第9話 音のない時間
音楽室から奏がいなくなって、もう二週間が経っていた。
陽は、変わらず放課後にその扉を開けていた。
けれど、そこにはいつも静寂だけがあった。
鍵盤に手を置くたびに思い出すのは、あの優しい音と、隣で微笑む奏の姿。
「また一緒に弾きたい」と思う気持ちは強くなるばかりだった。
でも、焦ってはいけない。
陽は、自分に何度も言い聞かせていた。
一方その頃、奏は――家で、一人、譜面を見つめていた。
ピアノに触れる気持ちになれず、ただ楽譜をめくっては閉じる日々。
「自分の気持ちを見つめ直したい」と言ったはずなのに、何も見えないまま時間だけが過ぎていった。
陽と離れて、初めて気づいたことがあった。
――自分がどれだけ、彼に支えられていたのか。
音楽室での時間、ふとした言葉、無言のままでも分かち合えていた空気。
それが、どれほど心を穏やかにしてくれていたか。
母親の言葉が、まだ心に引っかかっていた。
「どうせまた途中でやめる」
「本気じゃないなら、意味がない」
その言葉の重さに押しつぶされそうになりながら、それでも――今、確かに芽生えている想いがあった。
「私は、誰かのためにじゃなく、自分のために音楽を続けたい」
「そして、その時間を陽くんと分かち合いたい」
ようやく、心の奥にあった本当の願いが、言葉になり始めた。
***
ある日の放課後。
陽はいつものように音楽室へ向かったが、廊下の角で立ち止まった。
扉の前に、誰かが立っていた。
細く、柔らかなシルエット――奏だった。
「……奏?」
呼びかけると、彼女は振り返った。
少し照れくさそうに、けれど確かな意志を込めた目で、陽を見た。
「……来てたんだ」
「……うん。ずっと、待ってた」
奏は扉を開け、中に入る。
陽も後に続いた。鍵盤の前に並んで座るのは、久しぶりだった。
「……ごめん、陽くん。私、逃げてた」
「……そんなことないよ」
「ううん、逃げてたの。自分の弱さからも、気持ちからも。
でも……ようやく少し、答えが見えてきた」
奏はそっと、譜面を広げる。そこに載っていたのは――ふたりで最初に練習したあの曲だった。
「この曲、もう一度……一緒に弾いてもいい?」
陽は、微笑んで頷いた。
「ああ、もちろん」
ふたりの指が鍵盤に触れる。
久しぶりに響く音は、どこかぎこちなく、でも確かに温かかった。
重なり合う旋律の中で、心が再び繋がっていく感覚があった。
曲が終わったとき、奏が小さく呟いた。
「……私、陽くんのことが好き。ちゃんと、自分の言葉で伝えたかった」
陽の胸が、熱くなる。
「……俺も。奏がいない時間、ずっと思ってた。やっぱり俺には、奏が必要だって」
ふたりは見つめ合い、同じ空気の中で微笑んだ。
過去のすれ違いや迷いは、音の中に溶けていった。
扉の外では、夕陽が差し込み始めていた。
音楽室には、再びふたりの時間が戻ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます