私が初めて船に乗せてもらえた日のことを、私は昨日のことのように思い出せる。自分がどれだけ矮小で、世界がどれだけ大きな存在なのか、そのことを、日々の雑務をこなす中で、嫌というほど教えられた。


 鳥が、私たちよりも遥か高みで、悠々と飛び、私たちが目指す、どこかの島への道先案内人のような役割を担ってくれている。私は、暇さえあれば、下ではなくて、空を、空の中の空を、見上げていた。そこには巨大で、とても遠くで手を広げている太陽の丸い輝きと、色素と空気の薄い青い色の見えない層が広がっている。


 樽が転がってくる。乱気流によって、誰かが固定し忘れた物が転がってきたのだ。


 自分でも静止させられるぐらいの重さのそれを、ぐらつく船上で、何とか体勢を保ちながら、押さえ込む。グイグイと、私を押し出して、この樽は空の彼方へと出たがっているかのようだった。


「ごめんごめん、イレイヌ。大丈夫だったか?」


 金髪で、同じ船員の若いが慣れた様子で甲板を歩いて来、私から樽を受け取った。細い筋張った腕に掴まれて、その樽は小さな草食獣のように途端に大人しくなった。


「ちゃんと括っておくように他の奴らにも言っとかないとな」


 私は頭に結んでいるバンダナの位置を戻しながら、言った。


「いえ、荷物も無事なら良かったです。風、強いですね」


「ああ、イレイヌは乱気流は初めてだったな。よく吹くんだよ、この島と島の間は」


 私たちが今いる場所は、砦のある位置から遥か数百ピロー、それまで障害の何もない船旅の中で、このショルヌ諸島だけは、いつも荒れるのだと、叔父がよく言っていた。


 前甲板で小さな望遠鏡で遥か彼方の景色を見つめているポレーヌ船長の向こうに、分厚い雲の上に、不思議な見えない力で浮かんでいる、幾つもの島々の姿が見える。そのどれもが、今は小さく大気の層の中で微かに霞んで見えるが、その島々に自生している草花の鮮やかな深い緑色は、この距離からでも十分捉えられる。


 私はポレーヌ船長の隣に立って、遥か彼方の緑に美しく輝いている一つの世界を、彼と一緒に見つめていた。


 やがて彼は望遠鏡をゆっくりと下ろすと、溜息を吐くようにそっと言った。


「イレイヌ。覚えておきなさい。世界の広さを……その豊かさを。これから色々な島々を訪れたとしても、その事実だけは変わることはない。世界は美しい。例え大いなる歪みが、その底に眠っているのだとしてもだ……」


 とある言葉を、私の鼓膜は耳ざとく拾い上げた。


「底にある歪みって、何ですか? 船長?」


 ポレーヌ船長は、私の言葉には答えず、含み笑いのような表情を浮かべた後、黙って私の頭をゆっくりと撫でた。慈しむような、優しい撫で方だった。


 彼は徐に私の頭から手を離すと、機敏な動きで振り返り、背後甲板の方を向くと、例の深みと凄みとが巧みに混ぜ合わされたような特徴的な声で、船員達に向かって言った。


「全員、上陸準備。島に着き次第、資源を確保。この新入りの娘にも色々教えてやれ!」


 船員達が全員、今まで続けていた作業の手を一旦止め、彼の呼びかけに耳を傾けていた。


 そして誰ともなく、一斉に大きな声で返事があった。


「サー、イエッサー! ボス!」


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