第3話 歴史の正否
パラレルワールドというものは、
「タイムトラベル」
という、いわゆる、
「SF小説」
などというジャンルのものから生まれた言葉であった。
「タイムトラベル」
というものには、今ではいくつかの種類が考えられていて、そのうちの大きな分け方に、
「三つある」
と言われている。
その一つが、
「タイムスリップ」
と言われるもので、
「タイムマシンを使って過去や未来に行ったり」
あるいは、
「何か、説明はつかないが、時空の穴と言われるものによって、自分の知らない時代に放り込まれる」
という発想が、SF小説などでは一番スタンダードな発想として言われているものであった。
「タイムスリップ」
というのは、
「自分が、知らない世界に連れていかれる」
というもので、
「何かの機械であったり、媒体を使って、身も心も、その時代に行ってしまう」
という考え方である。
SFの中で一番昔から言われているもので、ただ、そのかわり、タイムスリップには、
「タイムパラドックス」
というものと、
「切っても切り離せない発想」
ということになるのだ。
つまりは、
「タイムパラドックスというものを解決しないと、タイムトラベルは不可能だ」
ということである。
タイムパラドックス」
というのは、簡単にいえば、
「過去に行って、過去の歴史を変えてしまうとどうなるか?」
ということであった。
そのいい例として言われるのが、
「過去に戻って自分が生まれるのを阻止すればどうなるか?」
ということである。
「自分が生まれることはないので、自分が、過去に行って、歴史を変えるということもない」
というのが、最初の考えで、
「歴史が変わらないのであれば、自分が生まれてくることになり、そのままいけば、タイムマシンを完成させ、過去に行くという歴史が広がってしまう」
というものである。
つまりは、
「歴史を変えてしまうと、歴史を変える人間がいなくなることになり、歴史は変わらずに、過去に行くことになる。すると、歴史が結局は変わってしまう」
という、
「矛盾した循環」
というものが、
「タイムパラドックス」
というものである。
しかし、このタイムパラドックスというものの解決法として考えられるのが、
「タイムトラベルとしてのもう一つの考え方」
としての、
「タイムリープ」
というものがあるのだ。
この考え方は、例えば、
「今の自分の人生というものに嫌気がさした」
として、
「もし、過去に戻れるとすれば、どの時代に戻りたいか?」
と言われたとする。
そして、これは、あくまでも、今の自分が、
「つまり、数年後の自分が、過去の自分に乗り移る」
という考えであり、要するに、
「未来を知っている自分の精神が、過去に戻って、その時の自分に精神だけが乗り移る」
というものである。
「未来を知っているのだから、同じ失敗は繰り返さないだろう」
という考えから出てきたものかも知れない。
確かに、理屈としては、辻褄は合うが、
「実際に、そんなにうまくいくだろうか?」
ということである。
確かに、過去の過ちは分かるかも知れないが、
「では、間違いを正すことが、同じ自分にできるのだろうか?」
ということである。
その後、
「間違いだった」
ということに気づいたとしても。
「だったら、どうするのが最善だったのか?」
ということが分かるというのだろうか。
確かに、その後、不幸な道に入ったのかも知れないが、
「どうすれば、道を誤らずに済んだのか?」
ということが分かっていないと、逆に、
「同じ人間なのだから、結果として同じ道を歩んでしまうのではないだろうか?」
と考えられるのである。
「その場所には、それ相応のふさわしさというものがあるわけで、その時代時代には、似合うものがあるはずだ」
ということを歴史の勉強で学んできたこともあって、
「人間が同じで、明らかに間違いを正す道が見えていなければ、無数に存在する可能性の中から、どんなに抗ったとしても、結果としては、同じ道を歩むことになる」
と考えるのであろう。
ただ、
「タイムリープ」
というものは、
「タイムスリップ」
というものにあった矛盾を解決するという意味では、
「画期的な考え方である」
といえるだろう。
それは、いわゆる
「タイムパラドックス」
というものを否定するというものであった。
「タイムパラドックス」
という考え方の中には、
「同じ次元で同一時間に、同じ人間が存在することがありえない」
ということになる。
つまり、
「歴史を変えてしまう」
という考え方からで、これも一種の、
「神話」
と言われるものなのかも知れないが、これが、
「タイムパラドックス」
というものであれば、
「同じ人間が、同一次元の同一時間に存在する」
ということになるというものだ。
ただ、それは、
「その人が生存している時間」
ということで、
「次元が違えばありえること」
と言ってもいいだろう。
そういう意味では、
「同じ次元の同じ時間に存在しないということで、その人が生まれる前であったり、死んだ後ということであれば、どういうことになるのだろう?」
とも考えられる。
自分に関係のない歴史を崩す」
ということになるのかも知れないが、
「自分に関係のない歴史」
というのは、たとえ変えたとしても、その歴史というのは、
「元々普遍的なものだった」
と言ってもいいのかも知れない。
そういう意味では、
「タイムパラドックス」
という観点から考えると、
「自分にかかわる歴史」
と、
「まったく関わらない時代」
というものは、タイムパラドックスという観点から考えれば、
「交わるものではなく、まるで平行線のようなものではないか?」
といえるのではないだろうか?
