その人(二)
——
扉を閉めたら、上品なドアベルの音がカランと鳴る。それから、その人は「家まで送ろう」と、親切心からそういうのだけれど、泥酔した私は貴女、確信犯ねと口走ってしまい、そうしたら、彼女「
「判っていないのね。私、家に帰りたくないの」
文句をほろり。すると肩を貸すその人は驚いたみたいで、もっとも、帰る家を拒むなんて、彼女も想像していなかったのでしょう。
ここでも彼女は、やけに勘が鋭くって、はたまた数瞬の間に理解しては、「なら、お嬢さんが好いなら、私の
とはいえど、酒を奢らせた挙句、家庭文句で他人の家にお邪魔しようなんて、下卑た守銭奴みたいな行為で、酔ってい乍ら恥ずかしくなった。それでふと、気がかりなことを脳裡に過らせて、訊ねる。
「貴女、良人や子供はいなくって?」
「イヤだなァ、子供が居たら、こんなに遅くまで遊ばないよ」
×
陽も落ちて長く、
たまに乗る車ほどではないけれども、腕車という文明も、あまり心地の好いものではない。急に角を曲がるし、荒道にガタガタ揺れるし。頭がずきずき、沈鬱で野暮ったい面持をしていると自分でも判る。いいえ、これはきっと、アルコオルの所為ね。
そんな腕車の中で、——車夫を除いて——その人と二人きりになって私は初めて、これまでに経験のしたことない不思議な気持になったことを自覚した。勿論、酒気が十分に回って、鐘を打つみたいに頭がガンガンと侵される不快感もそうだけれど、それは今までに幾度も味わってきたこと。それとはまた別の、息が詰まる様な、でも厭ではない、煙たい感情。
それから不意に、その人の肩に寄り掛かった。何故なのか、判然しないの。なんと形容したらいいのか、こう、胸がざわついて、
×
地理の知識が乏しいから詳しいことはよく判らないけれど、私たちが腕車を降りたのは確かにE小路という花街の手前であった。降りてみれば、街燈があるかないか、判らないくらいに寂しく点いて、辺りはすっかり暗晦に満ちる。流石にこんな時間、要に零時を回って出歩いたことはなかったから、緊張というか、不安というか。そんなぱっとしない気持が立ち込めて萎縮していると、その人が顔色を窺って「お嬢さん、心配なさらんで。家は直ぐそこだから」と言う。それで
静まり返る花街の路地を入ったところ、奇怪な雰囲気の漂う細道を三四間すすむと、ようやくその人のお家に着く。お家というより、アパアトの様に見えたから、下宿なの? と訊くばかり、彼女は少し具合を悪そうにして「ああ」とだけ零す。なにか、訊いては
「幻滅、したかね」
寂しそうに、低めいた音色でそう言う。たった一言、「幻滅」という言に、「巧く誘っておいて、いざ来てみれば下宿だなんて、つくづく失望したか」なんてネガチヴな意味が込められていることが、その哀調から充分に窺えた。だから私、そっと返すの。
「いいえ、貴女ですもの」
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