(苦行)8

八.

一月末に試験が終わると、大学はそのまま春休みに入る。だから、構内を歩く学生の姿はまばらだった。僕は、経済学舎の入り口前のベンチに座った。勧誘の時、水越賀矢と牧多が並んで座っていたベンチだ。あの時は、東門からこのベンチを遠目に見ることしかできなかった。でも、今は春休みでほとんど学生がいないので、堂々と座った。それに、このまま大学を辞めてしまうかもしれないのだから、今更、人目を気にする必要もないと思った。

ベンチに腰かけ、これからのことについて考えていると、学舎から出てきた学生に声をかけられた。

「杉原君も自習をしに来たの?」

森野香々美だった。

僕は、思わぬ場所で思わぬ人物に出会ったと驚いたが、考えてみれば、彼女とは同じ大学、同じ学部の同級生なのだ。ここで会うほうが自然なのだと気づいた。

そして、

「自習じゃないよ。久しぶりに大学を見に来たんだ」

と彼女に言った。

彼女は、僕の答えに苛立ちを覚えたようだった。そして、「ここでは寒いから食堂で話しましょう」と学舎の地下の食堂に僕を連れて行った。


食堂には思ったより学生がいた。

向かい合わせに僕らは座った。

「私は“あの活動”で講義を休みがちになっているから焦ってる。学期末試験も分からない問題が多かった。それで、春休みの間に遅れを取り戻そうと思って大学の自習室で勉強してるの。でも、なかなか遅れは取り戻せない」

森野香々美の苛立ちは、僕の呑気さよりも、彼女自身に対してのものだった。彼女の服装を見ると、今日も高価なものを着ていた。チョコレート色のコートだったが、生地が良いのだろう。とても暖かそうだった。中には薄手のセーターを着ているだけだった。相変わらず、頬はこけているが、ペンダント売りの最中ではないだけに、彼女はリラックスしていた。


ダムドール支部とは違い、本来、僕らがいるべき大学という場所で彼女と向き合い、改めて、僕は格差という問題を実感した。僕が高校三年の時、大学受験用に買った紺色のダウンジャケットを未だに着ているのは、僕が服装にあまり関心がないこと以上に、生活費節約の必要性からであった。森野香々美には、生活費節約の必要性という問題は存在すらしないだろう。僕は、彼女の服装を見ながら、そんなことを考えていた。

それから、格差を実感させる源である彼女の親の生業を尋ねた。

森野香々美は、ある会社の名前を言って、父親は、その会社の役員をしていると説明してくれた。でも、僕が、その会社を知らなかったので、話はそこで終わってしまった。おそらく、かなり大きな会社なのだろうけど、僕が知らないために伝わらなかった。経済学部の学生なら普通は知っているはずの会社らしい。それが分かったのは、僕が知らないことに彼女が不思議な顔をしていたからだ。そのため、話がそこで途切れてしまった。僕は分からないなりに、自分の失態を気まずく思った。

その時だった。

「杉原君。ペンダントってどうすれば売れるの? コツとか秘けつはあるの?」

と、今までと違い、彼女が深刻な表情で尋ねた。

「知らないんだよ。だって、ペンダント売りなんてしたことがないから」

僕は正直に答えた。

その答えに彼女は驚いた。

「やったことがないの? だったら、私と同じじゃない」

「いや。君は、売れていないにせよ、ペンダント売りの活動を実際にしているから経験者だ。でも、僕はやったことがないから未経験者だ」

「そんなことを厳密に区分しなくてもいい。どうしたらいいのか分からないんだから、私も未経験者と同じよ。牧多君は、どうなの? 彼もペンダント売りをしたことないの?」

「ない。牧多も僕と同じで本部の信者だから。ペンダント売りは、賀矢先生が、ダムドール支部を立ち上げて、初めて勧誘した信者の君たちに実践させている修行だから」

「じゃあ、誰に聞けば、ペンダントの売り方が分かるの?」

「賀矢先生は、ついこの前まで服屋をやっていたから、ペンダントの売り方も知っていると思う。もっとも、賀矢先生に聞いても、教えてもらえないだろうけど。その他は青沢先生も含めて誰も知らない」

