(苦行)3
三.
「ところで、もう一つの質問の答えだけど?」
僕が、テーブルの上のダムドール支部神訓をじっと見ていると、石本が言った。声の調子が普通になっていた。表情も普通に戻っていた。
「質問って何だった?」
と僕が聞くと、
「さっき聞かれて答えられなかった質問だよ。誘拐犯みたいな男には、森野さんしか遭遇してないけど、キレる人間には、みんな、毎日、遭遇しているよ」
と石本が言った。
「声をかけると、あんな人ばっかり。どうして、すぐに怒り出すのかしら? しかも、自分でも抑制が効かなくなる」
森野香々美が石本の答えを補足した。
僕は答えた。
「誰もがキレる時代だからね。不況、格差社会、その他に希望が見えないとか。とにかくそういう時代なんだろう」
「杉原君は、さっきみたいなことによく遭遇する?」
森野香々美が尋ねた。
僕は、バイト先のリサイクルショップでの話をした。リサイクルショップに来る客にも、キレる客はけっこういる。一番多いのが買い取り価格を伝えたら、「そんな安値で売れるか!」と怒り出す客だ。こういう客には不満ならば、他のリサイクルショップに行ってくれとすぐに帰ってもらう。変に話し合いをすると、怒ればもう少し値がつり上げられるんじゃないかと、ゴネられる危険性がある。だから、取りつく島を与えない。次に多いのが、この前、買った家具に傷がついていたというもので、中古品だから当たり前なのだけれど、このことに激怒する客がいる。所謂、「ブチ切れる客」だ。こういうタイプはバイトでは対応できないので、店長が対応する。中古品なんだから傷があって当たり前だという事実を最終的に認識させるまでに、相当時間がかかる。その間、客はずっとブチ切れている。店長は粘り強く説得している。でも、心の中は、激しい徒労感に襲われているだろうと、僕はいつも気の毒に思う。科学的根拠は分からないけど、キレる客は男のほうが圧倒的に多い。
こんな話を二人にした。
「なるほど、それで、杉原君はさっきも的確な対応が取れたんだ。慣れているんだね」
石本が感心して言った。
「僕は、アルバイトは家庭教師しかしないんだ。両親からそう言われていて。アルバイトをするために大学に行かせているわけじゃない。アルバイトをするなら、これまで学んできたことを活かせる家庭教師にしなさい。それも、あなたと一緒に次代を担うような優秀な高校生の家庭教師をしなさい。こう言われているから、杉原君のようなアルバイトはしたことがないんだ。だから、キレる人間なんて生まれて初めて遭遇したよ」
森野香々美も、
「私も家庭教師と進学塾の講師だけ。だから、ああいう人間に遭ったのは初めて」
と言った。
僕は、リサイクルショップのバイトは好きでやっているんじゃなくて、生活費の足しにするために仕方なくやっている。だから、二人に感心されるのは、ちょっと違うんだけどと思った。それにしても、二人は世間との接点が少ない。裕福な家庭、大学、家庭教師、進学塾、生活圏がこれだけしかないのだ。雑菌は極めて少ないけれど、それでいいのかなと疑問に思った。
僕が二人の顔を見ながら考えていると、
「杉原君。僕は頑張るよ。賀矢先生に言われたように、僕は世界一弱い若者だ。君のようなタフさは全くない。このペンダント売りの修行を通じて自分を鍛える。そして、厳しい社会で通用する大人になる」
石本が、再び自分に言い聞かせた。
森野香々美も、
「私も同じ。神訓にある通り、苦行から決して逃げない」
と言った。彼女も自分に言い聞かせていた。
石本と森野香々美の顔は、やつれていた。頬がこけ、眼窩もくぼんでいた。石本と森野香々美は、美男美女だった。知らない人が見たら、お似合いのカップルだと思うだろう。でも、眼ばかり光っていて、全身から疲れが出ているのが僕には分かった。何故なら、僕にも昔、同じような経験があったからだ。
僕が中学の頃だった。僕も、もう世の中のことを十分に理解できるようになっていた。その頃、僕の父は、転職を繰り返していた。今、考えると、精神状態が影響していたことが分かる。でも、その頃は、母も僕も、そこまでは分からなかった。次の職場なら続くだろうという家族の期待を裏切り、転職を繰り返す父に、母も僕も失望していた。中学生だった僕は、とにかく自分が頑張らないといけないと思った。学校に行って真面目に授業を受けて、休み時間は友だちと元気に遊び、帰宅したらすぐに宿題をしていた。母はそんな僕を見て、「頼もしいわね」と喜んだ。
でも、僕は無理をしていた。そうやって元気に振る舞う毎日の中で、僕は瘦せ始めた。ちゃんと食べているんだけど、頬がこけ、眼窩がくぼんできた。そこで、中学生の僕なりに考えて気づいた。僕は父のことでひどく落ち込んでいるのに、無理に明るく振る舞っている。そのため、徐々に気持ちと行動の間に乖離が生じてきたのだ。そして、落ち込んでいる気持ちに反して、明るく振る舞う不自然さが、僕の健康を害し始めたのだ。僕は、そのことに気づいてから、無理をするのをやめた。すると、気持ちの通りの暗い中学生になった。友だちはいなくなり、成績も下がった。でも、自分の気持ちに嘘をつかなくなって楽になった。そして、僕の頬は元通りふっくらとし、くぼんでいた眼窩も元に戻った。僕は、それ以来、今日まで、自分の気持ちに噓をつかないようにして生きてきた。だからこそ、石本と森野香々美のことがすぐに分かった。
水越賀矢の褒め殺しのような𠮟咤激励とペンダントを売り歩く先々でのトラブル。二人とも、辛いに決まっている。でも、それを前向きに捉えている不自然さが、二人の健康を害し始めている。あの時の僕と同じだ。
僕は言った。
「あんまり無理することないって。ペンダントは、他のみんなも、売れていないだろうし、賀矢先生だって、全部売りなさいって言ってるけど、実際には、それは無理だって分かってるって」
それに対して、石本は、むっとした表情で、
「賀矢先生は、そんな中途半端な気持ちで修行に取り組むことを望んではいない。杉原君には悪いけど、君は本部の信者だから分かっていない。賀矢先生は、ペンダントを全て売り切ることを望んでいるんだ。僕は必ずその期待に応えてみせる」
こう反論した。
僕は、それ以上、何も言わないことにした。今の彼に何を言っても無駄だし、かえって、彼を頑なにしてしまう危険があると思ったからだった。でも、僕は、心の中で思った。二人が大事にしているダムドール支部神訓は、礼命会の教えではないということだった。彼らは、支部に入信したが、礼命会の信者だ。だから、教えは『ともに生き、ともに幸せになる』だけであり、苦行などする必要はないのだ。
それから、再び頬のこけた石本と森野香々美を見た。痛々しかった。僕は思わず、「礼命会に神訓なんてない。だから、信じなくていい」と言いかけた。でも、やめておいた。やはり、二人が信じない可能性がある。それに、この場で僕が話すには、問題が大きすぎる。まず、先生に相談すべきだと思った。
そこで僕は、
「外は寒いから、修行で無理をしないように。それと、何かあったら、僕に連絡をしてくれ。今日のようなことが、またあったら大変だから」
と二人に言葉をかけ、僕の連絡先を教えた。そして、彼らと別れた。二人は僕の対応に感動した。入会して、こんなに優しくしてもらったのは初めてだと、二人とも涙ぐんだ。僕は当たり前のことをしただけだ。僕は、二人が、あの程度の優しさに涙ぐんでしまうほど過酷な状況に追い込まれているのだと思った。
ハンバーガーショップの前で二人と別れてから、僕は、スーパーで買い物をした。そして、バスに乗った。昼過ぎに教会を出て、もう夕方になっていた。二人と随分長く話をした。バスの窓から外を見た。二人の姿はなかった。でも、彼らは今もペンダント売りをしている。それだけではない。十組、二十人の若者がペンダントを売るため、街中を歩き回っている。僕はその光景を思い浮かべて、正直なところ、少し病的な感じがした。
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