第7話 交差点の向こう側


 週末、春の陽射しが校舎を包み込んでいた。

 陽と奏は、放課後の音楽室でまたひとつの曲を仕上げていた。鍵盤の上を流れる旋律は、どこか穏やかで、言葉以上の会話がそこにあった。


 奏は最後の音を弾き終えると、小さく息を吐いた。


「……今の、よかったね」


「ああ。……だんだん、合ってきたな、俺たち」


 ふと、陽が笑った。

 その笑顔に奏もつられるように微笑む。


 ふたりの間に漂う空気は、ほんのりと甘く、だけどどこか壊れやすいガラス細工のようだった。


「ねえ、陽くん。……連休、空いてる日ある?」


「ん? あるけど……どうして?」


「よかったら、一緒に出かけない? 音楽室じゃなくて……外で」


 それは初めて、奏の方から“ふたりきり”の時間を求めてくれた瞬間だった。


「……わかった」


 陽の声が少しだけ震えていた。心臓が高鳴っているのが、自分でもわかった。


 その日、帰り道の空は真っ赤に染まっていた。

 ふたりの影が並んで、長く伸びていた。


 ***


 翌週、クラスにある噂が流れ始めていた。


「橘さんって、なんか高城と仲良いよね?」


「放課後もいつも一緒だし、あれって、そういう関係なんじゃないの?」


 教室の片隅で、ひそひそと囁かれる声。

 圭一も陽の肩を軽く叩いて言った。


「お前、なんか最近目立ってきてるぞ? ちょっとした話題の中心だ」


「……別に、何かしてるわけじゃない」


「まぁ、悪口って感じじゃないけどな。ただ……注目されてるのは事実だな」


 陽は曖昧に頷いた。

 気にしないようにしていても、周囲の視線は確かに鋭くなってきていた。


 そしてもうひとつ――陽の前に、思いもよらない人物が現れた。


「高城くん、ちょっといい?」


 それは、同じクラスの女子・浅倉美月だった。

 明るく社交的で、クラスの中心にいるような存在。


「話って……?」


「単刀直入に聞くね。橘さんのこと、本気で好きなの?」


 陽は目を見開いた。


「……どうして、そんなことを」


「気になるから。……私、橘さんのこと、あんまり好きじゃないの」


 その言葉に、胸の奥がざわついた。


「静かで、何考えてるかわからなくて。でも、なんだか最近……高城くんのこと、独り占めしてるみたいで、ちょっとずるいと思った」


「……それは、勝手な言い分だよ」


「うん、そうかもしれない。でもね、私、高城くんのこと……少し前から、気になってたんだ」


 陽は何も言えなかった。

 まさか、そんな告白のような言葉がこのタイミングで飛び出すなんて。


 「好きな人が、自分のことを好きでいてくれるとは限らない」

 そんな当たり前のことが、現実味を帯びて突き刺さる。


「……ごめん。俺、誰かと付き合ってるわけじゃないけど……気持ちは、もう決まってるんだ」


 美月は少し寂しそうに笑った。


「そっか。……でも、ちゃんと言ってくれてありがとう」


 その後ろ姿が、妙に印象に残った。


 ***


 数日後、奏と陽は約束通り、ふたりで出かけた。

 街中のカフェ、公園、少しだけ寄り道した本屋――どこも特別ではない場所だったのに、全部が特別に感じられた。


「……楽しかった。ありがとう、陽くん」


 帰り道、奏がふと立ち止まって言った。


「私、今……少しずつ、自分のことが好きになってきたかも。陽くんのおかげで」


 陽は答えられなかった。言葉が足りなかった。

 でも、彼女の手にそっと手を重ねた。


 次の言葉は、きっと近い。

 この交差点を越えた先で、きっと。

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