3、男の子になった女の子
二十四時間営業のディスカウントショップで真吾が買ったのは、緑茶と弁当、ハサミ、男の子用の長袖の服と長ズボン、スニーカー、マスク、そして新しいショルダーバッグだ。
近くの物陰で待たせていた陽笑と合流すると、そこから半里ほどの山へ歩き、樹々の陰で二人、弁当を食べた。
食べている間も、陽笑は木漏れ日に負けない笑顔を真吾に見せた。
「そんなに笑うくらい、うまいのか?」
と真吾が問うと、少女はなおも笑って言う。
「おいしいよ。でも、真吾に笑顔を見せたくて、笑ってんだよ。だって、あんた、言ったよね・・あたしは、美人じゃないけど、笑うとかわいいって」
真吾は陽笑の頭を手のひらで撫でるように叩き、
「ああ、陽笑の笑顔は特別だよ」
「うふっ、特別?」
「ああ、陽笑の笑顔は、おれを幸せにする笑顔だ」
「あはっ、あははは・・」
哄笑の勢いで唇のすき間から米粒が噴き出してしまい、それで照れ笑いする少女に真吾は目を丸くした。そしてそれは真吾を本当に幸せな気持ちにさせたのだ。それは陽笑の笑顔に触れるまでは知らなかった幸福感だ。だけど、時折、少女は素顔に戻った・・地獄の責め苦に圧し潰された悲愴な素顔に。
食べ終わると、真吾は陽笑の髪を短く切った。そして男装に着替えさせると、丸顔で唇の熱い彼女は、ヤンチャな野球少年のような風貌となった。
スカートや古い靴などは弁当の入れ物と一緒に古バッグに入れ、樹々の奥に捨てた。
「いいか、これからおまえは、おれの歳の離れた弟だ。名前もおれの弟だから・・青木はる・・陽笑という字から、笑をはぶいて、陽だ。人がいるところでは、男の子の声でしゃべるんだぞ・・できるか?」
と言う真吾に、陽笑は低い声で応じた。
「おうよ、真吾兄ちゃん、これでいいか?」
「おう、うまいじゃないか。陽笑、ほんとは、男の子じゃないのか?」
「そんなわけないでしょ。胸だってふくらんできたのに」
と元の声で陽笑は言う。
「ん? そいつはまずいかも」
と言って、真吾はさりげなく手のひらを少女の胸へ伸ばした。
が、触れる直前、陽笑の右手が青年の頬を叩いたのだ。
近くにいた小鳥が逃げ去るほどのバチンという烈しい音が炸裂した。
「痛え・・おまえ、ビンタも男の子並みの力じゃないか」
青年の涙目を、少女が睨みつける。
「ごめん、条件反射。だって、あんた、あたしの胸に触ろうとしたよね?」
「それは、だって、陽笑の捜索で警察は大々的に動くはずだよ。女の子とバレないように、こっちだって周到に対策を練らなくちゃ。次に店に寄ったら、さらしを買わなきゃな」
「さらしって?」
「何だ、さらしも知らないのか? さらしって言うのは・・うーん、おれもよく分かんねえ。勝ってから、説明するよ。だいたい、さらしって、どこに売ってる?」
山地から南へ離れ、線路を見つけると、その横の道を朝陽と反対の、影の伸びる方向へ歩いた。
やがて田舎の小さな駅を見つけ、陽笑にマスクを着けさせ、切符を買い、下りの列車に乗った。
電車の中では、陽笑は悲しげに窓の外を見つめていた。真吾も目立たぬよう、ずっと黙していた。
景色はしだいに人家が増え始め、すぐに街へと変わり、半時もすると大都会へと近づいていった。
大きな駅で、各駅停車から特急に乗り換えた。
特急でも、陽笑は窓の外ばかり見ていたが、真吾は睡魔に抵抗できなくなって寝落ちしていた。彼は夜間、一睡もしていないのだ。
乗り換えてから一時間ほどたった時だった。
「何ごとですか?」
という女性の声に、陽笑はふと目を向けた。
その陽笑の目が驚愕に見開いた。
「ちょっと事件がありまして」
と応える男は、まごうことなき制服警官だ。
女性の隣にはリボンを付けた髪が見える。
警官は手元の何かとそのリボンの誰かを見比べ、
「失礼しました」
と言って、左右の座席を見ながら陽笑の方へ進んで来る。
陽笑の鼓動が恐ろしく高鳴った。
どうしよう? どうしたらいい?
