第4話 国家の余命
馴染みの喫茶店に行くようになってから知り合った初老の男性は、名前を、玄斎と名乗った。
まるで、どこかの和尚か、時代劇にでも出てくる忍者の親玉のような名前であるが、その様相も、いかにもという雰囲気であった。
白髪に白髭を生やしていて、服が、武士のような服を着ていれば、それこそ、
「時代劇の登場人物」
という風に思えるかも知れない。
ただ、いつもその恰好は、スーツにネクタイという様相で、今の時代であれば、
「どこかの博士のように見える」
という感覚だった。
身体の大きさの割に、顔が大きく見えるので、そこか、飲まれてしまいそうな雰囲気を感じるが、それこそ、
「その人間の威厳」
というものを感じさせられるといってもいいだろう。
最初は、
「近寄りがたい人だな」
と思っていた。
店の客も確かにそんなに多くはなかったが、その人のオーラが他の人とは明らかに違っているので、誰も近寄ろうとはしない。
もっとも、この店の常連は、それぞれに自由であり、それぞれに話をするというのはあまり感じられない。
今の時代であれば、当たり前のことなのだろうが、
「昭和レトロであれば、もう少し話をしている人がいてもおかしくない」
と思ったのだが、実際に、誰も話しかけないこの雰囲気も、
「慣れてくると、これが当たり前なんだ」
と思わずにはいられない。
そして、
「これが昭和というものなんだ」
と勝手に思い込んでしまったが、
「どの時代であっても、昔から変わらない伝統というものがあるのと同じで、それこそ、譲ることのできない遺伝子というものがかかわってきているのではないだろうか?」
と思うことであった。
前述の、
「タイムトラベルの発想」
であったり、
「歴史認識」
というものを考えるようになったのは、この喫茶店に来るようになったからであり、
「玄斎という老人を意識するようになったからなのかも知れない」
と考えていた。
この店では、皆それぞれに、
「指定席」
というものが決まっている。
そして、こういう店にはありがちの、
「客というと、そのほとんどが、常連客である」
ということであった。
それはもちろん、夕方以降に言えることであり、地元の人間でも、
「初めて入るという一見さんということに関しては、かなりのわだかまりを持っている」
と言ってもいいだろう。
この街は南部の人たちと違い、これも、
「あるある」
ということで、
「閉鎖的」
と言っていいだろう。
それこそ、
「閉鎖された村というものが、現代に現れた」
と言ってもいい。
ただ、これは、昔からの街の特性であり、だからと言って、
「差別的なものがあったわけではない」
ということから、行政などが、介入するというのは、まったくの筋違いというものであった。
別に、北部の人たちが、
「閉鎖的」
だからと言って、誰に迷惑をかけるというわけでもない。
もちろん、北部の人たちには、
「南部の人たちに荒らされたくはない」
という思いが根底にあるようで、もちろん、南部の人たちにそんな意識があるわけではない。
完全に、
「思い込み」
と言ってもいい。
南部の人からみれば、
「あそこは、まだ大日本帝国なんじゃないか?」
という人もいるくらいで、
「いや、封建的と言ってもいい」
という人もいた。
しかし、南部の人たちは、意外と、
「歴史認識のある」
という人たちが多いようで、
「封建制度というものが、決して悪いものではない」
と考えている人も少なくはなかった。
「封建制度というのは、精度としては、ある意味しっかりしていると言ってもいい」
というのは、
「相互関係がしっかりしている」
ということからであった。
そこには、
「土地の保障」
という約束事があり、それに対して、お互いに認め合うものということで、
「平安時代のように、貴族や寺院などが、荘園という土地を牛耳っていることで、武士や農民が迫害されていた」
ということから、
「武士や、農民に土地を保障することで、領主が戦をしたり、緊急事態に陥った時には、助けにいく」
ということが、封建制度の基礎であったのだ。
それを、
「ご恩と奉公」
という言葉で表すことができるのだが、これは、現代の政治の基本ともいえるだろう。
「会社員が、会社に雇われて、会社で仕事をすることで、その代価として、給料をもらう」
ということになるのだから、これだって、
