一番近い、風の大人しい島に、私たちの船は乗りつけた。巨人の腕のように太いもやい綱を、皆で一緒に岩にくくり付ける役を私も担う。重たくて、ざらざらしていて、後ろから、冷たい風が吹いていて。顔を上げると、汗をかき始めている船乗り達の光り輝いた褐色の肌が見える。


「いつだって重いよな、この綱」


 こくん、と私は曖昧にはにかむようにして笑い、これまた巨大な岩に細い係留紐を結んだ後で、逃げるように駆けていった。


 人と話すの、得意じゃないんだ。


 でも、嫌いじゃないんです。


 この風と一緒なんです。


 旅と一緒かもしれない。


 人が嫌いなわけじゃない。叔父が見せる笑顔がいつも、好きだった。素敵だと思っていた。人間がそういう笑みを見せるのが、私は好きなのだ。


 遠くでポレーヌ船長が、木の棒である左足をしっかりと島の大地に下ろしながら、私の方を見てきている。どういう気持ちで私のことを眺めているのだろう。


 島に降り立ってみると、船の上にいた時とは風の雰囲気が違うのがよく分かる。障害物を多分に含んだ、それらを透過して出来る、熱と質量が折り重なった風だ。


 大きな小山のような石の丘があって、その上に立つと、遠くまでよく見渡せる。遠くにはまた島が小石のようにまばらに置かれていて、深い真っ白な雲の絨毯の上に、魔法のように浮いている。


(『魔法ってね、この世界のどこかにはあったんだよ、イレイヌ』)


 ヨルナが、古文書を抱き抱えながら、光り輝く瞳でそう言っていた。そうだろうね、と私は答えたと思う。だって私たちが、雲の上に浮いているんだもの。


 でも、それなら雲って何だろう? そしてその底にあるとされている、深い闇って?


 私たちが一般的に、砦で共有されている常識というのは、この世界はすべて、深い何もない闇という底があり、その上にふわふわした、真っ白な雲が覆っている。その上に、幾つもの島々が、少し距離を置いて浮かんでいて、その島には色々な生き物や植物が実り、生を営んでいる。


 私たちが自分の存在する意味を自ら問い直そうとしない限り、多分、この世界の秘密なんていう瑣末な問題は、この世界のどこにも存在しないのと同じぐらい、どうでもいいものとして忘れ去られてしまうのだろう。


 ポレーヌ船長の灰色の瞳が私を捉え、そして他の船乗り達の事も捉えて、やがて歩き出しながら言った。


「よし、各自、食料を確保。一刻後に戻ってこい」


「アイッサー!」


「イレイヌは俺に付いてこい」


 そう言われたので、私は石の丘から降りて、足をゆっくりと運ぶ彼の後ろに付いて、一緒に歩いていった。


 島は一面緑で、丈の低い芝のような草が生い茂っている。一見した所では、石と木々、それだけに見える。


 少し前をゆっくりと両足を運んで歩く彼に、私は声をかけようか迷った。こんなことを聞いてもいいのだろうか、と。


 近くを小さな何かが通って、私はびっくりして片足を上げた。


 その小さな物は、ふわふわした毛が全身に生えていて、尻尾が長く、後ろで器用に丸められていた。それから私から離れてゆき、ポレーヌ船長の足元まで行くと、何か伺うように両足で立ち、彼の様子を伺っている。


「なんだ、可愛ん坊。腹が減ったのか」


 彼が身じろぎすると、その小さな生き物は驚いたように飛び退って、木によじ登りながら顔をこちらに向けて私と彼の方を伺っている。


 彼が言った。


「リスだ。ショロンリスだよ。数は少ないけどな。この辺りの島で、必死に生きている」


「リス……」


 初めて見た生き物だった。ショロンリスは私の顔を伺い、それから機敏な動きでザッと音を立てて、茂みの中にジャンプして姿を消した。


 私の頭に大きな温かな感触があった。


 彼の掌だった。


「まあ、そう気負うな、イレイヌ」


 彼の顔を見上げると、その髭の濃い灰色を思わせる表情は緩やかに微笑んでいる。


「俺たちは空挺賊なんて名乗っちゃいるが、やってることは殆ど商人と変わらないよ。必要なものを島で調達して、交易所でまた、もっと必要なものと交換する。そうやって物と物とを循環させているんだ。必要以上に取るもんでもないし、不用意に争ったりもしない。俺たちは至って平和に、俺たちが生きていけるだけの営みを繰り返すのさ。世の中のバランスを保つ、そういう意味でもな……」


「私、てっきり他の人たちから物を奪うんだと思ってた。だって私達、風を読めるじゃない」


 うっかり敬語を忘れてしまった。


 怒られるかと思ったけれど、意外にも彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、私の頭を更に撫でながら言った。


「風を読めるのは、何も俺たち空挺賊の専売特許じゃあないさ。他の船乗りも、島に住んでる住民達だって、日々風の恩恵を受けながら生きてるんだ。程度の違いはあれ、皆風を読みながら、生かされていることを実感している。俺たちはたまたま、それを利用して居場所を移動して、活用している。でもそれは、他の誰かから物を奪うためじゃない」


「日々を継ぎ合わせるため?」


「ほう、そんな言い回しを知っているとはな。誰から聞いたんだ?」


 叔父だ。そうとは言わなかった。どうしてか、言う気にはなれなかった。


 私が黙っていたせいか、彼は私の頭から手を離し、それからその指を林の奥へと向けた。そして言った。


「あの奥に、テレーザという桃色の木の実が生えている木々の一帯がある。先に仲間達が獲っているから、一緒に獲ってきてくれ。一刻後に、荷物を纏めて船の前に集合だ」


 そう言うと彼は私から離れ、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。


 船長はどこへ行かれるんですか?


 華奢だけれど大きな、その灰色の背中に、何故だか私は声をかけることが出来なかった。


 私は肩をすくめて、冷たい風を背中に受けながら、林の奥へと続く少しばかり湿った土の上に足を踏み入れた。



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