その人(二)

 ——畢竟ひっきょう、二人合わせて、瓶の四本を枯らしてしまった。その人彼女も苦笑気味に、お勘定をグラスとテエブルの間に挟んで「マスタのばれない裡に」と、千鳥足の私を連れて外へ出た。八月の晩は厭に息苦しくて、夜中に蔓延る炎熱が纏わりつく蠅みたいに気分を害すのに、鈴虫は詩を歌うみたいに涼し気に鳴いている。

 扉を閉めたら、上品なドアベルの音がカランと鳴る。それから、その人は「家まで送ろう」と、親切心からそういうのだけれど、泥酔した私は貴女、確信犯ねと口走ってしまい、そうしたら、彼女「かれと思ったのだけど」と言う。

「判っていないのね。私、家に帰りたくないの」

 文句をほろり。すると肩を貸すその人は驚いたみたいで、もっとも、帰る家を拒むなんて、彼女も想像していなかったのでしょう。

 ここでも彼女は、やけに勘が鋭くって、はたまた数瞬の間に理解しては、「なら、お嬢さんが好いなら、私のうちに上がっていくと好い」と言った次第。男に似た口調だけれど、その人はまったく女。私もそれに、気を許してしまって。

 とはいえど、酒を奢らせた挙句、家庭文句で他人の家にお邪魔しようなんて、下卑た守銭奴みたいな行為で、酔ってい乍ら恥ずかしくなった。それでふと、気がかりなことを脳裡に過らせて、訊ねる。

「貴女、良人や子供はいなくって?」

「イヤだなァ、子供が居たら、こんなに遅くまで遊ばないよ」

×

 陽も落ちて長く、腕車わんしゃに身を揺さぶられては、ちょっとばかり気持悪くなって、その度に、隣席するその人彼女の手をきゅっと握る——すらっとして大人びて、嫋やかで上品な左手を。

 たまに乗る車ほどではないけれども、腕車という文明も、あまり心地の好いものではない。急に角を曲がるし、荒道にガタガタ揺れるし。頭がずきずき、沈鬱で野暮ったい面持をしていると自分でも判る。いいえ、これはきっと、アルコオルの所為ね。

 そんな腕車の中で、——車夫を除いて——その人と二人きりになって私は初めて、これまでに経験のしたことない不思議な気持になったことを自覚した。勿論、酒気が十分に回って、鐘を打つみたいに頭がガンガンと侵される不快感もそうだけれど、それは今までに幾度も味わってきたこと。それとはまた別の、息が詰まる様な、でも厭ではない、煙たい感情。

 それから不意に、その人の肩に寄り掛かった。何故なのか、判然しないの。なんと形容したらいいのか、こう、胸がざわついて、たとえるなら、渚に素足を伸ばして、しょっぱい海水に足を遊ばれる様な、擽りにも近い感覚。垢抜けない良人坊ちゃまでは到底いだかせてくれない、だから、その人の傍にいるから抱いてしまう、危険な域に足を踏み入れる様な好奇心。模糊たる正体を探ろうとしたら、余計に遠ざかって、それに近づいたら、また離れていく。そうしているうちに、自分が誰だかも判らなくなりそうで、怖くなって。また、その人の手をきゅっと握る。きっと、彼女は厄介な人間に憑かれたと思っているかもしれない。でも、道すがら、「カエリマセヌ」と家に電報を打ってしまったし、なにより、私、この人を絶対に離さない。

×

 地理の知識が乏しいから詳しいことはよく判らないけれど、私たちが腕車を降りたのは確かにE小路という花街の手前であった。降りてみれば、街燈があるかないか、判らないくらいに寂しく点いて、辺りはすっかり暗晦に満ちる。流石にこんな時間、要に零時を回って出歩いたことはなかったから、緊張というか、不安というか。そんなぱっとしない気持が立ち込めて萎縮していると、その人が顔色を窺って「お嬢さん、心配なさらんで。家は直ぐそこだから」と言う。それでつかえが完璧に消えることはないけれど、不安の靄が少し引いていく気はした。今しがた足はふらつくし、頭痛も収まったものじゃないから、その人の手を握り締めたままでいたら、負ぶろうか、なんてお節介を焼かれて、誰もいやしないのに体裁を気にする私は、その世話を無下にした。

 静まり返る花街の路地を入ったところ、奇怪な雰囲気の漂う細道を三四間すすむと、ようやくその人のお家に着く。お家というより、アパアトの様に見えたから、下宿なの? と訊くばかり、彼女は少し具合を悪そうにして「ああ」とだけ零す。なにか、訊いてはまずいことを言ってしまったかしら。

「幻滅、したかね」

 寂しそうに、低めいた音色でそう言う。たった一言、「幻滅」という言に、「巧く誘っておいて、いざ来てみれば下宿だなんて、つくづく失望したか」なんてネガチヴな意味が込められていることが、その哀調から充分に窺えた。だから私、そっと返すの。

「いいえ、貴女ですもの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る