「ご恩と奉公」
ということになるだろう。
そして、国家に対しては、
「納税」
という形で、封建制度の時代でいうところの、
「年貢」
ということになるのだ。
「年貢によって、禄を得た領主が、土地を保障する」
ということと、
「税金によって給料をもらう政治家が、国民が生活できるように、政治を行う」
ということは、基本的には同じことである。
今の民主主義であれば、
「政治家というのは、国民の投票によって、多数決で決まる」
ということで、封建時代のような、
「世襲」
ということではないところが違っているのだ。
昔の封建制度というのは、
「中央集権」
でありながら、藩というものがあり、藩には藩主がいて、藩主が、自分の国を治めている。
つまり、今の近代国家における、自治街というものよりも、力が強いと言ってもいいだろう。
だから、幕府は、藩の力を恐れ、幕府の政策として、戦国の世にならないように、という建前で、藩を押さえつけようとする。
それは領民に対しても同じことで、
「藩主である大名を押さえつけるために、最初に行ったのは、難癖をつけて、大名を改易に追い込む」
ということであった。
まだまだ、幕府にとって、脅威になりかねないと思われる大名がいることから、改易させるというのは、当たり前のように行われた。
それが、
「三河以来の譜代大名」
であったり、さらには、
「将軍家筋」
ということであっても、何かあれば、容赦はしない。
それにより、すっかり大名も様変わりして、大名も、
「改易させられてはかなわない」
ということで、逆らうという気が起きなくなったということである。
しかし、改易による問題が露呈した。
というのは、
「改易を行いすぎて、浪人が街に溢れた」
ということである。
つまり、今でいえば、
「会社を潰しすぎて、失業者が増えてしまった」
ということである。
浪人が増えると、当然治安が悪くなる。
浪人と言えども、食わなければ生きていけないわけで、それらが、やくざな組織を作ったり、盗賊のようになってしまったりということになり、幕府を悩ませた。
かといって、天下泰平の世になったのだから、浪人を雇いこむという藩があるわけもなく、幕府としても、社会問題となってしまったのだ。
それでも、幕府は、藩を締め付ける。
反乱を起こさないようにということで、
「一国一城令」
というものを発したり、
「参勤交代」
というものを義務付け、金を使わせるということをしたりしたのだった。
これは、
「幕府と藩」
という関係においては、完全に、
「幕府の独裁政治」
ということになるのだった。
そして、幕府は、経済政策として、その基礎になるものが、
「年貢」
ということで、その年貢を納めるのが、農民だということで、
「農民は生かさず殺さず」
ということで、
「何も考えずに、農業をさせる」
ということが当たり前ということであった。
そこで考えられたのが、
「士農工商」
という身分制度である。
ここでいう身分による優劣関係というものが、表向きには、問題となっているが、そもそも、
「士農工商」
という考え方は、
「武士に生まれたものは死ぬまで武士。農民に生まれれば死ぬまで農民」
ということで、いわゆる、
「職業選択の自由」
というものを奪ったのである。
これは、あくまでも、
「年貢政策の一環」
ということで、
「百姓が減ってしまうと、年貢が減るのは当たり前」
ということになり、
「農民を、その土地にしばりつけておく」
ということが基本だということになるのである。
確かに、封建制度というのは、
「政治政策としては、建前は理屈にはかなっているが、国家体制としては、果たしていかがなものか?」
ということを考えると、
「これほど無理のあるものではない」
といえるだろう。
だが、これはあくまでも、今の、
「民主主義」
という考え方からすれば、
「無体なことだ」
といえるだろう。
しかし、これが、大日本帝国の時代であれば、また見方も違ってくる。
そもそも、明治維新というものは、
「徳川幕府というものに虐げられている藩や庶民が立ち上がって起こった」
ということではない。
あくまでも、
「黒船来航」
というものから、開国することによって、最初は、
「尊王攘夷」
という考えが主流で、
「あくまでも、外国打ち払い」
というのが目的だった。