自分がかかわる場合は、
「タイムパラドックスをどうしても気にしないといけない」
と考えるならば、
「タイムパラドックス」
というものがまったくその矛盾というものを示さないということでの解決方法となるということであるならば、
「タイムリープという考え方は、斬新なものではないだろうか?」
といえるのではないだろうか?
そもそも、タイムリープというのは、
「精神だけが戻る」
というもので、しかも、未来を分かっているというだけで、
「解決方法が分かっている」
と思っているとしても、
「それが、本当の解決方法なのだろうか?」
ということになるのである。
もっといえば、
「そもそも、間違いだった」
と思うことが、本当に間違っていたといえるのだろうか?
つまりは、
「正しいと思って、その道を進んだ場合、さらに、ひどいいばらの道だった」
ということになりはしないかということである。
「歴史をやり直す」
ということが、下手をすれば、
「タイムパラドックス並みの間違いだ」
と考えると、
「タイムリープにも、パラドックスというものが潜んでいるのではないだろうか?」
ということである。
これがある意味、
「夢の世界」
というものと並行して考えるということになるのだろう。
また、そんな
「タイムトラベル」
というものの中には、
「タイムループ」
というものがある。
こちらは、状況的には、
「タイムスリップ」
と同じではあるが、発想としては、そのタイムスリップに、タイムリープの考え方を組み合わせたようなもので、つまりは、
「過去に戻る時、もう一度やり直したいという、ハッキリとした意図をもってやり直すわけだが、この時は、
「自分が以前の自分に置き換わる」
ということでの発想である。
だから、
「同一次元の同一時間に同じ人間が存在する」
というタイムパラドックスの問題はない。
そして、やり直しは複数回できるというものである。
その人にとっては、
「実に都合のいいもの」
ということになるが、これも実は、難しい。
というのは、タイムリープの場合にも言ったが、
「どれが正しいのか?」
という答えは、誰にも分からない。
ということである。
実際に過去に戻ってやり直したとして、やり直したことが、本当に正しいのかどうか、誰に分かるというのか?
しかも、何度もやり直しがきくということなので、ひょっとすると、五回、やり直すことができるとして、五回やり直した中で、
「一番よかったのは、三回目だった」
などということで、やり直した結果、
「やり直さなければよかった」
といって、後悔しても、後の祭りというものである。
歴史というものは、やり直すことはできない。つまり、
「過去を変えることはできない」
ということになる。
もし、やり直したとして、そのやり直しが、
「パラレルワールドの別の道」
ということになるのではないだろうか?
もし、
「パラレルワールド」
というものを否定しないのであれば、
「タイムスリップ」
というものが起こっても、
「タイムパラドックスというものはお子あらない」
ということになるだろう。
つまり、
「タイムパラドックス」
というものは、
「並行世界」
と呼ばれるもので、
「同一時間ではあるが、次元が違っている」
ということになり、そもそも世界が違うのであるから、出会うことも、別の世界なのだから、そちらの世界に影響を与えることはない。
と言ってもいいだろう。
もっといえば、
「それぞれの並行世界の中に、自分という存在はいるわけで、その自分の中に入り込む」
つまりは、
「タイムリープのように、精神だけが入り込む」
ということになるのだろう。
それがどういうことなのか、いろいろ考えてしまうと、
「タイムトラベル関係というもので、いろいろとあるが、結果的には、どの考え方であっても、最終的には、一つに集約されるものではないか?」
と思える。
つまり、
「それぞれの発想には、一長一短というものがあり、その矛盾を解決するために、新たな考え方が生まれてくるが、結局は、その中でいい部分だけを切り取って、一つの結論に至ることになる」
というのが、
「タイムトラベル」
というものの発想だといえる。
そう考えると、歴史というものも、同じ発想で考えた時、
「歴史とは、いろいろなパラレルワールドが存在するが、どの道を通っても、結果的に、最後は同じところに来るのではないか?」
という考えであった。
それが、
「運命」
というものであり、
「その運命からは逃れられない」
ということになるのではないだろうか?
「人間というのは、最初と最後の運命から、逃れることはできない」
というものである。
「最初と最後」
つまりは、
「生まれ落ちる時と、死ぬとき」
ということで、
「生まれる時は、自分の意志でどうすることもできない」
ということだ。
そして、死ぬときも、寿命というものがあり、大往生であれば、その運命から逃れることはできない。
もし、パラレルワールドというものが、今の世界の、
「並行世界」
ということであり、
「同じ自分が、パラレルワールドには、必ず存在している」
ということであれば、
「パラレルワールドというものは、登場するそこで生きている人間には、まったく変わりはない」
ということになるだろう。
同じ人間が同じように存在するが、生き方の可能性が違うというだけのことであるとすれば。
「パラレルワールドであっても、生まれる時と死ぬ時は変わらない」
ということになるだろう。
ただ、
「生まれる時、同じ親から生まれてくるのかどうか」
あるいは、
「死ぬ時というのは、同じシチュエーションで死ぬ」
ということになるのかまでは分からない。
しかし、無限に広がる世界で、どこで切ったとしても、そこにいる人の数に変わりはないということになるのだ。
「それぞれに可能性があるのだから、生まれる時も、死ぬ時も、同じになるというのは、普通に考えるとおかしな気もするが、
「パラレルワールド」
というものの発想が、
「並行世界」
というものである以上、
「人間の生き死には、運命で決まっている」
ということになるだろう。
そこだけは、
「パラレルワールドであっても変わらない」
ということになるのだろう。
だとすると、歴史認識というのも、
「人の生死」
というものが、基本になっていて、あくまでも、それが、
「歴史の原点ではないか?」
と考えたとすれば、
「パラレルワールドというものは、本当に存在し、実際に、行き来できるものではないか?」
とも考えられる。
SF小説の中で、
「タイムスリップをして、過去に戻る」
というものも結構ある。
その中で、作者がどのような結論を出すかということで、興味深いものがあるが、作品には、それぞれのパターンが存在する。
まず、
「タイムスリップは、不可抗力だ」
ということから始まる。
「タイムマシンを作って、自分から別の時代にいこう」
と考えたものではなく、いわゆる、
「ワームホール」
のようなものに落ち込むのか、あるいは、磁気嵐のようなものに巻き込まれて、タイムスリップしてしまう場合である。
そのタイムスリップした人は、
「タイムスリップに対しても、史実にしても理解しているという前提である」
ということで、自分に起こってしまった状況を把握することで、
「理由は分からないが、歴史が、自分に何かをさせようとしている」
と考えるだろう。
そうなると、主人公は悩むはずだ。
「歴史に逆らって、過去を変えてしまっていいのだろうか?」
ということである。
というのは、
「戻った過去は、自分たちの未来に対して、汚点を残すということが分かっている」
ということだからである。
例えば、戦争の場面に立ち戻り、自分の国が攻撃されるということが分かっている場合に、タイムスリップしたのが、
「未来の軍隊の一部」
ということであるから、
「自分たちの兵器をもってすれば、十分に、攻撃を阻止することができる」
と考える。
しかし、それは歴史を変えるということであり、タイムパラドックスを考えると、できることではない。
中には、それを分かっていて。
「しかし、自分たち軍は、国民を守る義務がある」
というのだ。
最終決定として、
「自分たちは軍なのだから、国民を守ることが最優先」
ということで、
「歴史を変える」
ということに挑戦することになった。
実際に、作戦を実行しようとした時、またしても、磁気嵐が巻き起こり、結局、元の時代に戻ってくるということになるのだが、要するに、
「歴史は自分たちに何もさせなかった」
ということで終わるのだ。
ただ、疑問はいろいろ残る。その作品ではラストに、一人過去に取り残された人が年を取った姿で会いに来るというサプライズ的な話があったが、それがなければ、疑問だらけである。
要するに、
「過去に戻った」
ということは、
「パラレルワールドを見せた」
ということで、
「歴史を変えようとした」
ということになるのだろう。
ただ、結局は戻ってきたということで、事なきをえたと考えられるが、前述の発想ということを考えれば、
「パラレルワールドには、そのすべてに、同じ人間が存在しなければいけない」
ということであるのなら、そもそも、
「パラレルワールドに存在する」
ということがありえないということになるのだ。
だが、
「それをありだ」
と考えるのであれば、
「タイムスリップを行った」
という事実は、正真正銘の、
「歴史において正しい」
ということになり、
「矛盾であっても、起こってしまったことは、正しい」
と考えるしかないというわけである。
これが、
「夢の世界と、現実の世界の違い」
というもので、下手をすれば、
「夢の世界であっても、それを、一つのパラレルワールドだ」
と考えるのであれば、
「夢の世界も、歴史においては正しい」
ということになるのかも知れない。
そうなると、
「歴史は、変えることができない」
というわけではなく、
「歴史が変わってしまったら、その変わってしまったことが、正しいことだということで、上書きされる」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「歴史というものは、何が正しいのかということは、人間には、永遠に分からない」
と言ってもいいだろう。
つまり、
「歴史が終焉を迎えたその時でしか、何が正しいのかを決定することができない」
ということになるだろう。
では、
「歴史が終焉する」
というのは、どういうことをいうのだろう?
それは、
「宇宙の果てがどこにあるか?」
という発想に似ている。
「果てしない」
そして、
「無限」
ということが当たり前だという発想から生まれる考え方が、
「結局、最後には、同じところに落ち着くことにしかならない」
ということになり、これが、歴史に限らず、すべての答えだということになるのかも知れない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます