2、おまえが笑ってくれるなら

 二人の黒服面が、黒ミニバンの運転席と助手席にバタバタ乗り込んだ。もう一人の実行役を待っていると、後部座席のドアが開けられた。突風のように乗り込んで来たのは、片頬血だらけの少女だ。

「何だ? おい、おまえ、何してやがる?」

 と長身の男が驚きの声をあげた。

「あたしも、連れてって」

 と少女は泣声だ。

「ばかか・・おれたちゃ、強盗だぞ」

 男は車を出て、後部のドアを開け、少女のか細い腕を取って引きずり出した。

「ここにいちゃ、お義父さんにやられちゃうの。殺されるかもしれないの。お母さんと家を出るはずだったのに、あんたらが台無しにしたの」

 と悲愴な顔で訴える娘を玄関へ放り出し、

「おれたちを、誘拐犯にしようと言うのか。そんな血だらけの顔で、気味悪いガキだな」

 と吐き捨てると、長身の男は今度は二列目の座席に乗り、ドアを閉めながら運転席に叫んだ。

「もう救急車、来ちまう。車を出せ」


 古家の二階の天井板をずらし、青木真吾が見つけた物は、黒くて古いショルダーバックだった。畳へ下ろして中身を確認した。青い布袋が入っている。そしてその中に・・目を疑うほどの一万円の束が。

 真吾はすぐにバッグを閉じ、肩にかけ、階段を駆け下りた。

 玄関を出ると、猛スピードで遠ざかる黒のミニバンのテールランプが見えた。

「何で・・」

 とつぶやいていると、遠くから救急車の音が聞こえてきた。

 軒先にある蛇口から水を出し、頬の血を洗い流していた娘が、逃げ遅れた男に気づいた。そして彼に近づきながら、突き刺すような声をぶつけた。

「あんた、その鞄、あたしのお母さんのもんじゃないか」

 真吾は身体をビクンと震わせ、声の方を凝視した。暗がりを、少女の見開いた瞳が迫って来る。

「あ、ごめん・・」

 と真吾の小さな声。

「あいつに見つからないように隠していたのに、どうして?」

 月影隠す二つの瞳が目の前にまで切迫した。

「ごめん、見つけちゃった」

「いいよ・・」

「えっ?」

「それ、あげるから、あたしを連れてって」

「え? どこに?」

「ここじゃない、どこかに」   

 そう話している間にも、救急車のサイレンは近づいてくる。

「どうして?」

「あいつ・・あの親父、あたしに暴力振るうんだ。ここは地獄だよ。あたし、殺せなかったから、きっといつか殺されるよ、だから・・」

「お、おれには、無理だよ」

「あんた、強盗だろ? ここにいちゃ、捕まるよ。あたし、見つからない逃げ道、知ってるから」

 少女の両手が真吾の腕を取って引いた。

 振りほどこうとしたが、赤いランプが見る見る近づいてくる。

「ほら、覆面脱ぎ捨てて。そんなのかぶってちゃ、絶対怪しまれるよ」

 もう一刻の猶予もない・・・

 と真吾の胸で何ものかが叫んだ。

 言われるままに、黒覆面を脱ぎ捨て、迫りくるサイレンと逆方向に走りかけた。

「ばか、そっちは行き止まり。こっちよ」

 少女が腕を取り、細い林道の暗がりへと導いた。

 膨れあがったサイレンが止み、救急車が渡会家に到着したことを示した。

 真っ暗な草道を、青年は少女に腕を引かれ、転ばぬよう駆けた。幽霊はいないとしても、獣やら毒蛇やら毒虫やら何かに襲われそうな林道だ。夏の終わり、秋の始まりを知らせる虫たちの声が、闇の底から浮き出していた。吹きおろしの山風も、ざわざわ樹々を騒がせている。そんな樹々が妖怪のように飛び掛かって来そうなのに、少女は魔女のように巧みに避けて青年を連れ進む。百メートルほどで樹々を抜け、いくつかの民家と街灯のある舗装道路に出た。

 ふいに悪魔が呼び止めるように、青年のポケットの携帯が鳴った。

「それ、あんたの携帯?」

 と陽笑が問う。

 真吾は首を振った。

「強盗の指示役に渡されたもんだ」

「だったらすぐに捨てなよ。そのバッグのお金。あたしとお母さんしか知らない、お義父さんから逃げるためのお金よ。誰もあんたがお金を見つけたことは知らないでしょ? だから、今では、それはあたしとあんたの、二人だけの秘密のお金なんだよ。それを、そいつらに知られちゃだめでしょ」

 真吾はひとつふたつうなずくと、鳴り続ける携帯電話を今来た林の奥へ思いっきり投げた。

 そして振り返り、少女のつぶらな瞳を見つめて言った。

「本当にいいのか?」

「え? 何が?」

「ここじゃない、どこかに、行っても」

 少女の顔がぱあっとほころんだ。

「連れてってくれるんだね」

「学校は、どうするの? 友だち、悲しむだろ?」

 少女はぷるぷる首を振った。

「友だちなんて・・学校って、何の意味があるんだよ? 行っても、妖怪扱いされるだけなのに」

 真吾はじっと少女の顔を覗き込んだ。

「妖怪? おまえ、美人とは言い難いけど、笑うとバカみたいにかわいいのに」

 陽笑ははにかむように微笑んだ。

「かわいいのは知ってるけど、バカみたいにって何よ?」

「じゃあ、何て言えばいい?」

「お日様みたいに、輝いてるって」

「おまえが笑うと、ほんとにお日様みたいに胸が熱くなるよ」

 少女は上目づかいに青年を見つめながら、膝を折って笑った。

「あはは、あはは、あんたこそ、バカみたいに正直者なんだね・・でも、妖怪って言われてるのは、そこじゃないんだ」

 少女は青年の腕を引いて街灯の元へ歩んだ。そしてか細い腕を見せ、ついでスカートのすそを引き上げ、痩せこけた足を腿の上部まで見せた。叩かれたアザだけじゃなく、熱湯の跡のタダレもいくつもある。