しかし、幕府は、自分たちで、講和条約を結んだことで、大っぴらに外国の打ち払いなどできるわけはなかった。
「条約を結んだ国に対して攻撃するということは、国際的に許されることではない」
ということで、藩や朝廷に対して、強く出たいのだろうが、すでに、幕府の権威は失墜していて、大名もいうことを聴かなくなってきた。
しかも、主要な藩が、
「外国の脅威」
というものを、
「身に染みて分かった」
ということになると、
「逆らうことができない」
ということになり、
「世界のレベルに追い付いて、自国が先進国に名乗りを挙げるしかない」
と考えるようになると、
「幕府では、これからの日本を守っていくことはできない」
ということで、
「天皇を中心とした中央集権国家を築く」
という発想になり、それが、
「尊王倒幕」
というものになったのである。
これが、
「封建制度の崩壊」
ということになる。
確かに、
「外国からの脅威」
ということによって、開国し、明治維新に導かれたということで、
「明治維新というのは、外国の脅威という外的なものによってなされたことだ」
といえるかも知れないが、もし、
「黒船来航」
というものがなくても、世界情勢を鑑みれば、
「いずれは、どこかで明治維新と同じことが起こっていたに違いない」
といえるだろう。
これも、一つのパラレルワールドと考えると、
「結果は同じことだ」
という意味で、
「開国による明治維新」
というものが、まるで。歴史の真実ということで、
「起こるべくして起こったことだ」
と考えられるが、考えられる他のパターンというものを考えると、
「史実の明治維新というのは、かなりのいびつな形だったのではないか?」
とも考えられる。
その後に起こった明治維新では、そのスローガンとして掲げられた、
「富国強兵」
「殖産興業」
というのは、あくまでも、諸外国から強制的に結ばされた不平等条約の撤廃ということで、
「黒船来航」
というものからの明らかな影響である。
そうなると、日本において、富国強兵によって、軍に大きな権力を与えるということで、憲法の条文で、
「天皇は陸海軍を統帥す」
というものがあり、
「軍は、天皇の命令以外は聴かなくてもいい」
という特権を得ることになるのであった。
大東亜戦争の前夜、
「軍が暴走したことで、あのような悲劇の戦争に突入した」
と言われるが、まさにその通りであった。
それもこれも、
「明治維新に、外国からの脅威が絡んでいる」
ということからくるもので、アジアの他の国に比べれば。
「植民地にならなかっただけでもよかった」
ということになるのだろうが、結末からいえば、大東亜戦争の敗北がすべてであったと考えれば、
「アジア諸国と大差があるわけではない」
といってもいいだろう。
日本が敗戦したことで、連合国から、民主主義を押し付けられる。
それまでの体制とはまったく違った考えの元、
「日本は生まれ変わった」
ということであれば、それを、
「封建制度が崩壊したことによって、新たな政府ができたことで、いろいろな改革がおこなわれ」
それを、
「明治維新」
というのであれば、敗戦を機に、新たな国家体制が生まれたということであれば、それを、
「昭和維新だとどうして言わないのか?」
という疑問が残るのであった。
あくまでも、新しい政府は、
「占領軍」
によって統治されたことで、最終的に、統治が終わり、日本の新政府にその統治が委ねられるということになったのだから、
「さすがに、他力本願の改革」
ということで、
「昭和維新」
というわけにはいかないということになるのであろう。
この街の、南部の人たちは、これくらいの歴史認識は持っていた。
だから、閉鎖的な北部の人たちに対して、
「封建的だ」
という発想は持っていない。
あくまでも、
「封建的だ」
と考えるのは、
「江戸幕府の政策に、鎖国政策というものがあったからだ」
ということになる。
鎖国政策を行った理由としては、
「大きく二つあるのではないか?」
ということであった。
一つは、
「キリスト教を廃止させる」
という理由からであった。
そして、もう一つは、
「長崎の出島において、オランダ、清国とだけ貿易を行っているが、それはあくまでも、幕府の独占」
ということであったのだ。
豊臣時代に、秀吉が、
「バテレン追放令」
