(双頭の神)4
四.
石本信弥と森野香々美は、今はもう水越賀矢の話は理解できないと言った。それを聞いて水越賀矢は茫然とした。いや、「茫然自失」というべきだった。二人の言葉を聞いただけで、これほど衝撃を受けるものだろうかと疑問に思うほどだった。彼らの言葉がきっかけで、彼女の中の何かが大きく崩れたのかもしれない。僕はそう考えた。他方で、こんなことも考えた。この問題において、ほとんど全ての非が彼女にある。そのことは僕も分かっていた。それでも、僕は、彼女のその姿を見たくなかった。出会ってから今日まで、僕の知る限り、水越賀矢はいつも毅然としていた。そして、僕はそのことに、幾らかの敬意を抱いていたからだ。
僕は、彼女に初めて会った日のことを思い出した。あの日、彼女から「時代の中で苦しむ若者を救え」という神命を聞かされた。その時、僕は不親切な神様だと思った。もっと具体的な内容を伝えてくれてもいいのにと思った。牧多と僕が協力した勧誘活動において、彼女の神がかり的な力により二十人の若者が集められた。だから、神の命じた若者が、彼らであることは間違いない。問題は、そこからである。今、石本と森野香々美を見て、二人が苦しんでいるようには見えない。この前まで、二人は苦しんでいた。でも、それはペンダント売りの修行のためであって、正確に言えば、水越賀矢に苦しめられていただけだ。「時代の中で何かに苦しんでいた」わけではない。『若者信者は何に苦しめられているのか? 』。やはり、彼女の神様は不親切だと思った。問題がこれだけ大きくなったにもかかわらず、依然として肝心なことが分からないままだからだ。
その時だった。先生が水越賀矢に話しかけた。
「賀矢先生も私も、邪念がありすぎたんです。そのために、私たちは、肝心なことを見落としました。そして、それぞれが、自分に都合の良い風景ばかりを見ていました。今から、私が、礼命会の成り立ちについてお話しします。何故なら、それにより、礼命会とは、本当はどういう宗教なのか。そして、何故、若者信者が入信する必要があったのか。何故、賀矢先生が入信する必要があったのか。これらのことが明らかになるからです」
水越賀矢は驚いて先生を見た。
「私は若者を集めるために礼命会に入信しました。それ以外に理由があるんですか?」
「今、ようやくはっきりと分かりました。そして、このことは、必ず、あなたに伝えなければなりません。何故なら、それが私の神命だからです」
先生は、神命と力強く言った。水越賀矢は気圧されるように頷いた。
牧多、僕、石本、そして、森野香々美が、先生の前に集まった。水越賀矢は、僕らの斜め後ろから先生を見ていた。先生との間に微妙な距離を保っていた。先生は、僕らと斜め後ろにいる水越賀矢に向かって話し始めた。しかし、たった今、礼命会の成り立ちについて説明すると言ったにもかかわらず、何故か、先生は、これまで語らなかった自らの過去について話し始めた。僕らは、不思議に思った。だが、とにかく話を聞くことにした。
青沢礼命こと本名青沢紀秋が高校二年の時だった。彼の父が自殺した。何の予兆もなく、ある日突然だった。青沢の生家は親族で会社経営をしている。青沢の父は祖父から社長を継いで間もなかった。しかし、そのことでプレッシャーを感じている様子もなかった。また、心身ともに健康で社長を務めるには適した人物だった。それが、青沢の誕生日の三日前に、突然、自殺した。遺書は残していなかった。彼の誕生日プレゼントだけ残していた。腕時計だった。青沢が、以前から欲しかった腕時計だった。当時、高校生だった彼には自分で買うことのできない高価なものだった。父の書斎の机の引き出しに入れてあった。遺書を探している時に、青沢の母が見つけた。父は子どもの誕生日プレゼントを用意し、誕生日の三日前に自ら命を絶った。遺されたものは、皆、混乱した。
父が遺した腕時計は、いつも青沢の左腕に巻かれている趣味のいい時計だった。普通の高校生は欲しがらないシックなデザインの腕時計だった。今の年齢の青沢によく似合う。
