4
砦にある幾つかの酒場は、今は殆どが店じまいをしている。それは精夜祭の準備のためだったが、それでもまだ開いている店はあり、長旅から帰ってくる船乗り達を癒すために静かに佇んでいる。
私は、彼の引きずるような不安定な足取りを後ろで見ながら、ただ彼の横に並ぼうとはせず、彼の後ろから、砦に灯されている暖かな橙色の光を見つめていた。それはどこかの図鑑で見た、輝く背を持った小さな尊い羽虫達の饗宴のように見える。
ふと、目の前の背中が、不意に立ち止まったように見えた。実際、彼は立ち止まっていて、ゆっくりと顔を上げると、砦の方を静かに眺めながら、溢すような口調で言った。
「ああ、やっぱり、この砦の景色は、格別だなあ……」
私がまだ小さい時、叔父がよく、今の家で旅の話をしてくれた。空を飛ぶ、羽の生えた鯨の話、いつも裸足の民族、氷のように冷たく、入ることすら叶わない謎の迷宮、蔦だらけの、骨が絡まり合って入場を拒む島……彼は色々な話を知っていたけれど、それでも最後には、いつだってこう言うのだった。
そう、今船長が言っているように、
(「イレイヌ、俺はいつだって、この砦の灯りのついた景色を思い描いているよ。旅をしている途中、ずっとだ。どんなに素晴らしい景色を見ても、どんな街に行っても、島に乗り込んでも、いつだって。いつだって、ここの景色と、お前の顔のことを想っている」)
私は一歩踏み出し、立ち止まっている船長に声をかけた。
その黒く、実は痩せていて不安になるような背中に向かって。
「ポレーヌ船長。申し訳ありませんが、もう少しだけ、急いでは貰えないでしょうか? 私は、早く理由を知りたいのです」
それが無礼に当たるのも分かっている。立場をわきまえた発言ではないことも。でも、これが私なのだ。どうしようもない、歪んだ闇のような物を抱えて育ってしまった、自分なのだ。
今はこれでもいい。私は、今はまだ。
船長は目を瞬きながら、私の顔を見ると、少し微笑んでから、「まあ、そう急がせるな」と言いながらも、船長は再び、ゆっくりと歩き始めた。
多分、『時止まる館』だと思う。彼が一人で飲む場所は、いつもその場所だったから。
幾つかの橋を渡って、急峻な階段を上がった所に、細い飲み屋道がある。ここに、かつては住んでいた先住の人たちが残していった住居や、簡素な道があって、それを加工して、改築して、色々な人たちが住む道が出来上がった。道は丸く削られた石が埋め込まれた石畳だし、丸い石膏のような白い石で出来た可愛らしいフォルムの家は、殆どが飲食店だ。表に看板が出ている。今は下げられていたり、灯りが落ちている店もあるが、それでもまだまだ人通りは多かったし、賑やかな声が聞こえてくる。
私は、この小さな賑わいを持っている景色が好きだった。暖かで、豊かで、笑顔があって、平和で。自分が空挺賊の一員であるということも忘れて、この温もりの中にずっと浸かっていたいという気分にさせられる。
船長は、私の少し先を歩いて、それから、ゆっくりとした足取りで、頭の丸い鳥が砂時計の上に止まっている鳥がモチーフの、小さな看板が出ている店へと入っていった。
彼の後ろに続いて入っていくと、大きな、目の覚めるような快活な声が聞こえてきた。この時間に聞くと、中々に意識にくるものがある。見ると、いつも元気なタルヤおばさんの明るい笑顔が私に向けられていた。
「なんだ、イレイヌじゃない。あんた、またなんか彼女に吹っかけたんじゃないだろうね」
「そう言うなタルヤ。ああ、いつもの、ジルトエールで頼むよ」
「はいよ。イレイヌはどうする? あんたも飲みにきたんだろう?」
「ああ、えと、私は……」
「チェリージュース?」
「あ……」
船長の方を見ると、船長はもう席についていて、目をパチリと打ち合わせ、「遠慮するな」とでも言わんばかりの顔をしていた。
仕方なく私も彼の隣に座りながら、おばさんに向かって言った。
「あ、おばさん、今日はお酒を飲むって船長と約束しまして。だから……」
ちら、と彼女が船長の方を意味ありげに見たが、彼はどこ吹く風で、目を瞑って、右手は腰の小刀の柄をいじっていた。