というものを発し、キリスト教の布教を禁止したが、しかし、諸外国との貿易を、優先したことで、
「バテレン追放令」
というものが、曖昧になってしまったという事実があった。
それを、幕府は警戒したのか、
「もっと徹底的にやらなければ、どちらもうまくいかない」
ということからの、
「鎖国政策」
だったのかも知れない。
そこには、諸外国の思惑もあったのかも知れない。
幕府にいろいろな入れ知恵をすることで、諸外国も利権をえようと考えるので、その言い分は、
「自分たちに有利な言い分」
でしかないだろう。
幕府とすれば、
「あくまでも、貿易の中心は自分たちだ」
と思っているとすれば、
「信じられる国だけを貿易の対象とし、それ以外は、締めだす」
ということで、
「鎖国政策」
ということになったのだろう。
それを考えると、
「オランダが選ばれた」
ということは、徳川幕府の歴史においても、その後の歴史においても、大きなことだったと言ってもいいだろう。
「国家体制において、封建制度と、大日本帝国における、立憲君主国。さらに、敗戦後の民主主義」
というものは、それぞれに、その変革において。
「外国からの大いなる影響」
というものがあったと言ってもいいだろう。
そういう意味で、
「封建制度において、日本が鎖国政策を取った」
というのは、間違いではないと思えるが、その後の開国から以降の歴史として、
「後れを取った日本において、諸外国に必死になって追い付け追い越せ」
という発想は悪くはないが、世界情勢に、日本という国が、
「国家規模として、耐えることができなかった」
というのが、一番大きな理由なのではないだろうか?
それを考えると、
「日本という国は、一度は、亡国となり復活してきた。それは、明治日本においても、昭和の日本においても言えることである」
といえるかも知れないが、
「では、今の日本を亡国と考えるとすれば、今日本が向かっている方向は、明らかに、亡国一直線ということであり、世界情勢から考えても、いくらひいき目に見たとしても、日本に対して優位な状況は、まったくない」
と言ってもいいだろう。
何といっても、今の政治家が腐り言っていて、
「ソーリには、誰がなっても同じで、最悪であるソーリの代わりすらいない」
ということが、
「日本という国が、亡国に一直線である」
ということを証明しているだろう。
国家元首が、国民のことを考えず、自分の権威や、利益だけを考えてしまえば、
「それこそが亡国なのだ」
ということになるであろう。
その初老の男性とは、そういう歴史の話であったり、タイムトラベルのような話を好きですることが多かった。
最初から、この喫茶店で、そんな話をしていたわけではないのだが、元々は、その初老の男性と話をするようになったのは、マスターの口利きがあったからだ。
歴史の話に造詣が深いということで、最初の頃はマスターに、そういう歴史の話をよくしていた。さすがに、マスターは、友達もなかなかついてこれないような歴史の話をついてきてくれた。それが、
「本当に歴史が好きなのか」
それとも、
「歴史に造詣が深いだけなのか」
それとも、
「話題性が広い中での、歴史という話題なのか?」
のどれかであろうが、正直、すぐには分からなかった。
だが、話をしてみると、次第に、あすったーとの話が噛み合わなくなってくることから、
「真から歴史が好きだということはないのだろう」
と思うようになった。
となると、普通に考えれば、
「話題性が広い中での、歴史という話題なのだろう」
と思うのだった。
では、マスターにとっての歴史というのは、何であるかを聴いてみた。
すると、
「話題としての歴史だね。学問としては、よくわからないので。造詣が深いということではないと思うんだ」
というではないか。
つまりは、マスタとすれば、
「歴史というものを、学問としてなのか、話題としてなのかということを聴きたかったという自分の考えを分かってくれているんだろうな」
と山本は思った。
だから。
「ここまで話に付き合ってくれただけでも。マスターにはお礼を言わないといけないだろうな」
と感じたのだ。
歴史という学問では、興味が湧かないと思ったので、マスターに、
「タイムトラベル」
の話をしていた。
すると、マスターは、また話に食らいついてくれた。しかし、今回は、歴史の話と違い、今回は、結構、興味を持ってくれているのが分かったのだ。
「歴史の話よりも、面白いでしょう?」
と、ある程度、タイムトラベルの話に花が咲いてきたのを感じると。山本がマスターにそういった。
マスターはまんざらでもないという思いもあったが、山本の頭の中に含みがあるということに気が付いたのか。その雰囲気に、
「やられた」
という感情が出てきたのを感じた。
山本は、
「してやったり」
という思いを抱いたが。お互いに、すでに気心が知れていたので、二人とも悪い気はしていないと思えたのだ。
山本は、マスターの気持ちを、マスターは山本の思惑を分かっていて、お互いに、
「気心が知れた会話」
というものを楽しみことができている。
これが、お互い、
「ツーといえば、カー」
ということなのであろう。
そんな、SFチックな話をしている時、話に飛び込んできたのが、この初老の男性だったのだ。
最初は、カウンターの横で話を聞いているだけだった。そして、山本は、隣に、その男がいるということを分かっていて、無視してマスターと話をしていたが、それでも、この男が、話に入ってくるということであっても、
「それはそれで別に構わない」
と思っていた。
その男性は、
「間違いなく話を聞いている」
とは思っていたが、どこまで理解できているのかまでは、正直分からなかった。
だか、時々、マスターの話に、その男性が頷いていることに気づくと、
「俺の話には何も感じないのだろうか?」
と感じたが、こちらが、その人の頷きに気づくと、こちらの話に頷いてほしいと思っているところで頷いてくれていることに気づいた。
「なるほど、この人は、さりげない気の遣い方がうまい人なんだ」
と感じた。
というのも、この男性は、
「こちらが頷いていることに気づいているかどうかを図っていたんだ」
と分かった。
こちらが気づいてもいないのに、勝手にうなずいていると、相手の失礼だと感じたからに相違ない。
そんな風に考えていると。
「この人は、別に悪い人ではないんだ」
と感じ、最初に、
「薄気味悪い人だな」
と感じたことに対して、
「失礼なことをした」
と思うと、やはり、こちらの気持ちが分かるのか、その人は納得したかのような表情になったのだった。
「失礼なことをしているわけではなく、その表情は、こちらの納得がいくようにしているのだ」
と分かると、そもそも、相手が何を考えているかなどということを考えたこともなかったはずの自分が、相手にばかり、何かを求めていたということを思うと、少し恥ずかしい気持ちになるのだった。
「自分が人に気を遣うなんて」
と思ったのも、この時が初めてだったのだ。
人に気を遣うということを、山本は、子供の頃からするのは嫌いだった。
時に、親からは、
「人には気を遣わなければいけない」
と言って、教育されてきた。
しかし、
「人に気を遣うということがどういうことなのか?」
ということが分かるわけではなかった。
分かったといっても、理屈で分かったわけではなく、
「親がいうから、しないといけない」
ということでの、
「損得勘定」
によるものだったからだ。
そんな損得勘定でしか動けないと思う自分が情けなく、それが、親から洗脳されているのだと考えると、さらに情けなくなる。
そのうちに、
「納得していることであっても、すべてが洗脳だ」
と思うようになり、それが、要するに、
「トラウマによるものだ」
と感じるようになったのは、中学生になってからであろうか。
しかし、中学生になると、すでに、
「受験戦争」
という子供の頃の中では、抜け出すことのできない中から、どのように、
「自分が理解したことなのか?」
あるいは
「トラウマによる洗脳なのか?」
ということが分かるというのか。
それを考えると、
「損得勘定」
なのか、
「洗脳なのか?」
そのあたりをいかに自分で理解できるかということが、問題だったのだ。
そのうち、
「歴史」
であったり、
「タイムトラベル」
というものの話に造詣が深くなると、
「いよいよ、自分の発想が、大人に近づいてきたのか?」
と思うようになった。
中学生では、よく
「中二病」
と言われるような、妄想に駆られ時期があるというが、山本には、
「中二病」
と呼ばれる時期は存在しなかった。
それは、
「最近の季節で、秋がない」
と言われるものと代わりない感じであった。
「子供の発想から、いきなり、大人の発想になる」
と考えると、
「子供から大人になるまでの段階が、自分にはなかったのかも知れない」
と感じるようになったのだ。
これは、今となって感じれば、
「あまりいい傾向だったのではない」
と思えるのだった。
急に成長するというのも、あまりいい傾向ではない。その年齢にはその年齢で、
「越えなければいけない段階がある」
といえるだろう。
それを分からなければ、
「他の人と話も合わない」
ということであるし、話が合わないと、成長したのかどうかも、自分で分からない。
分からないというよりも、納得できないということで、納得できないことで、大人というものがどういうものなのかが、分かってこないということになるのだろう。
話は、タイムマシンや、タイムトラベルの話をしていて。三人で、最初は盛り上がっていたのだが、そのうち、マスターが、仕事が忙しくなってきたのか、その話から、少し離れていった。
離れたというよりも、
「脱落していった」
といって方が正解だったかも知れない。
実際に、話は、初老の男性と、山本の話になってきたからだ。
というか、
「最初はマスターと山本の話であったが、山本の話のテンションはそのままで、マスターの話の内容とテンションが、そのまま初老の男性に移っていった」
ということで、それも、
「山本との話で、別に相手は徐々に話のテンションが移っていったが、その移動に違和感はなかった」
といえる。
それを考えると、マスターがうまいのか、初老の男性がうまいのか、山本に気づかせないように、うまく二人の間で、
「引継ぎがうまくいった」
といってもいいだろう。
しかも、そのことを、山本は気づいていた。
つまり、
「マスターと、初老の男性の引継ぎがうまかった」
といえるのか、それとも、
「山本の対応がうまかった」
といえるのか?
そのどちらもだということなのかも知れない。
こういう場合、必ず、どちらかがぎこちなくなる。
だから、こういう綱渡りなことは、普通はやらないだろう。
それをやってのけるのだから、
「ここでの登場人物である三人は、ここで知り合ったのが偶然であっても、運命だといえるのではないだろうか?」
つまり、
「運ということが、必然なのか偶然なのか、そのどちらであっても、説明がつく」
というのは、この場合の三人に言えることではないだろうか?
話の内容は、次第に深いところに入ってきそうになっていたが、それを誘導したのは、初老の男性の方だった。
「こんな老人に、このようなSF的発想ができるのだろうか?」
と思った。
最初は、
「しょせん、昭和の昔の発想だから、まだよく知られていない時代だっただろう」
とタカをくくっていたが、
「どうして。そんなことはなかった」
むしろ、昭和の時代の方が、難しい話にはついてこれるようで、たまがって見ていると、それを察したのか、初老の男性は、
「昭和人間にここまでの発想があるのにはびっくりしただろう」
と、山本の考えていることくらいは、お見通しとばかりに、いうのだった。
「ええ、まさにその通りです」
と。いうと、
「昭和の頃の方が、意外と発想という意味では、豊富だったかも知れないよな。だけど、時代が進んでくると、今度は、途中で進まなくなってくる。タイムパラドックスの問題であったり、発想というものには、段階があるので、その段階が飽和状態になると、そこからなかなか進まなくなってしまったりする。それが、ちょうど平成から令和に入った頃で、そこに、何といっても、昭和の頃に一番のピークだった時代から、半世紀が経っている。その間に、目新しいことは何一つ生まれていないわけだから、発展のしようがないというものではないのかな?」
というのであった。
その説得力は、言葉にもあるが、初老の男性の中にある、オーラのようなものではないだろうか。
そんなオーラと、発展しようとする時代の流れとが、うまく符号しないと、結果として、
「交わることのない平行線」
となるのではないだろうか。
実際に平行線というものが、交わらない」
というのは、いわゆる、
「無限」
というものを示しているということであり。この場合の無限というのは、
「永久に発明されない」
ということで、無限という言葉にも、
「いい意味での無限と、悪い意味での無限が存在している」
ということの証明だといえるのではないだろうか?
どうやら、老人は、この、
「無限」
という言葉の証明ということを言いたかったような気がする。
そして、この老人を見ていると、遭ったのは今日が初めてではなかったが、ここ数日のはずなのに、
「数年前から知り合いだったような気がする」
という感じがした。
それは、
「話の内容が充実している」
というわけではなく、
「その老人の時系列での顔の変化」
というものを分かっているということから感じたことであった。
「ここ数年間というもの、特に、自分が年を取ってきたということを感じるになった」
ということからであった。
年を取ったといっても、まだ目の前の老人から見れば、
「まだまだ子供だ」
と言ってもいいだろう。
目の前の老人がいくつ七日は分からないが。まだまだ十数年くらいは違っていると言ってもいいだろう。
だが、自分が、今40歳代に差し掛かってきた頃なので、老人が定年前くらいではないかと思うと、
「まだ20歳は離れている」
と言ってもいいかも知れない。
ただ、今から20年後というのは想像もつかないが、
「歩んできた20年ということで考えると、今から20年前というと二十歳の頃である」
その頃というと、まだ大学生で、大学時代というと、
「何を考えていたのだろう?」
と考えてみても、思い出すことができないほどであった。
もちろん、本当に思い出せないわけではなく、思い出そうとすると、その長い時間に、
「思い出そうという意識は強くないと。今の自分が過去に戻る意識を持つことができない」
というような、まるで、
「タイムトラベル」
の発想のようである。
「こんなことを考えているから、タイムトラベルの発想が、今日に限って、こんなにも、鮮やかにいろいろ浮かんでくるのだろうか?」
と感じた。
「それこそが、マスターと一緒に話をしていた時、自分で考えていたことに、そのマスターがついてこれなかったくらいに鮮やかだったからではないだろうか?」
と感じた。
しかし、それ以上に言えることは、
「ここで話をしている中で、マスターと話している内容が、いつの間にか、、タイムトラベルの話から、歴史の話に移行しているかのように感じたからだった」
と思ったからだった。
どうも、
「マスターが歴史の話は苦手だ」
ということは分かっていた。
分かっているところで、
「マスターが話から抜けたがっている」
と思ったところに現れた、この老人。
「助かった」
とマスターは思っただろう。
実際に、これから、洗物などの仕事が溜まってくる時間だということもあってか、老人も、よくわきまえていると言ってもいいだろう。
老人が、何も言わずに、話のバトンタッチをしたわけだが、話に入ってきてからの老人は饒舌であった。
「完全に、主役の座を奪うのではないか?」
と思えるほどで、洗物に勤しんでいるマスターもびっくりして顔を挙げたくらいだった。
初老の男性というのは、やはり、時代が、SFに対しては、
「昭和のピーク」
といってもいい時代で、ただ、日本において、SFというのは、小説においても、映画においても、どうしても、目立たない存在だった。
それにくらべれば、
「日本独自の文化」
と言っておいいマンガやアニメの世界では、結構SF系のものはあると言ってもいいだろう。
「スペースなどの宇宙物の戦争」
であったり、
「タイムトラベル系の話」
なども、賑やかだった時期というのが、前述の、
「半世紀前の昭和のピークだ」
と言ってもいいのではないだろうか?
それを確実に知っている。
知っているどころか、少年期から青年期で味わったのではないか?
と思える時期なので、特に、その造形の深さを感じるのであった。
山本も、
「ロボットアニメ」
などの、ピークではあったが、それでも、
「創成期」
と呼ばれる時代に比べれば、どうしても、目立たあない。
それを思えば、この男性を見ていて。
「さすがだ」
と思わざるを得ない。
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