パニック状態の陽笑は、すやすや寝息を立てている真吾に衝動的に抱き着き、顔を青年の胸に埋め、自分も眠っているフリをした。
耳から伝わってくるのは、真吾の心臓の音だ。その音より強く、警官の足音が近づいてくる。陽笑の心臓が暴れ太鼓のように高鳴っていく。もう足音がすぐそこだ。
落ち着け・・あたしは、いや、おれは、男の子だ・・・
と自分に言い聞かせたが、冷たい汗をこめかみにも首筋にも感じ、今にも身体が震えだしそうだ。
お願い、通り過ぎて・・・
という陽笑の願いもむなしく、唐突に肩を叩かれた。ポンポンと軽いタッチだったが、少女にとっては雷のように心臓に轟いた。
陽笑は薄目を開け、しかめっ面で男の子を模して低い声を出した。
「ん? 何?」
「ぼうや、名前は?」
と問うのは、やはり制服警官だ。
「おれ? 陽」
とぶっきらぼうに答えた。
刺すような視線を浴び、頬が熱くなっていくのを感じて、ひび割れた心臓が爆発しそうだ。
マスクを取って、と言われたら、この世も終わりだ・・・
と思うと、なおさら頬が燃えていく。
しかし警官は、職務を急いでいるのか、
「失礼」
と一言で、少女の前から忽然と消えた。
警官が別の車両へ移っても、陽笑は真吾にしがみつき、彼の心音を聴いていた。
真吾、あたし、うまくやれたよ・・・
と心で呼びかけた。
いつしか真吾と陽笑の鼓動がシンクロしていった。それは陽笑が永い間失っていた救いのように感じられた。そしてそれは遠くやさしい子守唄でもあった。知らず知らず陽笑も夢に揺られていた。
夢に落ちるまでは幸せだったのに、今日も悪夢が少女を苦しめた。
・・・・・・陽笑も母も、義父の由紀夫に押さえつけられ、首を絞められ、殴られた。いつもの現実は、いつもの夢の中にまで侵略してきた。殴られたり蹴られたりよりもっと怖いのは、沸騰したヤカンの熱湯だ。頭にも胸にも背にも手足にも、悪魔の笑声とともに地獄湯が襲ってきた。母や陽笑が悲鳴をあげれば、由紀夫はますます歓びに狂うのだ。だから母娘は、どこかへ逃げなければならなかった。だけど今はもう、母はいない。夢の中でも、娘は義父を包丁で刺した。刺した首から鮮血が溢れだした。それでもまだ十一になったばかりの幼い手では、致命的な深手を負わすことなどできないのだ。
「何だ、殺せないのか? ならば、おれが殺してあげよう」
ぷるぷる唇を震わせながらそう言って、由紀夫は首に刺さった包丁を抜き取り、生血滴る刃先を陽笑に向けた。彼の口がひん曲がるように笑い、剥き出しの目はぎょろりと陽笑を貫いた。
恐怖に震えながら、陽笑は逃げた。夢の中の古い屋敷はどこまでも長く続いていた。ふすまを幾十枚も開け、逃げた。逃げても逃げても、少女のか細い手足では追手の気配は迫るばかりだ。ようやく窓を飛び出し、森の中へ突入していった。森には毒蛇も毒虫も潜んでいる。夜行性の肉食獣も目を光らせている。だが、そんなことくらい何だというのだ。追手に比べりゃ何てことはないのだ。森深く逃げても、追手の足音はずんずん巨大になっていく。そして陽笑には分かっていた・・森の果ては絶壁だ。そこから飛べば・・飛ぶことができれば、自由になれる。それは死を意味するのかもしれない。だけどあの男に捕まるより絶対的にましなのだ。足が痛い。イバラか何かに刺されて血だらけみたい。闇が闇を呼び、恐怖に心臓が痛いほど締めつけられ、陽笑は思わず叫んでいた。
「助けて。誰か助けて」・・・・・・
「おい、陽、大丈夫か?」
と、誰かの声に揺さぶられ、ハッと目を覚ました。
悪夢から生還すると、ここは電車の中だ。
陽笑を抱くように揺するのは、真吾だった。心配そうに彼女の瞳を覗き込んでいる。
「え? 何?」
「陽、苦しそうにうめいてたぞ。涙流してさ」
真吾の指が、陽笑の目とマスクの間の涙をやさしく愛撫するように拭いた。指に触れる少女の肌は、想像以上になめらかだった。
つぶらな黒い瞳が、じっと青年の目を見つめながら、新たな涙を熱くこぼした。
真吾はそれをも大切な何かを受け止めるように指ですくった。
「あいつの夢、見てたの。見たくないのに・・」
と言ってから、陽笑は周りに人がいるのに地声でしゃべっていることに気づいた。
だから低い声に変えて言った。
「だから、おれ、眠るの、嫌いなんだ」
「おれがおまえの悪夢をバクバク食ってあげようか?」
そう言いながら真吾は少女の短く切った髪をやさしく撫ぜた。
「だめだよ。おれの夢は、腐りすぎて、お腹壊すよ。それより、目覚めてる時だけでも、こうやって一緒にいてくれたら、おれ、生きていける気がする」
陽笑は青年の目を見返して笑った。マスクをしていても、彼女は笑う時だけは永く磨かれた宝石のように輝くのだ。悲しいほどに輝くのだ。そしてその瞬間だけは、少年の風貌になった陽笑も、純粋な美少女をさらけ出すのだ。
「一緒にいるさ。おれだって、おまえとなら、生きていける気がするから」
少女の指が真吾の指に絡んだ。それは五本指全部での指切りの誓いのよう。うふふと漏らし、陽笑は真吾の胸に耳を押し当て、今一度生きている声を聴いた。青年の心臓の拍動に合わせ、少女の血液も真っ赤に燃えてドクドク流れた。
特急列車は西へ西へ、走り続けた・・ここじゃないどこかを目指して。
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