継がれている。

 しかし、これは本当に美談なのだろうか?

 もちろん、考え方であり、

「戦国という時代」

 ということからも、

「混沌とした時代であるからこその美談」

 と言われるのかも知れない。

 しかし、本当に美談と言ってもいいのだろうか?

 そもそも。戦国時代というのは、確かに、混沌とした時代ということでありながら、どうしても。

「殺し合いの時代」

 ということもあり、

「死というものに、感覚がマヒしている」

 と言ってもいい。

 しかし、それだけに、

「生きている時代を恥ずかしくないように」

 ということで、武士道というものがあるといえるだろう。

「死に際くらいは潔く」

 というのも、武士道と言ってもいい。

 だから、外人が、明治以降、日本の文化に触れてからというもの、

「ハラキリ」

 であったり、

 戦後などでは、

「カミカゼ」

 という言葉が言われるようになった。

 イスラム教などでは、戦争を、

「聖戦」

 という形で言い表し、

「自爆テロ」

 などということも普通にあったりするではないか。

「自爆テロ」

 というのも、日本人の中にある、

「カミカゼ」

 という精神と似ている。

 ただ、あくまでも、

「戦争を何とか持続させるため」

 ということでの、

「最後の手段」

 として考えられた、

「カミカゼ」

 と違い、イスラム教における、

「自爆テロ」

 というのは、

「自国に対しての侵略を繰り返している国に対して、対抗するため」

 ということで、その対応は、

「民族の生き残り」

 と、

「侵略者に対しての対抗」

 という意味での、

「ゲリラ戦法」

 と言ってもいいだろう。

 だからと言って、

「大日本帝国という国が最悪」

 というわけではない。

 開国してから、欧米列強に対して、植民地にされることなく、

「アジアの盟主」

 として、

「唯一対抗してきた国」

 ということである。

 だから、かの戦争だって、

「大東亜共栄圏」

 と呼ばれる、

「欧米列強に植民地化された東アジア諸国を、欧米列強から解放し、独立して国家運営をしていくための新秩序を、日本が中心になって築き上げる」

 というのが、戦争のスローガンだったのだ。

 それを、

「戦争に負けた」

 ということで、敗者になってしまい、そのため、日本は、

「占領軍から、大東亜戦争という言葉を使ってはいけない」

 ということになった。

 ただ、日本は占領軍の統治が終わった時点で、独立したわけで、そこから先は、

「大東亜戦争」

 と言ってもいいはずなのに、なぜか、日本政府は、

「大東亜戦争」

 という言葉を封印し、しかも、かつての軍や政治家が、

「皇国の興廃」

 というものを真剣に考え、戦争を行ったはずなのに、日本民族が、彼らを、

「侵略者」

 とするのは、どのようなものなのだろうか?

 それこそ、

「愛国心というものは、どこに行ってしまったのだろうか?」

 ということであった。

 独立国になった以上、かつての軍人や政治家に、

「汚名返上」

 という機会を与えることもしないというのは、それこそ、

「非国民」

 ではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「細川ガラシャというのは、自殺だったのか?」

 ということになる。

 確かに。配下の兵士に殺させたから、自殺ではないということになるのだろうが、だからといって、自分はいいとしても、配下の人間からすれば、どういうことになるのだろうか?

「いくら命令とはいえ、殿の奥方を殺すことになるのだ」

 キリスト教の洗礼を受けていないから、信者ではないと言っても、それでは、

「人間を差別していることになるのではないか?」

 信者であれば、戒律を守らなければならないのだろうが、信者でないが、自分の配下の人間には、

「戒律を守らせない命令を出す」

 というのは、その人を制限することになり、それがキリスト教では許されるのか?

 確かに、戦国の世だから、

「一人くらい余計に殺した」

 といっても、関係ないともいえるかも知れないが、

「人を殺める行為」

 というものを強制させたわけである。

 他人であれば、

「教唆」

 ということになるのかも知れないが、自分であれば、

「ただの命令」

 そうなると、

「殺させた相手が自分」

 ということで、もし、これが法律にかかわる問題であれば、

「解釈が難しい」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「細川ガラシャの行為は、本当に、美談といえるのだろうか?」

