第2話 レトロな喫茶店

 この街は、昔からの情緒を残した部分と、現代風の街という、それぞれの顔を持ったところがあった。

「小高い山の麓にある、鎮守様と言われる神社」

 というのも、

「昔からの情緒を残す場所」

 と言ってもいいだろう。

 そして、この神社が、

「市のやや北の方にある」

 ということは、昔からの情緒を残す場所というのは、市の北側を閉めているということであり、逆に南川は、住宅地であったり、学校や病院などの、

「普通の生活の匂いを感じさせる場所」

 というところであろう。

 山本は、そんな南部の、住宅地と呼ばれるところに住んでいるわけではなく、

「昔からの情緒あふれる場所」

 に住んでいた。

 もっとも、山本が、

「元々、そんな情緒のあるところに住みたかった」

 というわけではなかったのだ。

 たまたま部屋を探している時、予算と部屋のバランスを考えた時、探し当てた部屋が、

「北部にあった」

 というだけのことであった。

 北部に、情緒のあるところが集中していると言っても、待ちすべてが、情緒のあるところしかないというわけではない。

 住宅などは、南部と変わらないところが多いのだった。

 それでも、住宅も、住む人も南部に集中する。

 というのは、その理由としては、公共交通機関の駅や路線というのが、南部に集中しているということからであった。

 北部を通る路線もあるが、何といっても、本数は激減し、最終電車や最終バスの時間も、圧倒的にこっちの方が早いのだった。

 しかも、

「南部には、繁華街も、歓楽街もあり、飲みに行くにしても便利がいい」

 ということになる。

 しかし、北部は、そもそも、

「観光地」

 ということでの町おこしのようなものである。交通の便も、

「昼間よければそれでいい」

 というもので、

「歓楽街も必要はない」

 ということであった。

 もっといえば、

「この市の場合、元々、北部と南部との間で確執があり、お互いに競争をしていたのだ」

 だから、それぞれに、まったく違った経営によって張り合っているわけで、

「相手と同じようなことをしていたのでは、埒が明かない」

 と考えていた。

 それこそ、まるで、

「大日本帝国時代の、陸軍と海軍のようではないか?」

 ということであった。

 まるで、今の時代の、

「警察における、縄張り意識のようではないか?」

 というほど、陳腐なことで争っていた」

 と言ってもいい。

 同じ運営機関でありながら、海軍と陸軍とでは名前が違っていたり、また、使う単位まで、微妙に違っていたりする」

 ということであった。

 というのも、

「軍の作戦を立案する本部と呼ばれるものを、陸軍では、参謀本部と呼ぶが、海軍では、軍令部と呼ぶ」

 というものであったり、単位も、

「陸軍では、センチと呼んでいるものを、海軍では、サンチと呼んでいる」

 ということであった。

「まるで子供の喧嘩のようだ」

 ということであるが、それも、陸軍と海軍とでは、

「お互いに予算をどれだけたくさん取れるか?」

 ということで争っているのだ。

 だから、当然、いがみ合いのような形になっても無理もないということであろう。

 今の時代の警察が、どういう意識になっているのかということは分からないが、要するに、

「どの時代においても、似たような組織は、まるで子供の喧嘩のような醜い争いというものを引き起こす」

 というものであろう。

 そんな、

「旧日本軍であったり、警察組織のような、対抗意識がどこまで、この街に存在したのかというのは分からないが、それぞれの街では、まるで南北朝時代のような確執があるのではないか?」

 と思うのだった。

 しかし、それぞれにライバル意識があるということは、そこには、

「意地」

 というものが存在している。

 それこそ、

「老舗の店」

 などであれば、店の名前の先頭に、

「本家」

「元祖」

 などというものをつけることで、真剣にライバル視しているというのを見て、思わず苦笑いをしてしまいたくなる状況があったとしても、小説やドラマなどでは、必ず、その理由を示したところで、その解決策に、

「争いとなった最初の確執をいかに解消するか?」

 ということが問題になるということを考えさせられるというものである。

 そんなライバル意識を持っていることで、

「さすがに住宅地だけは、同じ構造にしているが、それ以外は、北部は北部のいいところを前面に押し出す」

 ということで、完全に、他の街とは違った特徴を醸しだしているのであった。

 だから、南部の人たちの中には、

「北部の情緒が好きだ」

 と思っている人も結構いて、北部の店で、購入している人の一定数は、南部の人だったりするのであった。

 さすがに、

「市民が、どこで購入するか?」

 ということを、行政が制限することなどできるわけもない。南部の方とすれば、あまり気持ちのいいものではなかったが、だからと言って、

「北部に歩み寄るなんてこと、できっこない」

 と思っていたのだった。

 そんな北部と南部の人の考え方は、住んでいるところの考え方が反映されると言っていいものか、

「北部の人は、考え方も情緒がある」

 と言ってもよかった。

 芸術や文芸というものを好む」

 という人が多かった。

 北部には、大学もあり、ここでは、一般の人に対しての公開講義というものを頻繁に行っていて、住民と、大学生の交流というのも、結構行われていた。

 この街の北部に住んでいる人は、ほとんどが、商いを営む家を、代々継いでいる人が多いということで、南部のように、

「入れ替わりが激しい」

 という土地ではなかった。

 北部では、そんな昔からの封建的なものに嫌気がさして、家を飛び出した、

「元跡取り」

 という人も少なくはなかった。

 彼らは、

「一度意地を張って飛び出してしまうと。二度と戻れない」

 ということもあってか、その思いは、かなりの覚悟があったことだろう。

 だから、さすがに、

「飛び出すことは最後の手段」

 ということで、飛び出すことを躊躇する人も多かった。

 そのうちに、

「この街を守るのも悪くない」

 と思うようになり、家を継ぐという人が、結果的にほとんどなのであった。

 それだけ、

「大人になった」

 と言ってもいいだろう。

 そんな中で、山本が、

「贔屓にしている店」

 というものがあった。

 その店は、

「昭和レトロを思わせるような喫茶店」

 であった。

 純喫茶と言ってもいいのだろうが、軽食もあり、その味は、まさに、

「昭和の味」

 だったのだ。

 それこそ、

「お子様ランチ」

 と呼ばれた、

「チキンライスの上に、つまようじに日の丸とかたどった国旗を付けたものが施された、昔懐かしのお子様ランチ」

 である。

 もちろん、大人が頼んでも別に構わない。

 昔のお子様ランチも、別に、

「大人が頼んでも、誰も文句をいう人はいないだろうが、まわりの目を考えると、とってもじゃないが、誰が頼むというのか」

 ということを思えば、

「大人が頼むなんて」

 ということで、結局誰も頼むことはない。

 それぞれに、けん制しあっているということで、

「意識以上に、常識だと考えると、当たり前のように、お子様ランチは、子供のもの」

 ということになるのだった。

 本当は、

「大人になってから、昔を懐かしんで頼みたい」

 と思うものが、お子様ランチではないか?

 という考えからか、

「お子様ランチは、大人専用」

 ということになっているのだった。

 ただ、他のメニューにおいて、

「子供のためのオリジナル」

 ということで、昭和の子供が好きだったような味を復刻し、それが、人気になっていたのだった。

 その評判はどこから出てきたのかは分からないが、今の、

「SNSブーム」

 ということで、いわゆる、

「バズった」

 とでもいえばいいのか、

「口コミ」

 なるネットでの宣伝を見て、結構全国から客がやってくるようになったのだ。

 だが、そもそもは、

「地元の連中のために作った店」

 ということで、店主は、

「どのようにしようか?」

 ということを考えてみたようだ。

 そこで、考えたのが、

「夕方までは、観光客用」

 ということで、夜の6時から10時までを、

「地元の人専用」

 という時間帯にしたのだった。

 営業時間は、昼の1時から開店ということであった。

 そもそも、

「金儲けというのは、二の次」

 ということであった。

「一時からでも、十分に収益がある」

 ということで、ランチタイムも、

「夕方まで」

 ということにしていた。

 つまりは、

「観光客用の時間すべてに、ランチタイム」

 ということであった。

 人も、昼の時間帯に雇うようにしていて、夜の時間帯は、

「旦那と奥さんの二人で営業」

 ということで、

「ゆっくりとした経営」

 ということになっているのであった。

 だから、夜の客というと、そのほとんどが、

「常連」

 であった。

 この店は、木造建築で、冬などでは、窓に湿気からか、いつも曇っているという雰囲気のところであった、

 入口の扉には、重厚な金属の鐘が掛けてあって。まるで、

「アルプスで飼われている家畜としての羊が、首からぶら下げている鐘のような音が、鈍さの中に、響く音を醸しだしているのだった」

 今の時代の、昔の喫茶店を知らない人は、ほとんどなじみはないかも知れない。

 今でもその音を感じることができるとすれば、

「避暑地における山小屋」

 であったり、

「ペンションのようなところ」

 ということではないだろうか。

 それを考えると、

「昭和というものが終わってから、三十年以上も経っているが、その半分の十数年前というと、そんな昔には感じないけどな」

 と思えるのだった。

 山本は、昭和という時代をほとんど知らない。

 まだ三十歳代ということで、生まれたのが、昭和末期くらいだった。だから、

「国鉄や、電電公社」

 などと言われても、

「社会科の授業で習った」

 という程度のものではないだろうか?

 山本は、歴史が好きで、特に昭和時代のことは研究していたりしたので、その分は、自分でもある程度調査をしたりしていた。

 実際に、全国にも、

「昭和レトロ」

 ということで、その時代を思わせる観光地がいくつもあるので、実際に、休暇を取って行ったりもしたというものであった。

 そもそも、そんな街に観光に行くようになったのは、

「この街を知ってからだった」

 この街に移ってきたのは、仕事の関係ということで、

「仕方がない」

 ということではあったが、実際に移ってきて、最初は不本意とも感じたが、北部に住むようになって、次第に、その情緒に触れるようになってからだった。

 この街には、昔、もう一つ昭和を思い起こされる店ということで、飲み屋があった。

 そこの女の子を気に入って、よく通ったものだったが、経営不振が原因なのか、ハッキリとはしない中で、店が閉店してしまった。

 その子は大学生だったらしく、卒業して、他の街に行ってしまったが、山本としては、

「ロス」

 を感じていたのだ。

「ぽっかりと開いた穴」

 と言ってもよかったが、

「この街に初めて彼女が来た時のことを、想像してみた」

 自分が初めて来たときとを比較してのことだった。

 男と女の違いというものこそあれ、

「どこが感覚的に違うというのか?」

 ということを考えると、

「大学生の彼女でも、昭和の昔の、まったく知らないはずの時代を、店という形で肌で感じることができるのだから、自分のように、昭和に近い。生まれは昭和だ」

 という人間であれば、その思いは、

「もっと強いのではないか?」

 と感じるのだった。

 その喫茶店は、

「情緒あふれる街」

 と呼ばれる中でも、現代的なところに位置していた。

 せっかく、歴史的な街なのだから、

「歴史的遺産と言われるようなところにあれば、もっとよかったのではないか?」

 という人もいたが、山本はそうは思わなかった。

「その場所には、それ相応のふさわしさというものがあるわけで、その時代時代には、似合うものがあるはずだ」

 という考え方を持っていた。

 それは、大学時代までには、その考えを分かる人はいなかったが、社会人になってから、徐々に増えていき、三十代くらいになると、その考えを話し合えるくらいの人も出てきたと思うようになってきた。

 そもそも、

「歴史というものが好きだ」

 という認識を持った人が結構多く、

「ただ歴史というものが好きだ」

 という感覚ではない人が、自分だけではないということを知ると、そう連中と一緒に話ができるというだけで楽しくなってきたのであった。

 ただ、

「同じ歴史でも、そのあたりが違うのか?」

 ということに関しては、話をしても、なかなか答えが出るものではなかった。

 もっとも、

「答えが出ないことで、その探求心というものが深くなってくる」

 ということで、

「果てしない探求心というものが、自分のバカでふつふつとこみあげてくるのを感じているのであった」

 山本が、

「歴史が好きだ」

 ということと、

「歴史への探求心」

 として抱いている感覚は、実は同じものではなかった。

「それじれ別の学問に対しての思い入れ」

 と言ってもいいかも知れない。

 この思いは、

「他の人には決して分かるまい」

 とも思っていることであり、何がどう違うのかというと、三十歳になるくらいまでには、自分も、言葉にしようがないくらいであった。

 特に学生時代というと、それが、たとえ、

「大学時代」

 といっても、理屈を口にするということは難しかった。

 なぜなら、

「歴史というものを、学問としてしか見ていなかったからだ」

 ということであった。

 この思いが、大学を卒業してから感じるようになったものだが、だからと言って、それを、

「口で説明しろ」

 と言われてもできるものではなかったのだ。

 学生時代、特に、高校生の頃までは、

「受験のための勉強」

 でしかなかったのだ。

 確かに、以前に比べると、

「ゆとり教育」

 などと言われ、

「余裕を持った勉強」

 ができるようにはなったが、そのせいか、

「勉強というものを、どのようにいすればいいのか」

 ということが見えなくなってしまった。

 何しろ、ゆとり教育によって、

「勉強というものが何なのかということが、分からなくなってきてしまった」

 と言ってもいい。

 それまでは、曲りなりにも、

「受験という目の前に見える目的があったことで、それを理由ということで、勉強をする意義を自分の中で、

「やりがい」

 として求めることができた。

 要するに、

「目標がやりがいとしての指針」

 となったからである。

 しかし、今度は、その目標というものを、ゆとりという形で、自分たちの都合を生徒に押し付けたことで、その目標が見えなくなってしまったのであれば、それこそ、

「勉強をして何になる」

 ということになるのではないだろうか?

 そもそも、ゆとり以前の教育は、

「科学の発展」

 あるいは、

「学問の発展」

 というものに、

「世界的に追い付かなければいけない」

 という考えから、

「学習レベルを上げる」

 ということから、いつの間にか、

「学歴社会」

 というものとなり、大人の教育が、

「いい学校に入り、いい会社に就職する」

 ということが、

「学問の道」

 という風に捻じ曲げられたのであろう。

 それが、

「暗記科目のような、理屈だけの詰め込み」

 ということになってしまい、違う道に進んでいたが、それが、今ではゆとり教育から、一周回って、

「本来の学問の追求」

 というものに姿を変えてきたのであった。

 歴史というのも、

「その学問への道」

 ということで、今は、今まで、

「常識」

 とされてきたことも、

「歴史研究と認識によって、実は違っていたと言われるようになってきた」

 ということであった。

 特に歴史解釈というのは、

「答えがある」

 というわけではない。

 その時代に生きていた人がいるわけでもないし、生き証人がいるわけではない。だからこそ、

「歴史というものが、いかにその姿をこれまでにはなかった解釈をすることで、新しい発想として解釈されていくことで、立派に学問として表舞台に現れてくる」

 というものだ。

 何といっても、

「過去があってこそ、今がある」

 ということである。

 過去の先人たちが、今の時代を作ってきたのであり、中には、

「間違った道」

 というのもあったことだろう。

 そもそも、考え方や、

「歴史の時系列」

 というものは、

「無限の可能性」

 というものを秘めているといえるだろう。

 他の学問でいえば、

「パラレルワールド」

 と言われるもので、これこそ、

「時系列」

 というものを、

「無限の可能性に結びつけるものである」

 といえるのではないだろうか?

 山本は、この喫茶店に来るようになって、一人の初老の男性と知り合うことになった。

 知り合ったのは、数か月前のことであり、今までに、何度となく遭って、話をしてきたが、その話のきっかけは、その時々でいろいろとあるのだが、

「最終的には、いつも同じ結論に導かれている」

 と考えるのであった。


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