「私は、G大学の経済学部に進む予定だったのですが、医学部に進路を変えました。精神科医になって父が一体何を考えていたのか? 何故、自ら命を絶ったのかを知るためでした。その話をすると、母も他の親族も反対できませんでした。私には兄がいて、既に兄がG大学の経済学部に在籍していたので、会社は兄が継ぐのだから、私には、望む通りにさせてやろうということになりました。そして、医学部を目指して勉強をし、G大学の医学部に進むことができました」
医学部卒業後は、G大学附属病院に勤務した。彼は、医大生の頃から、ずっと父の自殺の原因について考えていた。しかし、分からなかった。父の自殺を冷静に考察するには、まだ長い時間がかかるのかもしれない。彼は、いつ頃からか、そう考えるようになった。そして、父の死について、日常的には忘れることが多くなった。
歳月が流れた。青沢は三十半ばになっていた。
ある日のことだった。
彼は、自殺未遂により救急搬送された患者Uを担当することになった。患者は状態が安定したので、集中治療室から精神科に移ってきた。最初の診察の時、青沢は驚いた。Uの容貌が死んだ父に、とても似ていたからだった。よく見れば、Uと父の顔には幾つもの相違点があった。しかし、目元や輪郭、そして、穏やかな表情がとても似ていた。大柄な体格も同じだった。父より二つ歳上だった。父が生きていたら、こんな風に歳を重ねていたと思わせる風格があった。Uは某銀行の重役だった。
青沢は診察のたびに、死んだ父に再会しているような気持ちになった。そして、忘れていた父のことを考える機会が多くなった。安定した入院生活によりUは心身ともに健康を回復したといえる状態だった。しかし、何故、死のうとしたのかを尋ねても、はっきりとした答えが返って来なかった。このため、退院の許可が出せなかった。つまり、「自死再発の危険性無し」という診断が下せなかったのだ。
三カ月が過ぎた。その日、青沢は当直勤務だった。当直室で調べものをしている時、ふとUに会いに行こうと思った。消灯時間は過ぎていた。暗い病棟の廊下を歩いて、Uの病室のドアをノックした。Uは広い個室にいた。返事がした。彼はまだ眠っていなかった。青沢は部屋に入ると、少し話がしたいと言った。
Uは体を起こした。青沢は椅子を置いて座った。
「Uさんは、もう退院できる段階にあると思われますが、自死未遂に関することで、はっきりしない点があるため、退院の許可が出せません。今夜、私は当直です。そのことがどうしても気になり、こんな時間に病室を訪ねてしまいました」
Uは頷いた。薄暗い病室の中で見ると、彼は青沢の父にしか見えなかった。
Uは静かに話し始めた。
「私は長年、社会が良くなることを信じて働いてきました。でも、近年、誰もが、これまでにない生きにくさに苦しんでいる状況を見ると、私がしてきたことは全て間違っていたのではないか。そう思えてならないのです。我々世代の人間が良かれと思って努力した結果、社会は、とても生きにくいものに変質してしまった。私は取り返しのつかないことをしてしまったのです。私は次世代の人たちの未来を奪った罪人です。これからを生きる若者たちに死んで詫びるしかないと思ったのです」
青沢は驚いた。
「Uさん。お話はよく分かりました。しかし、それは社会全体で考える問題であって、あなた一人が責任を感じる問題ではありません。ましてや、そのために命を絶とうとしたなんて……」
青沢はそう言って、Uの顔を見た。ベッドサイドの灯りに照らされているその顔が、あまりにも父に似ていたからだろうか。
青沢は、ついこう呟いた。
「もしかして、父さんも、同じことを考えて……」
「お父さん? 青沢先生のお父様が、どうかされましたか?」
Uが尋ねた。
Uに尋ねられると、青沢は黙っていることができなかった。彼は、自ら命を絶った父のことを話した。
Uは青沢の話を黙って聞いていた。聞き終えてからも、何も言わなかった。
青沢は部屋を出た。彼は、極めて個人的な話を患者に打ち明け、医師としての禁忌を破った。しかも、内容は父の自死についてである。Uに悪い影響が現れるのではないかと不安になった。しかし、青沢は、何故か、このことを医局に報告しなかった。
