第2話 放課後の旋律
翌日、陽はなんとなく朝から落ち着かなかった。
昨日、偶然耳にしたあのピアノの音が、頭の中でずっと鳴り続けていたからだ。
橘奏――。
小学校の頃、陽が放課後の音楽室でたまたま聴いた旋律を思い出すたび、記憶の中の小さな影と、今の彼女の姿が重なっていく。あの頃、声をかけられなかった後悔が、ほんの少しだけ胸の奥に残っていた。
「なあ、陽。昨日、奏ちゃんすげぇ綺麗だったよな。っていうか、ピアノ弾くとかなんか、格好よすぎないか?」
圭一が隣で弁当をかきこみながら言った。
「……“奏ちゃん”って呼んでんの、もう?」
「いやいや、心の中でな。実際には緊張して話しかけられないってやつ。お前、昨日の自己紹介、ちゃんと聞いてた?あの声、なんか違ったよな。すげぇ静かで、でも芯があるっていうかさ」
「……ああ」
陽は曖昧に頷く。
本当は、もっと言葉にしたい感情があった。でも、自分でもまだ整理しきれていなかった。
放課後。陽は何とはなしに、また音楽室のほうへ歩いていた。
昨日と同じように、あの旋律を聴けるような気がしていた。
案の定、音楽室の前に立つと、静かにピアノの音が流れていた。
その音は、決して派手ではない。でも、まっすぐに心に届くような透明感があった。
そっと扉を開けると、奏の背中が見えた。
昨日と同じように、彼女は一人、ピアノに向かっていた。
陽はまた黙って聴いていた。
ただ、その旋律の中に身を沈めていた。
言葉よりも、もっと深く、彼女の内側に触れているような感覚。
曲が終わったとき、奏がふとこちらに気づいた。
「……あ、ごめん。聴いてた?」
「あ……いや、なんか、また聴こえてきたから。つい」
「そっか。……変じゃなかった?」
「変どころか、すごく……よかった。昨日も聴いたんだ、偶然。昔と同じだな、って思って」
奏の目が少しだけ見開かれた。
「……昔?」
「あ、いや……覚えてないかもしれないけど、小学校のとき。放課後、音楽室でピアノ弾いてた子がいて。俺、よくこっそり聴いてたんだ」
「……え、それ……もしかして、あのときの……」
奏が少しだけ頬を赤らめた。
「私も……誰かが外で聴いてるの、なんとなくわかってた。でも、誰かわからなかった」
「そうなんだ。……あの頃、声かけたかったけど、なんか気まずくて。だから、こうして再会できたの、ちょっと不思議だなって」
少しの沈黙。だけど、それは重たくなかった。
「……ありがとう。嬉しい」
奏はそう言って、小さく笑った。
その笑顔に、陽の胸がふわりと熱くなった。
彼女がこんなふうに笑うのを、陽は初めて見た。
「ねぇ、高城くん。……今度、一緒に弾いてみる?」
「え?」
「ピアノ、やってたんじゃないの?」
「いや……俺、全然。音楽の授業でなんとか弾けるくらいで」
「それでもいいよ。何か一緒に音を出すって、楽しいから」
そう言って、奏は隣の椅子をぽんぽんと叩いた。
陽は少し迷ったが、ゆっくりとその隣に座った。
並んで見る鍵盤の上は、なんだか特別な場所のように感じられた。
「じゃあ、簡単な連弾にしようか。こっちは私が弾くから、陽くんは……こことここ、押して」
「陽くん……?」
「……だって、名前で呼んだほうが弾きやすいでしょ?」
陽の心臓が、不自然なほど跳ねた。
指先が鍵盤に触れるよりも前に、音が鳴ったような気がした。
そして、初めての連弾が、静かに始まった。
たどたどしく、時折間違えながらも、二人の音が少しずつ重なっていく。
教室の外には、春の夕日が差し込んでいた。
その光の中で、まだ始まったばかりの物語が、静かに色づいていく。
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