 ということである。

 歴史の逸話というのは、

「そもそも、勝った方の理屈で作られるもの」

 と言ってもいいだろう。

 特に、日本において、過去から続く、

「政権の移り変わりにおいて」

 その傾向が強いと言ってもいいだろう。

 秀吉など当たりから、その傾向は強い。

「豊臣政権」

 というものにおいても、秀次事件においても、秀次切腹の後、

「秀次がこの世に生きた証拠をすべて消し去る」

 ということで、親戚縁者の皆殺し、関白の執務のための建物としての、

「聚楽第」

 も、跡形もなく壊している・

 もっとも、これは、秀次が気の毒という話もある。

「いやいや、秀次が、ご乱行した」

 ということが原因だと言われているが、実際には分からない。

 事実として、

「関白を譲ったはずなのに。息子ができてしまったことで、秀吉が秀次に謀反の罪を着せて、暗殺した」

 というのが、大方の事実のように言われている。

 実際に、

「秀次が生きた証をすべて抹殺する」

 ということを行ったことからも。

「秀次が、ご乱行のうちのやむを得ない切腹」

 という説は怪しくなってくるというものだ。

 実際に、この辺りから、

「秀吉はおかしくなった」

 ということで、

「離宮切腹」

「朝鮮出兵」

 などというのが、その例といえるだろう。

 結果的に、話が合うかどうかわからなかったが、曖昧な中において、この、

「細川ガラシャ自害事件」

 というものに関しては、話が合った。

 それも、お互いに自分の気持ちを言葉にして、感情をぶつけ合うということで、その結論が得られたわけなので、

「細川ガラシャは、自害と同じ」

 という話になった。

 しかし、話は続きがあり、

「これは、確信犯ということなので、やり方としては、さらにたちが悪い」

 と、山本は思っていたが、その老人もそのことは感じていたようだ。

「キリスト教という言葉を免罪符に使うというのは、モノがキリスト教というだけに、まずいのではないか?」

 ということである。

 そもそも、免罪符というものが、

「カトリック教会がらみ」

 ということだからである。

 それを、老人に話すと、

「まったくその通り」

 という言葉が帰ってきた。

「キリスト教に限らず、宗教において、免罪符というものを使ってはいけない」

 ということにするのは、無理があることなのかも知れないが、

「免罪符というものを使って、人間を差別する」

 というのは、

「宗教というものを考えた時、いいのだろうか?」

 と考える。

 そもそも宗教というものは、そのほとんどが、

「生きている時に幸せになれない」

 ということを、

「死後の世界で幸せになれる」

 という理屈で補うことで、宗教じたいを、免罪符として考えているといえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「生きている時代に生きがいを求める」

 ということで、

「文化の発展」

 というものは、それだけ、

「人間らしさの表れ」

 と言ってもいいだろう。

 宗教というものは、

「神であったり、仏」

 というものの存在によって、この世で、報われないことを、あの世で報いてもらおうという、

「実に都合のいい考えだ」

 ということになるだろう。

 だから、宗教というものが、いい悪いということは後回しにして、

「詐欺集団や、テロ集団」

 というような形で言われるのではないか?

 ということである。

 この老人も。宗教というものには、嫌悪感があるようで、特に

「死後の世界で。幸せになる」

 というたぐいのものは、

「信じられるものではない」

 と感じていたのだった。

 だが、この老人は、

「宗教に対しての、嫌悪感」

 という話をしながら、実際には、

「まるで神がかりではないか?」

 というような話をしていた。

「それがどういう話なのか?」

 というと、

「私には、国家の余命が見える」

 というものだった。

 それは、日本でいえば、政権というようなものであり、もっといえば、日本においては、

「内閣の生存期間」

 と言えばいいだろう。

 政治を見ていれば、

「今の政権は、時間の問題だ」

 ということくらいは分かるだろう。

 だからと言って、

「この内閣は、後何日だ」

 ということまでは分からない。

 内閣が変わるには、いろいろなパターンがある。

「任期満了」

 というパターン。

「支持率が低下したことで、内閣総辞職であったり、解散総選挙」

 というもの。

 これに関しては、

「野党との絡み」

 ということもあって、

「解散総選挙なのか、内閣総辞職なのか?」

 ということは、時代が混沌としていればいるほど分かりずらいと言ってもいいだろう。

 その後の総選挙において、

「別の党による政権交代」

 ということもあるわけで、そうなると、、

「世の中というものが、まったく変わる」

 といってもいいだろう。

 今の世の中において、

「よほどのことがない限り、別の党による政権交代」

 というのはありえない。

 特に、今ほど、

「野党が情けない」

 と言われている時代であれば、

「政権交代などが起こってしまうと、日本は、その時点で終わってしまう」

 と考えている人が一定数いるわけで、その人たちの分が、組織票となって、

「政権交代を許さないだろう」

 ということであった、

 かつて政権交代があった時、

「消えた年金問題」

 ということで、当時の政府の厚生労働省による、積年に渡るずさんな管理がもたらしたものであり、それが、

「年金制度の崩壊を決定的なものにした」

 と言ってもいいだろう。

「当時の野党はそれなりに強く、満を持しての政権交代」

 ということであったが、やることなすことが、最悪で、結果は数年ですぐに、元に戻ったということになった。

 さすがに、その時の野党よりも、さらに、ひどい野党になっているので、前の時のように、

「やらせてみよう」

 などという考えは、もはや。

「亡国へ一直線」

 ということになるだろう。

 それが、今の時代における、

「最速で、奈落の底」

 ということになり、これが、老人のいう、

「国家の寿命」

 というものを分かりやすくしているということなのだろうか?

 老人は、どうして、

「国家の寿命が分かる」

 というのか?

 それを、今から話をしてくれるということであった。


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