青沢は不安だった。だが、彼の不安とは裏腹に、Uは顕著な回復を見せた。表情もこれまでになく明るくなった。そして、医局のカンファレンスにおいて、「Uは自死再発の危険無し」という結論が出て、彼は退院となった。退院の日、彼は妻とともにデイルームにいた。青沢が会いに行くと、「私が無事に退院できるのは青沢先生のお陰です。ありがとうございました」と礼を言い握手をした。別れ際に、Uは青沢に一枚の紙を渡した。そして、彼は退院した。
そこまで話すと、先生は、支部の隅に置かれている台座のほうに向かった。そして、台座を灯りの下に持って来た。
「Uさんが、別れ際に、私に渡した紙にこの絵が描かれていました。彼と私が手を握り合っている絵であり、礼命会の御神体である握り手様の絵です。デイルームで私を待っている時に、彼が手帳に書いたものです。手帳に書かれたこの絵を見た時、私はその力強さに驚かされました。自殺未遂で緊急入院した患者が、顕著な回復を見せたとはいえ、退院する時、これほど力強い絵を描けるだろうかと思いました。この絵には不安も迷いも無いのです」
すると、水越賀矢が言った。
「死ぬことを確信したからでしょう。自殺が未遂に終わった時は、心の中に躊躇いがあった。でも、その絵を描いた時点では、自殺への躊躇いはなかった。だから、絵も力強かった」
先生は頷いた。
「その通りです。Uさんは退院して三日後に自ら命を絶ちました」
牧多が驚いた。
「握り手様の絵が、昔、先生が担当した入院患者の描いた絵だということは分かりました。ただ、御神体にするのなら、縁起の良い絵にするんじゃないですか? それに、Uさんは何故、元気になったのに死んだんですか?」
先生は説明した。
「私の話を聞いて、Uさんは勇気づけられたのかもしれません。彼は仕事に人生を捧げた人でした。彼の心は、覚悟したはずの自死と仕事への断ち切れない思いの間で揺れていました。自死が未遂に終わったのもそのためです。私の父の心の内は今も分かりません。でも、分からないからこそ、あの時、Uさんは父の自死に理想を見た。社長というトップの職責を棄てて潔く死を選んだのだと、彼は父の死を解した。そして、同じように自分も潔く死ぬ覚悟をした。そんな気がします」
僕は、「自死に理想」や「潔く死ぬ」という言葉を聞いて大きな矛盾を感じた。そして、そこに、Uさんの内的葛藤が表れている気がした。つまり、自死の直前まで、本当は、彼は迷っていた。僕はそんな気がした。けれど、そのことを口にはしなかった。
先生が話し始めた。
「Uさんの死後、私は父のことをUさんに話した事実を医局に報告しました。問題になりました。ただ、Uさんは遺書も残しておらず、Uさんの死と私の話に直接の因果関係があったのかは分かりませんでした。しかし、私が、Uさんの自死の後押しをしてしまったことは間違いありません。そのため、私は病院を辞め、同時に、医者も辞めました。十年前の出来事です」
しばらく沈黙の後、石本の声がした。
「青沢先生。Uさんの話を聞いて驚きました。若者信者二十人の本当の悩みが、『生きにくさ』だからです。やっぱり、男女比なんて関係なかったんだ。それにエリート大学生とか、そんなことも関係なかったんだ……」
森野香々美の声がした。
「勧誘の時は、みんな、引き込まれるように入会しました。でも、自宅待機をしている今、改めて、信者全員に共通する悩みについて電話で話し合ったんです。すると、誰もが生きにくさを取り払いたいと思っていることが分かりました」
石本と森野香々美の話を聞いて、僕は、エリート若者信者二十人も、僕と同じで、生きにくさに悩んでいることを知った。比較すれば、彼らは今の時代に由来する生きにくさであり、僕は、僕個人の屈折した性格に由来する生きにくさだ。だから、厳密には、"質の違い”があるのかもしれない。けれど、生きにくさという事実においては同じだ。僕は若者信者と礼命会の関係を考える前に、生きにくさに悩んでいる人が、世の中にどれほどいるのだろうかと考えた。漠然として分からなかった。そこで反対に、生きやすさに満たされている人が、世の中にどれくらいいるか考えてみた。ほぼ皆無だと、こちらはすぐに答えが出た。ということは、つまり、今の時代、ほぼ全ての人が生きにくさに悩んでいる、という結論に至った。そして、その結論に、僕は思わず深いため息をついた。
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