第8話 言葉にならない距離
日差しが少しずつ夏の気配を含み始めた頃、学校では定期テストが迫っていた。教室の空気もどこか落ち着かず、クラスメイトたちは参考書やノートに視線を落とす日が増えていた。
音楽室での放課後は、陽にとって変わらない“特別な時間”だった。
けれど、最近――奏の表情に、少しだけ影が差すことが増えた。
「奏、最近……少し疲れてる?」
ふとした瞬間、陽が問いかけると、奏は小さく首を横に振った。
「……大丈夫。ちょっと、いろいろ考え事してるだけ」
「……何か、あった?」
「ううん……ただ……」
言葉を選ぶように、奏はゆっくりと続けた。
「母に、ピアノのこと……少し話したの。音楽室で、陽くんと一緒に弾いてることとか」
陽の手が、ピタリと止まる。
「……そっか。それで、何か言われた?」
「“また中途半端にやるの?”って……」
その言葉には、深い棘があった。
「前にピアノをやめたとき、母はすごく失望してた。『どうせ続かない』って、ずっと言われてて……。だから、今こうしてまた鍵盤に向かってることを、認めてくれないの」
「……そんなことないのに」
「陽くんがそう言ってくれるの、すごく嬉しいよ。でもね、私……まだ、自分の中で“続けたい理由”をちゃんと見つけられてない気がするの」
沈黙が音楽室を包んだ。
陽は、言いたい言葉がうまく見つからなかった。
***
週明け、陽はあることに気づいた。
奏が、放課後の音楽室に来なくなっていた。
「ごめん、今日は少し用事があって」
「テスト前だから、家で復習したいの」
そんな短いメッセージが数日続いた。
陽はわかっていた。
本当の理由は、別のところにあることを。
気がつけば、ふたりの間に薄いフィルムのような距離ができていた。破れてはいない。でも、確かに隔たりがある。
そして、その距離をさらに広げる出来事が起きた。
「高城、ちょっといい?」
浅倉美月が再び声をかけてきた。
「……何かあった?」
「この前は、ごめんね。気まずくさせたくなかったんだけど……」
「いや、それは……」
「でもさ、やっぱりちょっと思っちゃったんだ。橘さんって、何か“閉じてる”感じしない?」
「……どういう意味?」
「なんていうか、自分の中に“他人を入れない”タイプっていうか……。高城くんの気持ち、ちゃんと届いてるのかなって、見てて思っただけ」
陽は答えられなかった。
奏の笑顔も、言葉も、本物だと思っていた。
でも、もしかしたら自分は、彼女の“手のひらの外側”にいたのかもしれない――そんな不安がふと頭をよぎった。
***
その夜、陽はスマホを見つめたまま、なかなかメッセージを打てなかった。
それでも、意を決して送った。
「……最近、話せてないね。
また、音楽室で一緒に弾きたい。
俺は、奏といる時間が好きだから」
返事はすぐには来なかった。
一時間後、ようやく通知が鳴る。
「ありがとう。
私も、陽くんと過ごした時間は宝物だった。
でも――少し、距離を置きたい。
自分の気持ちをちゃんと見つめ直したいから」
画面の光がにじんだ。
「宝物だった」という過去形の言葉が、胸に突き刺さった。
――また、すれ違ってしまった。
けれど、陽は思った。
それでも、自分は奏のことを、簡単に諦めたくない。
もう一度、ちゃんと向き合いたい。
彼女が自分の気持ちを見つけるその時まで、ちゃんと待てる自分でいたい――そう強く思った。
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