グッバイ
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その人(一)
この際、
急に「愛人」なんて言われれば、きっと莫迦げて愚かだと貶す人がいるのでしょうけど、ちょっと、待って。
——大正六年に華族名家に生を受け、それから十七年。自尊心の高い品格のあるお母様と、何をするにも億劫な弱々しいお父様。その二人に半ば強引に縁談を進められて、お見合いで会ったのが、なんとも情けない財閥の坊ちゃまで。
初めてのお見合いで、彼は私を一目見るなり「愛らしいお方!」なんて言ったけれど、反って、私の気は到底進まず。サスペンダにパッツリと平行に整えられた前髪、ロイド眼鏡に若干前に尖る歯列の所為で、
せめて外へ抜け出せる機会を作ろうと、私はお母様と相手方のご家族に申し入れて、色っぽく振る舞い
愛人というのは——よくよく考えてみると、愛人ではないのかもしれないけれど、それらしい関係を譬えようと思うと、愛人になってしまって——私がよく行く酒場、今時の洒落た
或る日、いつもと同じ様に、
この、行きつけのバアル——昼間は純喫茶だそうだけれど、昼間に寄ったことはない——は、H市内のD町に在って、それで結構人気が高く、同時に周囲に敵が構えないので、陽が暮れた頃にはお客が続々と越してくる。
突っ伏したまま
——それが、愛人。わたしの、
蒼っぽい髪を、
ただ、謎めきが煙たいくらいにその人を包んでいて、私は初め、彼女に嫌疑の目を向けていた。残念だけれど、私、今日は酔っていないの。
「お嬢さん、いい服を着ているね。誰かに、振られたのかい?」
なんて失敬! 口を衝いて出た言に、彼女はくすりと笑って、焦る素振りの一つも見せず、「ほんと、失敬仕った」と、爽やかな声色で、柔らかな微笑みを含み乍らそう謝る。それを一瞥した私は少しばかり、複雑な気持になった。
「悪気はないんだよ。ところでお嬢さん、お酒は飲んでいないの?」
私の前に置かれたグラスをつんつんと突っついて、その人は言う。視線をグラスに
「私、今日はマスタに、お酒は駄目って言われたの」
しくしくとそういえば、その人は数瞬の間に理解して、自分の持つショットグラスを私に見せつけるが如く、小刻みに振った。細長い白皙の指がとっても綺麗で、思わず見惚れてしまうの。
「なにが好い?」
次いでその人は、ショットグラスにウヰスキイを適量注ぎ、それから私の手前にすっと、差し出してくれる。けれど、そう簡単に手に取るわけにもいかない。
「お勘定は……?」
「気にすることないさ、今日は懐が温かいんだ」
ほれ、と、その人がもう一度グラスを揺する。頼んだ手前だし、と私も断る由を捻じ曲げて、肖り、ぐびっと一杯、呷ってしまった。これが、拍車のかかった瞬間だった。
「もう一杯、いっておくかい?」
私がグラスを握ってから、その人はそっと私の許まで躙り寄って、甘美な声で誘う。マスタにばれたら具合が悪いってことは、判っているのだけれど。心に反して、私は熟れた果実が実ったみたいに、頬をぽっと
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