第5話 さざ波の予感


 新学期が始まって三週間が過ぎた頃、クラスの空気は少しずつ柔らかくなってきていた。グループが自然とでき始め、昼休みの会話も以前より賑やかになった。


 陽はいつものように昼食を取りながら、ふと前の席に視線を向けた。

 橘奏は、最近少しだけクラスに溶け込み始めているように見えた。女子数人と穏やかに言葉を交わしている彼女は、最初の頃の「近寄りがたさ」とはどこか違っていた。


「……なんか、変わったよな」


「ん?誰が?」


 陽の独り言に、隣の圭一が顔を上げる。


「奏。前より、クラスの人と話してるなって」


「おお、確かに。まぁ、お前のおかげじゃね? 放課後ずっとふたりでピアノとか、青春してるし」


「やめろって、そういう言い方」


「事実やろ。……にしても、最近ちょっと周り、気づいてきてるっぽいぞ?」


 その言葉に、陽の手が一瞬止まった。


「……気づいてるって?」


「いや、別に悪い意味じゃないけどな。『あのふたりって仲良いよね』とか、そういう話、ちょこちょこ耳にするぞ?」


 陽は黙ったまま、視線を窓の外に向けた。

 風が木の葉を揺らしていた。


 放課後、いつものように音楽室の前に立った陽は、ふと扉の前で足を止めた。

 扉の向こうからは、いつものようにピアノの音が聴こえてきた――でも、それは奏の音ではなかった。


 控えめで、まだぎこちないタッチ。だが確かに、誰かが鍵盤に向かっている。


 そっと扉を開けると、そこにいたのは奏と、クラスの女子・三宅麻央だった。


「……あ、高城くん」


 奏が振り向き、小さく手を振る。

 麻央も少し驚いたようにこちらを見た。


「あ、ごめん……邪魔だった?」


「ううん。今日は麻央ちゃんが“ちょっとだけピアノ教えて”って言ってくれて。連れてきたの」


 麻央は照れくさそうに笑った。


「私、全然弾けないんだけど、奏ちゃんがすごく丁寧に教えてくれるから……楽しくて」


「……そうなんだ」


 陽は思わず目を逸らした。

 なぜか、胸の奥に小さな棘のような違和感が引っかかる。


 自分だけが知っていたはずの“音楽室”が、少しずつ“誰かと共有される場所”になっていく。

 それが、寂しいと思ってしまったのは、きっとわがままだ。


「高城くんも一緒に弾こうよ。今日は三人で、簡単な曲でもいいし」


 奏が変わらぬ笑顔で言う。

 その笑顔が、どこか遠く感じた。


 ──なんで、だろう。

 昨日までと何も変わっていないはずなのに、今日は少しだけ息がしづらい。


「……ごめん、今日はちょっと用事あるから、また今度」


 陽はそう言って、足早に音楽室を離れた。


 階段を下りながら、胸の中に広がっていく感情が、自分でもうまくつかめなかった。

 嫉妬? 戸惑い? それとも、ただの独占欲?


 夕暮れの廊下に、一人きりの足音が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る