幾つもの岩場を潜り抜け、満点の星空が私を見つめる中、私は黙想しながら走っていた。私は今回の交易で、なぜか留守番だった。その理由を、考えなくてもいいぐらい深くまで降りていって、そこから帰ってくるのが嫌になるまで、そこで考え続けていた。


 ポレーヌ船長は、私の乗っている船『ガロン号』の船長だ。足は訳あって片足しかなく、簡易な木の義足を左足に嵌め、自慢の小刀を振り回しながら、威勢よくいつも船乗り達に指示を飛ばしている。彼は私の叔父と仲が良かった、らしい。噂程度のもので、他の船員から聞いた程度では、彼の交友関係などは殆ど見えてこなかった。


 叔父と仲が良かったからって、なんだ。私が贔屓される理由にはならないじゃないか。


 私はそう心の奥底で呟きながら、船着場へと着く一番近い岩場から、最後の橋へと飛び乗った。ぐらぐら揺れる葦を結い合わせて作った大きな橋は、私一人を支えるには十分すぎるぐらいしっかりとしている。


 少し上を見上げると、少し先で霧のような柔らかな雲の上に鎮座して、今は束の間の羽休めをしている「ガロン号」が見える。夜空は眩いほどの星々と、巨大な満月の光で満ちていて、その光の元、船乗り達は交易で得た品々や荷物を船から下ろしている所だった。


 その袂に、彼の姿があった。真っ黒なつぎはぎだらけの、ボロボロのマントを纏っている、片足だけの男が、手を伸ばして船員達に威勢よく指示を出している所だった。


 私は彼の後ろ姿を目に留めて、もう一度自分の心の底で色々と思考を巡らせてから、軋む橋を渡っていった。


 船長は私が近くに寄っていっても、特に何も言わなかった。


 彼の真っ黒な、実は華奢な背中から、なぜか甘い香りがする。甘い、葡萄とセスナの花を混ぜたような、赤い色を思わせる匂いだ。


「……船長、香水、変えたんですか」


 振り返った船長は、控えめに出された私の言葉を目を使って空中で捉えたかのように、ぐるりと印象的な目玉を回すと、それから取ってつけたかのような仕草で、ちょい、と私に人差し指を向けた。その指は乾いて、ひび割れたパンの切れ端のようだった。


「おう、イレイヌ。お留守番ご苦労。砦では変わったことはなかったか」


「ありませんでした。皆精力的に働き、風の暦が乱れることもありませんでした。精夜祭の準備も少しずつですが始められています」


「……そうか、そいつはご苦労。……で、お前はどうなんだ、イレイヌ? 変わったことはなかったか?」


 今日も一つ、地図に穴を開けてしまいましたよ、とは言わなかった。幾ら少女の私を唯一船に乗せてくれる、特別目をかけてくれるありがたい存在だとはいえ、彼は直属の上司だ。言っていいことと悪いことの間には、幾つもの階層があって、私はその下層からしか言葉を選ぶことができない。


「ええ、特に変わりなく。でも、一つ疑問がありまして……」


 私がそう言葉を進めようとした所で、彼は口をつぐんでしまった。意味ありげに。その姿は、かつて叔父が私にして見せたような、何か秘密事がある時の、嘘をつこうとする時の前触れの仕草だった。


「どうして私を船に乗せてくださらなかったのですか?」


 これまで彼は、叔父が行方不明になった三年前から私のことを船に乗せ続けてくれ、その間一度も私を船に乗せることを拒もうとはしなかった。いつだって船に乗せて、色々な所へと連れていってくれた。色々な事を教えてくれた。なのに、今回は。


 今回は、理由も知らされずに、私は一人、砦に取り残された。


 私の瞳の色は、真っ黒なのだという。世界には鏡というものがあるらしいが、私は水の中に浮かぶ、曖昧な自分の姿しか見たことがない。水の中では色はよく映らない。水の色が深い暗い色をしているから。


 私の真っ黒な瞳が、今はピネール船長の眼をまっすぐに捉えている筈だった。彼は不動の心を持っていると知られていて、余程のことがなければ、自分から目を逸らそうとはしない。


 なのに、今、彼は……。


 自分から、私から、目を逸らしている。船員達のことを見るフリをしながら。


 傍に下ろされている、豪奢な飾り模様が施された短刀が、今は力を失っているかのように見える。


 船員達が、私と彼とを除いて、目に入れていないかのように、精力的に荷卸しをしている。刻一刻と、ガロン号は軽くなり、風の恩恵を受けやすくなっている。


 船員達の殆どが砦へと消えていって、今は整備をする者たちが数人残るだけとなった時、唐突に彼が静かに口を開いた。


「イレイヌ、お前さん、お酒は飲めるか?」


 酒は、タルヤおばさんから止められていた。十四の少女が飲むのは、ペリーとチェリーのジュースだけでいいのよ、と。特にあなたはまだ、そんな物を求めるような歳ではないわ、とも。そう言われた時、セスカとヨルナは、部屋の隅で何をしていただろう。耳をそば立てていたことは知っていた。積み木で遊ぶふりをして、いや、あの子達はいつも、私のする事をよく観察していた。


「お酒なら、飲めると思います。多分……」


 そう言うと、彼は再び私の顔をじっと見てきて、それから砕けた笑顔を見せながら言った。笑うと、欠けた前歯がよく見えた。


「そうか。じゃあ、飲みに行こう。さあ行こう。よし行こう」


 船長がこの調子になると、大抵誰が何を言っても変わることがない。私は今ここで返事を聞くことを諦め、彼が残りの整備の船員達に最後の指示を伝えるのを見届けた後、彼の代名詞のような、やや左足を引きずるような特徴的な歩き方を見ながら、彼の背中に付いていった。


 黒い筈の彼のみすぼらしいマントが、今は満月の白い光に照らされて、砂を撒くように鈍く銀色に輝いて見えた。


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