おばさんはもう一度私の顔を見た後、深い溜息を吐いて、「分かったよ」とだけ言って、奥へと消えていった。何かしらの準備が必要なのだろうか。奥の部屋は、何故か湯気が流れ出てきていて、何だか暖かそうだった。
彼女を待っている間、私と船長の間には、深い谷間のような沈黙があった。触れることをためらってしまうような、どこかよそよそしい感覚。彼が何を言わんとしているのか、私は計りかねた。
そう思っていると、また例の香りが漂ってきた。彼が今付けている香水の匂いだ。いや、もしかすると香水ではないのかもしれない。でも、これは……。
「船長、先程もお尋ねしましたが、香水、変えられたんですか?」
船長は、今は腰から短刀を抜き出して、柄に付けられている飾り紐を、何かを誤魔化すかのようにいじくり回していた。まるで子供のような横顔で。
その横顔が、ちら、と、私の顔を鋭い眼光で見据えた。そして言った。
「ああ、チロルって街に寄った時にな。そこの占い師が、香水を変えた方がいい風が吹くって言ったもんだから。ついでに女にもモテるってよ。仲間連中にはしこたま笑われたが、カビ臭い年寄りかはいいだろう。嫌か? この匂い」
私は首を振った。
「いえ、とてもいいと思います。私は好きな匂いです。何だか赤い色の、花畑みたいで」
「おう……そうか」
「そうですよ」
それから、再び絵に描いたような沈黙が続いた。奥で、ドタドタと音が聞こえる。何か、階段を勢いよく駆け降りてくるような、小さな足音。これは、多分、彼か彼女だろう、いや、彼かな?
暫くして、おばさんがエールと、何か、よく分からない、初めて見るグラスの色鮮やかな飲み物を持って出てきた。隣で船長が驚き半分、からかい半分のような丸い眼で、その飲み物と私とを見比べた。そしてタルヤおばさんが飲み物に添えるように、静かに言った。
「こちら、無骨な男のためのジルト。こちら、可憐なお嬢様のための、『姫様のためのブランチショット』。あんたはまだ若いから、私がちょっと手を加えて、薄めになるようにしておいたよ」
「姫様のための……何だって? タルヤ」
私は、差し出された美しい翠色のグラスを、恐る恐る受け取った。
グラスの上には、小さなふわふわした、雲みたいな何かと、その上に多分、ハルカ島のチェリーが乗っている。おばさんがよく使うのは、ハルカ島原産の物だから。
「これ……おばさん、この白いのは何?」
そう言うと、二人が私の方を殆ど同時に、勢いよく見たので、私はたじろいだ。二人とも、目を丸くして、顔を見合わせている。
「何?」
おばさんが言った。
「あんた……アイス、食べたことなかったのかね?」
「お前さん……もっと、世界を知らんといかんなあ」
アイス? 二人に少し小馬鹿にされたような表情で見られているので、私は少し悔しくなり、人差し指でそっと、そのふわふわした雲のようなものを突いてみた。すると、驚いたことに、私の人差し指が、冷たい物に触れた時のような、突くような痛みを伝えてきた。
私は思わず、アイスの雲の中に指を突っ込んだまま、おばさんに向かって、言った。
「おばさん……これ、冷たい」
そう言うと、二人は大声で笑い始めた。
私は少し、言ったことを後悔しながら、指を雲から抜いて、黙って少し舐めた。
そこで気づいた。私と船長の間にあった、あの深い、底のない闇の見える谷間のような沈黙と距離が、その硬さが、静かに、柔らかく崩れていっているのを。全てではないけれど、少し、話しやすい柔らかな感覚が、私と彼との間に広がっているのを肌で感じた。
私は、グラスを手に持ちながら、なんて焦っていたのだろう、と思った。
彼がエールを手に持って、私に掲げてみせた。
そして、言った。
「さあ、イレイヌ、乾杯」
私もグラスを彼の方に向けて、「乾杯」と言った。
私と彼のグラスが、小気味の良い音を立てて、小さく揺れた。
その揺れが少し、心地よかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます