第3話 秘密の音楽室
春の陽射しが少しずつ強くなり、昼休みには上着を脱ぐ生徒が増えてきた。新しいクラスにも徐々に慣れてきたとはいえ、教室の空気はまだどこかぎこちない。笑い声の中に、それぞれが自分の居場所を探しているような気配が混ざっている。
高城 陽もそのひとりだった。
圭一のようにどこにでも溶け込めるタイプではない。だけど、無理に誰かに合わせるようなこともしたくなかった。
そんな中で、音楽室だけは別だった。
放課後、橘 奏と過ごすあの静かな時間だけは、日々のざわめきから切り離された特別な空間だった。
「じゃあ、今日も行くのか?あの、秘密の音楽室に」
圭一がにやにやしながら言った。
「……秘密じゃねぇし」
「いや、もう事実上、秘密のデートスポットだろ。お前らだけしか入ってないんだろ?」
「別にそういうんじゃないし。ただ、ちょっと練習してるだけだって」
「ふーん。ま、いいけどな。でもさ……」
圭一は、ふと真面目な表情になった。
「お前、ちょっと変わったよな」
「え?」
「なんか……顔が柔らかくなった。あの子といると、たぶんお前、楽なんだろ?」
陽は言葉に詰まった。
うまく説明できないけれど、たしかにあの場所にいると、自分が素直になれる気がしていた。
その日の放課後も、陽は音楽室へ向かった。
扉を開けると、すでに奏が椅子に座っていた。陽を見ると、小さく手を振る。
「遅かったね」
「ちょっと、圭一にからまれてた」
「ふふ、それなら仕方ない」
今日の奏は、髪を少し結んでいた。
いつもより軽やかに見えて、陽の視線が思わずその髪に吸い寄せられた。
「今日は、これ弾いてみたいんだ」
奏が差し出したのは、古い楽譜だった。少し色褪せたそのページには、優しい旋律が並んでいる。
「これ……小学校のとき、初めて連弾した曲。覚えてる?」
「……あ」
陽の記憶が、一気によみがえる。
たしかにあの頃、音楽の授業でぎこちなく一緒に弾いたあの曲。間違えて笑い合った、たった一度の小さな思い出。
「懐かしいな。でも、全然覚えてないかも」
「じゃあ、思い出そう。一緒に」
奏が笑った。その表情は、どこか無邪気で、少しだけ寂しげでもあった。
二人は鍵盤に向かう。
手探りのように音をつなぎながら、少しずつ旋律が形になっていく。
「……ねえ、陽くんって、将来のこと考えてる?」
奏がぽつりと呟いた。
「……将来?」
「うん。進路とか、夢とか。なんか、みんな“何になりたいか”とか話してるけど……私、正直まだよくわからなくて」
「……俺も」
陽は答えた。
「何になりたいか」なんて、そんなに簡単に決められるものじゃない。けれど――。
「でも、何かに向かってる人って、眩しく見えるよな」
「そうだね。……私は、ただピアノが好きってだけ。好きなことが“夢”に繋がるのかどうかも、よくわからない」
陽は黙って、鍵盤の上の奏の指先を見つめた。
「でも……俺は、奏のピアノ、好きだよ」
その言葉は、不意に口からこぼれていた。
奏が驚いたように顔を上げ、目が合う。
「……ありがとう」
その一言の中に、たくさんの感情が詰まっている気がした。
放課後の音楽室。
誰にも知られない場所で、少しずつ、ふたりだけの時間が積み重なっていく。
外では、桜の花びらが風に舞っていた。
青春は、こうして静かに始まっていくのかもしれない。
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