(薄青色の眼鏡)3

三.

丘の上の道を真っ直ぐ行くと、ゴルフ場がある。というよりも、この丘の上にはゴルフ場しかない。だから、ゴルフをするもの以外が丘に上がることはない。僕も、僕の両親もゴルフをしないので、僕はこの丘に上ったことがなかった。だから、いつ真っ白な建物が建ったのかも知らない。建物が新しいから、ここ最近に建てられたのだろうと思っただけだ。青沢と僕の靴が砂利を踏む音だけがした。辺りは静かだった。林の中から知らない鳥の鳴き声が聞こえた。僕が鳥の鳴き声に気を取られていると、

「杉原さん。あの建物の扉を開けた時から、あなたの入会式は始まります」

そう青沢が言った。

「僕はどうすればいいのでしょうか?」

「何も心配することはありません。神の御心のままに」


建物の中に入ると、僕が想像していたのと違った。青沢が先ほど、「氏子」と口にしていたから、神道系の宗教であり、中は畳の広間に神棚があることを想像していた。でも、目の前に見えるのは、キリスト教会のようだった。神棚は無く、真ん中の通路を挟んで両側に長椅子が並んでいた。しかも、椅子には多くの人が座っていた。人数では四十人ぐらいだろうか。皆が振り返り、

「先生。お待ちしておりました」

と言った。

「皆様。今日も良い祈りを捧げましょう」

青沢が語りかけると、皆、頭を下げた。

「それと、新しい信者様が、礼命会に、今日、入られます。入会式を皆様とともに取り行いたいと思います」

青沢は、そう言うと、僕に自己紹介をさせた。

僕は、これまでの人生で自己紹介をしたことがない。もちろん、簡単な自己紹介はある。新しいクラスになった時とか、アルバイトを始めた時とか、名前を言って頭を下げる程度ならある。それに、せいぜい趣味を加えるぐらいなら。でも、全く知らないこれだけの数の人を前に、しかも、全て特定の宗教の信者を前に挨拶などしたことがない。おそらく世の中のかなりの人が僕と同じだと思う。極めて珍しいシチュエーションだ。ところで、この大勢の人はどうやって、この教会まで来たのだろう? 外に車は止まっていなかった。循環バスがあっただろうか? 僕はそんなことを考えていた。僕なりに緊張を紛らわせていたのだ。僕は緊張しながらも、自己紹介をした。実は、僕は、礼命会という宗教には何の関心もない。でも、どうしても、入信したいと思って僕なりに必死で自己紹介をした。宗教に関心がない僕が入信したい理由は、ただ一つ、僕の生きにくさが消えたからだ。あの違和感が消えたからだ。僕は、それを永続させたい。そのための秘けつのようなものを体得したいのである。青沢から学ぶのか、修行により体得するのかは分からないけど、とにかく、そのためには、入信しないわけにはいかないと思った。

だから、僕は自己紹介をした。

「杉原和志。P大学経済学部二年生です。この町の生まれです。実は、今日、自宅の近くの路上で僕は腹痛で倒れました。僕は子どもの頃から胃が弱いので、胃が痛くなることはよくあるのですが、今日は痛みのあまり倒れました。そこに……」

と、ここまで話して僕は迷った。青沢さんと言うべきか、先生と言うべきか。

そして、

「青沢先生が幸運にもおられました。先生は、僕のお腹に手を当てて祈ってくれました。悲しみを慰めてくれました。すると、僕の胃の痛みはすっと消えました。それに、もっと驚くべきことに、僕のいつも悩まされている生きることの違和感が消えていました。僕は生きにくさから解放されました。だから、僕は入信したいと先生についてここに来ました」

僕は素直に先生と言っていた。僕は、僕から生きにくさを消してくれた青沢を素直に尊敬していた。皆の前で、自己紹介をしながら、自然に「青沢先生」と言った瞬間、僕自身がそのことに気づいた。僕は青沢を尊敬している。僕は心の中で驚いていた。何故なら、僕は他人を尊敬したことが、これまでの人生で一度もなかったからだ。逆はよくある。僕がひねくれているからだ。


僕の自己紹介が終わると、信者から大きな拍手が起こった。

「杉原さん。あなたは純粋すぎるんです。だから、生きにくいんです。でも、純粋な自分を失わないでください。私たちと一緒に信仰に励みましょう。そうすれば、あなたは、もっと生きやすくなれます」

男性信者がそう言った。

「そうですよ。今時珍しい青年です。きっと毎日、生きているだけで、世の中の悪い出来事や、人の悪意が、心に突き刺さってくるような無垢な心をあなたは持っているのでしょう。生きることは厳しいことです。だから、そういったことを乗り越えるために強くならなければなりません。でも、強くなることは人に冷たくなることでも、無関心になることでもありません。礼命会で信仰をすれば、あなたは今のあなたのまま強くなれます」

女性信者がそう言った。

僕には、二人の言わんとすることが分かった。確かに、僕には、二人から言われるような面はある。ただ、僕はそんなに純粋でもないし優しくもない。それに、僕ぐらいの年頃の人間には多かれ少なかれそういう面はあるはずだ。だから、返事に困った。「はい」とも「いいえ」とも言えずに黙っていた。

すると、青沢が言った。

「皆さんの励ましに、杉原さんは何と言っていいのか困っています。でも、彼は聡明です。皆さんの言葉の意味をよく理解しています。では、入会式を始めます」

そして、入会式に移った。


入会式とは何をするのか、僕は内心怖かった。例えば、僕の人差し指の先をナイフで切って、血を絞り出して信者全員で飲むとか。僕はそんなことまで考えていた。でも当然、そんなカルトチックなことではなかった。むしろ、簡易的すぎると思ったぐらいだった。

教会の正面には、台座の上に真っ白な紙に描かれた大きな手の絵が飾られていた。握手をしている絵だった。写実的で非常にリアルな絵だった。黒い線だけで描かれていた。色はついていなかった。誰が書いたのだろう? 先生だろうか? おそらく御神体だと思われたが、それなら、もっと抽象化するとか、とにかくこのリアリティは無くしたほうがいいのではないかと僕は思った。そのリアルな絵の前に、僕が自分で書いた名前と生年月日を記した小さな紙を置いた。それから、先生がその前に立ち、左隣に僕が立った。

「一礼、二拍手、一礼ですから。杉原さんも一緒に」

先生が僕に言った。先生の顔は正面の絵を見ていた。

「では皆様、杉原和志様が、杉原和志氏子として、大いなる慈愛を授かり、授ける人にならんことをともに願いまして、入会の儀とします」

先生は頭を下げ、その後、大きく柏手を二度打った。隣にいた僕は、音の大きさに一瞬耳が変になった。

後ろの信者も、一斉に、柏手を打った。そして、皆が礼をした。

「杉原さん。これより、あなたも礼命会の氏子として同じ信仰の道を歩むことになりました。あの絵、つまり、礼命会の心である、『ともに生き、ともに幸せになる』。そのために信仰に励みましょう」

先生は僕を見て言った。初めて見る笑顔だった。やや怪しげな風貌と違い素直な笑顔だった。

「杉原さん。頑張りましょうね」

一人の信者が言った。

僕は何を頑張るのか分からなかった。でも、とにかく、

「はい。頑張ります」

と答えた。

「ゆっくりでいいよ。焦らなくて」

他の信者が言った。信者の年齢層は、七十前後だろうか。高齢層ばかりで若者層はいなかった。


この後、青沢礼命の講話があった。

そこで、僕は、青沢礼命と礼命会の驚くべき正体を知った。

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