グッバイ

ǝı̣ɹʎʞ

その人(一)

 この際、判然はっきりと言っておくけれど、私には愛人がいて。

 急に「愛人」なんて言われれば、きっと莫迦げて愚かだと貶す人がいるのでしょうけど、ちょっと、待って。

 ——大正六年に華族名家に生を受け、それから十七年。自尊心の高い品格のあるお母様と、何をするにも億劫な弱々しいお父様。その二人に半ば強引に縁談を進められて、お見合いで会ったのが、なんとも情けない財閥の坊ちゃまで。

 初めてのお見合いで、彼は私を一目見るなり「愛らしいお方!」なんて言ったけれど、反って、私の気は到底進まず。サスペンダにパッツリと平行に整えられた前髪、ロイド眼鏡に若干前に尖る歯列の所為で、下卑げびた感じがからだにへばりつく垢みたい。そんな坊ちゃまとは、とてもお付き合いできそうになかった。それだのに、お母様もお父様も財閥のお金に舞いってしまって、渋ってもとうとう十九の時に結婚をしてしまった次第。私、本当に、良人おっとが厭で仕方ないの。

 せめて外へ抜け出せる機会を作ろうと、私はお母様と相手方のご家族に申し入れて、色っぽく振る舞いながら「良人と二人で過ごしたいんです」なんて言ったら、良人はなにを好い気になったのか、鼻の下を伸ばして一緒に懇願をしてくれて、それから、私たちはお義父さまの財力で中級の家に住むことが決まった。けれども、良人の望んだ生活なんて起こる筈もなく、私は一日の中で、できるだけ家を空ける様にした。薄情だって言いたいかもしれないけれど、政略結婚の犠牲者は、私なのよ。


 愛人というのは——よくよく考えてみると、愛人ではないのかもしれないけれど、それらしい関係を譬えようと思うと、愛人になってしまって——私がよく行く酒場、今時の洒落たことばでは、「バアル」なんていったりする所で出会った。良人から逃げる様に家を出て、浴びる様に酒を呑む様になって、私はお酒に強い方だから、酔っても無理に呑み続けて。そしてお店で潰れ乍ら家庭をうんと恨む。日常茶飯事と言ったらいいのか、肝臓がキリキリと痛む日が増えてしまい、まるで華族の令嬢とは思えない人になってしまったわ、まぁ。

 或る日、いつもと同じ様に、自棄やけ酒を呷る為にバアルへと赴いて、西洋のチョコレイトみたいな扉を押し退け「マスタあ、ウヰスキイ」と捨て台詞を吐いたらば、そのマスタ、酔っていたのかしら、まったく透明なウヰスキイを持ってきて、「何?」と訊く次第、「水です」なんて言う。どうして、お水なの? ともうひとたび訊いたら、マスタは「ここ一週間、ずっとお酒ばかり飲まれていらっしゃったでしょう。余計なお世話かもしれませんが、貴女はまだお若い。今日は躰を休めてください」と、気障きざなことを言って、私はお水で我慢することを強いられた。その後、何度かマスタにお願いをして——上目で色気を使ったり、どうしてもと縋る様に懇願をしたけれど、その度にマスタはお水をグラスで出して、これじゃ生殺しだわ、と私はとうとうテエブルに突っ伏した。

 この、行きつけのバアル——昼間は純喫茶だそうだけれど、昼間に寄ったことはない——は、H市内のD町に在って、それで結構人気が高く、同時に周囲に敵が構えないので、陽が暮れた頃にはお客が続々と越してくる。

 突っ伏したまま転寝うたたねをして、十分程度。周囲の喧噪に目を覚まして、壁掛けの時計を見ると、針は午後の八時を示している。必要最低限の家事以外、外へ出ると決めていたから、帰宅には時期尚早。けれど、マスタはお酒を出してくれない。お店を変えるのも億劫で、窮余に頭を抱えていた刹那。隣の椅子に腰かけた人に、肩を突かれて、私はぼんやりとその面影を見つめた。

 ——それが、愛人。わたしの、貴女愛人

 蒼っぽい髪を、に咲く枝垂桜みたいにさらりと伸ばして、長い前髪から垣間見える双眸は細長く、たとえては妖狐みたいな、艶やかな瞳を持っている。お口が小さく、湿る唇が妖艶で、お鼻立ちは細くしゅっとしていて。寝惚け眼だったけれど、それでも、その人彼女の美貌は判然と判るくらいに、美しかった。

 ただ、謎めきが煙たいくらいにその人を包んでいて、私は初め、彼女に嫌疑の目を向けていた。残念だけれど、私、今日は酔っていないの。

「お嬢さん、いい服を着ているね。誰かに、振られたのかい?」

 なんて失敬! 口を衝いて出た言に、彼女はくすりと笑って、焦る素振りの一つも見せず、「ほんと、失敬仕った」と、爽やかな声色で、柔らかな微笑みを含み乍らそう謝る。それを一瞥した私は少しばかり、複雑な気持になった。

「悪気はないんだよ。ところでお嬢さん、お酒は飲んでいないの?」

 私の前に置かれたグラスをつんつんと突っついて、その人は言う。視線をグラスにれば、乾いた水がグラスの縁に滴って、寂しそうに潤いを輝かせていた。

「私、今日はマスタに、お酒は駄目って言われたの」

 しくしくとそういえば、その人は数瞬の間に理解して、自分の持つショットグラスを私に見せつけるが如く、小刻みに振った。細長い白皙の指がとっても綺麗で、思わず見惚れてしまうの。

「なにが好い?」

 脳裡のうりで色々と迷ったけれど、挙句、とうとう目前の美貌と自分の欲求には抗えず、小さな声でぽつり、「ウヰスキイ」と零してしまえば、その人、素面な顔をして「マスタ、ウヰスキイ」と、凛々しい色の声で淡々と言って、忙しいマスタは目もくれず、彼女の前にウヰスキイの瓶をとん、と置いた。私にはそれが不思議なマヂックの様に見えて、目を丸くしてぱちぱちと瞬きをすることしかできなかった。渋っても出なかった恋しいウヰスキイが、こんなにも簡単に出てくるなんて。

 次いでその人は、ショットグラスにウヰスキイを適量注ぎ、それから私の手前にすっと、差し出してくれる。けれど、そう簡単に手に取るわけにもいかない。

「お勘定は……?」

「気にすることないさ、今日は懐が温かいんだ」

 ほれ、と、その人がもう一度グラスを揺する。頼んだ手前だし、と私も断る由を捻じ曲げて、肖り、ぐびっと一杯、呷ってしまった。これが、拍車のかかった瞬間だった。

 喉許のどもとまでぐっと押し込んだアルコオル。辛いのだけど、癖になって。その人は私の飲みっぷりを見て「おぉ」と感心していた。

「もう一杯、いっておくかい?」

 私がグラスを握ってから、その人はそっと私の許まで躙り寄って、甘美な声で誘う。マスタにばれたら具合が悪いってことは、判っているのだけれど。心に反して、私は熟れた果実が実ったみたいに、頬をぽっとあからめて首肯する。そうしたら、彼女は優しくて、でも蠱惑的に微笑み乍らお酒を注いで、私はまたそれを呷る。次第に酔いが回ってきたら、楽しくなっちゃって、悪い癖が出始める。私からグラスを押し付けて「もう一杯」なんて言ってしまって、彼女はおっかなびっくり「もうそろそろ」なんて言うのだけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る