僕の答えに、森野香々美は黙ってしまった。でも、少ししてから、

「私、いつも人を頼りにしている。きっと誰かが助けてくれるって。何の根拠もないのに期待している。今の私もそう。甘えている証拠」

と言った。

「君が悪いんじゃない。恵まれた環境が影響しているんだよ。だから、賀矢先生が修行をしてくれている」

僕は言った。

すると、彼女は突然言った。

「そのことは私も分かっている。だけど、修行中に、何で、こんなことをしてるんだろうって思うことが本当はよくある。大学を休んでまで、ペンダントを売っているなんて、おかしいって。でも、やめられないの。やめると、とても大きな不幸に陥る気がして怖いから。それに、辛いけど、こうやって頑張っていれば、とても大きな幸せが訪れる気がする。その繰り返しの毎日なの」


僕は、彼女の話は、彼女の偽らざる思いであり、同時に、残りの十九人の若者信者にも共通する思いなのではないかと考えた。

僕は、彼女には言わなかったが、率直な感想として、ペンダント売りをやめても、不幸にはならないし、頑張っても、幸せにはならないと思った。それは、水越賀矢にそう思わされているだけだ。若者信者は、皆、水越賀矢の思い通りに操られている。でも、それが、マインドコントロールに該当するのか、あるいは、洗脳なのかを判断することは、専門家ではない僕にはできない。僕は、先生に相談しなければいけないと思った。先生は、青年部のことは、君に任せたと言ったけど、そういうわけにはいかない。マインドコントロールや洗脳のことだけではない。青年部の問題はどれも僕に解決できるものではない。今度こそ、青年部のことをきちんと説明しよう。そうすれば、先生も、事の重大さを理解してくれるはずだ。青年部は本部とは全く違う。先生も、実際に、見れば分かるはずだ。僕はじっと考えていた。すると、向かいに座る森野香々美が、「一緒に帰ろう」と言った。その声を聞いて僕は我に帰った。食堂には僕ら二人しかいなくなっていた。


誰もいないキャンパスを二人並んで歩いた。冷たい風に吹かれて枯れた芝生が小さく揺れていた。彼女は楽しそうに色んな話をした。ペンダント売りのことを僕に打ち明けて、少し楽になったようだ。彼女の屈託のない笑顔を見て、僕は自分が大学を辞めようかと考えていることは話さないことにした。それから、彼女は石本にも、こんな風に笑顔を見せるのだろうかと思った。石本への嫉妬心だろうか? もしかしたら、それもあるかもしれない。だが、それ以上に、二人の間に、本当に恋愛感情はあるのか? その疑問が強く湧いた。信者全員の前で、熱い接吻を交わしたと水越賀矢に暴露された二人だが、その行為と感情が、果たして、イコールの関係にあるのか? 僕には疑わしかった。他の九組の若者信者のカップルに対しても、僕は同様の疑問を抱いていた。先ほど支部で牧多と話し合ったように修行を通じて恋人同士になるように仕向けられたのではないか? 更に、それが神命によるものならば、不可解ですらある。「十組のカップルを誕生させよ」と神が水越賀矢に命じることなどあるだろうか……?

しかし、そこで僕は考えるのをやめた。

僕は大学を辞めるかもしれない。だから、ここに来た。この風景を記憶に留めておくために。大学の構内はいつもより居心地が良かった。僕は入学してから、ずっと大学に居場所がなかった。大学に入れば何かが変わる。そう期待していた分、失望も大きかった。今の僕は、そういう葛藤をもう抱いていない。だから、楽になった。僕は、内心、既にP大生ではなかった。でも、森野香々美が隣を歩いているお陰で、僕は、かろうじてP大生でいられた。彼女と歩いた東門までの僅かの時間が、僕の二年間の学生生活の中で、最も思い出に残るものになった。彼女のお陰で、僕は、P大生として、キャンパスを記憶に残すことができた。



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