「ほら、妖怪だろ? 誰も気味悪がって近づきもしないよ・・お腹はもっとひどいし、背中は、さらに地獄だよ」

 真吾の目が驚きで見開いた。

「あの、親父のしわざか?」

 陽笑はうなずき、

「殺したかったけど・・」

 と苦しそうに言う。

「北か、南か、どっちへ行きたい?」

 と真吾は問う。

 陽笑は青年を食い入るように見返した。その黒く大きな瞳は、真吾を呑み込む深い泉のように淡い星影を秘めていた。

「南・・凍え死にしたくないもん」

「よし、南へ行こう」

 歩き出した真吾の腕に、少女はしがみついて聞く。

「あんた、そんなに若くていい男なのに、どうして強盗なんかしたの?」

「失業して、借金もして・・死んだ方がましな男なんだろうけど、死にきれず・・」

「逃げるんだから、その借金、返さないよね?」

「ああ、そうだね。借金取りからも、闇バイトからも、おまえとなら、逃げれる気がしてきた。ここじゃない、どこかへ。この世の果てへ」

「うふふ、ここじゃない、どこかへ。この世の果てへ」

 と少女も真似した。

 街の方向から近づくサイレンが聞こえてきた。ウーウーと、明らかに救急車の音ではない。

 事件が知られ、パトカーが呼ばれたのだ・・・

 と二人は察知した。

 どちらともなく手を取り合った。少女が変な顔したので、青年はゴム手袋を外してポケットに入れ、今度こそ生の手と手を握り合った。そして山沿いの暗い道を、足早に歩いてサイレンから遠ざかった。

 どうしよう? どうしたら逃げれる?

 と真吾は考えた。

 JRで行ければいいけど、防犯カメラに映るかな? おれの顔は知られちゃいないけど、警察はまず失踪した娘を血眼で捜すに違いない・・何しろ強盗殺人事件に誘拐も絡んでるとしたら・・誘拐? ああ、何てこっだ・・おれ、誘拐犯として、追われる身なのか?

 真吾は思わず少女の手を離そうとした。

 だけどその小さな指は彼の指にもつれて離れない。

「ねえ、あんた、名前、何ていうの?」

 と問いかけてくる。

 青年が黙っていると、少女は指をぎゅっと握って言う。

「あたしは、陽笑、太陽が笑うって書くの」

「陽笑、おまえらしい名だな」

「おまえらしいって、まだ会ったばっかりなのに、どうして分かるの?」

「さっきも言ったじゃないか・・お前の笑顔はお日様みたいだって・・その笑顔が、おれの凍った心を溶かした気がするんだ」

 陽笑はまた、うふふと笑った。

「ほんとに正直なこと言う人なのね。いいよ、あんたの心が凍ってるなら、お日様みたいに笑ってあげる。ところで、あんたの名は?」

「真吾、真実のわれと書いて、しんご」

 と青年は返した。

「真吾、ゴーゴー」

 とはしゃいで陽笑は笑う。

「子供は寝てるこんな真夜中なのに、元気なんだね」

 少女は歩みは止めず、精いっぱいの笑みを真吾にぶつけて訴える。

「だって、大好きなお母さんが死んじゃったのよ。お母さん、いつも言ってたの・・悲しい時ほど笑いなさいって。夜明けの前が一番暗い、って。笑っていれば、朝陽が昇るようにきっと幸せはやって来るって。だから、一番泣きたい今、死に物狂いで笑ってやるんだ・・今、真吾だけがあたしの希望なんだ。あたしが笑っていれば、あんた、あたしを捨てないよね? あたしら、いつかきっと、幸せになるよね? あたしら、この手を離さなければ、いつか幸せになれるよね?」

 まばらな街灯の暗がりの中でも、少女の笑顔は真吾を抱きしめるように悲しく輝いていた。真吾も微笑みを返した。

「陽笑、何年生?」

「小五だよ・・十一歳になったばっかり」

「眠くなったら、言いな。おれがおぶって歩くから」

「どこまで歩くの?」

「とりあえず、県境を越えるまで」

「わあ、すごい。あたし、決して眠くならないわ。お母さん死んだのに、こんなに心がザワザワ壊れてるのに、眠るもんですか」

 固い決意を表明するようにそう言ったのに、三十分後には、陽笑は青年に背負われ、歯ぎしり混じりの悲しい寝息を立てていた。

 アザや火傷の跡だらけの痩せこけた足が、彼の手にはしっとり馴染んだ。

 おれの人生、もう何もかも終わりだと思っていた・・だけど、この娘となら、もう少し、生きられるかも・・いや、生きていたい・・もうあとほんの少しでもいい・・この娘が笑ってくれるなら、どんなことをしてもいいから、生きよう・・・

 そう思いながら、背中に伝わる儚い心音とともに、真吾は暗い道を選んで歩み続けた。進む道が暗ければ暗いほど、満天の星々は明るく輝くのだ。

 陽笑は時折、寝言で悲痛な泣声を漏らした。

 その泣声に胸を撃たれ、真吾はなおも胸で叫んでいた。

 おまえが笑ってくれるなら、おれはどんなことをしても生きるんだ・・・

 天の川を超えて、天の大白鳥が二人を導いていた。


 

 

 













 

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