あの教室で、君と

えもやん

第1話 春風が吹いた日


 桜が満開を迎えた四月の初め、町はほんのりとピンク色に染まっていた。新学期のはじまりは、いつも少しだけ胸がざわつく。制服に袖を通すと、昨日までと変わらないはずの自分が、少しだけ違う存在になったような気がするからだ。


 高城 たかぎ ようは、駅前のパン屋で買った焼きたてのメロンパンを片手に、自転車で坂道をのぼっていた。風が少し冷たい。でも、それさえも心地よく感じられるのは、春の魔法なのだろう。


「今年もこの坂、きついな……」


 小さくつぶやいた声は、風にさらわれて誰にも届かない。高校二年生になった陽は、新しいクラスがどんな顔ぶれなのか、気になって仕方がなかった。中学からの付き合いの友人、圭一とは同じクラスになれるだろうか。いや、むしろ新しい出会いに期待すべきか――そんなことを考えていると、あっという間に校門が見えてきた。


 登校初日とはいえ、生徒たちの表情はどこか浮き足立っている。誰もが新しい関係の始まりに、少しだけ期待と不安を抱いているのだ。


「よー!陽!」


 校舎の前で手を振っていたのは、案の定、圭一だった。寝癖を直しきれていない髪のまま、笑顔を浮かべている。


「おまえ、またその頭……もうちょっと気にしろよ」


「いいんだよ、俺はこれがナチュラルスタイルなんだから」


 陽は呆れながらも、圭一の変わらぬ調子に安心していた。誰かが変わらないままでいてくれることは、時に何よりの救いになる。


 クラス分けの掲示板前は、朝からごった返していた。名前を探す目が真剣で、歓声やため息が入り交じる。


「……あった。2年B組、高城 陽と、田嶋 圭一……お、同じだな」


「よっしゃー!」


 拳を突き上げる圭一に笑いながら、陽も胸の奥でひそかに安堵していた。そして、そのすぐ隣に見慣れない名前があった。


 ――橘 たちばな かなで


 どこかで聞いたような気もする。でも思い出せない。


 教室に入ると、窓際の席にすでにその「橘奏」が座っていた。長い黒髪が春の光を反射して、淡く輝いて見える。真剣に本を読んでいて、周囲のざわめきにもまったく気づかない様子だ。


「……なんか、雰囲気違うな」


 圭一がぽつりとつぶやく。陽も同じことを感じていた。どこかこの空間に馴染まないようで、それでも自然にそこにいるような不思議な存在感。


 その日、自己紹介の時間がやってきた。順番に名前を名乗り、簡単な趣味や好きなことを話す。教室は時に笑い声に包まれ、時にざわつきながら進んでいった。


「……橘 奏です。よろしくお願いします」


 彼女の番が来たとき、教室の空気が一瞬、静まった。彼女の声は澄んでいて、どこか冷たい水のようだった。言葉数は少なかったが、その一言一言がしっかりと胸に残る。


「……趣味は、ピアノです」


 その一言に、陽ははっとした。

 あれは、小学校の頃だったか。


 ――放課後の音楽室で、ピアノを弾いていた女の子。彼女が引くピアノから奏でられる旋律は、思わず聴き入ったのを覚えてる。


 そんな彼女と奏が一瞬、重なり合って見えた。


***


 放課後、陽はなんとなく校舎の裏を歩いていた。新しい教室に慣れない空気を感じて、少しだけ一人になりたかったからだ。


 ふと、どこからかピアノの音が聞こえてきた。


 柔らかく、でも確かな指先で紡がれる音。胸の奥をなでるような旋律は、春の空気と混ざり合って、特別な風景を作り出していた。


 音のする方へ足を運ぶと、音楽室の扉が少しだけ開いていた。中を覗くと、そこには――橘奏の姿があった。


 陽は、思わず足を止めた。


 その背中は、教室にいたときよりもずっと柔らかく、静かだった。音に溶け込むように弾く姿は、まるで音楽そのものだった。


(あの頃と同じだ……やっぱり、あの子だ)


 陽はそっとドアを閉めた。まだ声をかける勇気はなかった。


 けれど、その瞬間、彼の中で何かが動き始めた。長く止まっていた時計の針が、再び動き出したような気がした。


 春風が吹いた日。再会は、静かに始まった。

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