先生(一)

 池塘春草の夢、なんていうけれど、昨夜——薄明にかけての出来事は、きっと後に青春を振り返っても一番鮮明に思い出すことだと、今振り返っただけで顔がぽっと赧くなる。この思い出は決して悪いものでなく、しかし、背徳感というものを覚える様な、甘美で、優しくて、そして泡が弾けるくらいに、たったの一瞬のことで。これが色濃く、刻印をされたかの様に、それは思い出として脳裡にぐっと焼きついて離れない。

「疲れたろう」

 少し低く、流麗で澄んだ声。それを耳にするだけで擽ったくて、そして安堵する。私、へんなのかしら。

 間近に拝める、その人彼女の娩沢で小さなお顔。ほんと、お豆くらいに小さくて、羨ましくて、街中を歩いていれば、どんな人だって振り向くだろうし、女の人だって簡単に射抜けるわ。私だってそうだもの。それから淑やかな物言い。言遣ことばづかいのいちいちが丁寧で、声も落ち着いているから、まるで子守唄。お目目は鋭いけれど、優しさを孕んでいて、下心のない、清純な目つき。どれを挙げても、その人を形成する要素は一切衆生の平均を優越している。神様だって、お顔合わせを厭がるでしょうね。

 萎れた蒲団ふとんに身二つ。窮屈にお互いが寄り合って無理に収まろうとするから、冬でもないのに、まったく汗をだらだら掻いて、蒲団の中が蒸籠みたいになる。

 その人は私の汗だくではちゃめちゃになった髪を掻き分けて、

「お家には、帰らなくて好いのかい?」

 と、心配をかけてくれるけれど、当の私は帰ることは疎か、この蒲団さえも出たくない一心で「貴女に貪婪どんらんな女は、嫌い?」とまで言う。ああ、下賤になったものね。

「ふふふ。なら、一つ、言わせてもらおうか」

 そういってから、その人は私の全体を包み込む様に、柔らかな抱擁をする。

「死ぬ気で、恋をしてみないか」

 脳裡に電流が流れる様な、刺戟的な言である。私、お家や良人のことを考えると、ちょっぴり波乱な人生を送ってきたと思っているけれど、しかして、たかが廿にじゅう年。こんな言、ひとたびと言われたことは疎か、想像もしたことなくって、僅かに動揺する。良人のことは嫌い。でも、私だって易々やすやす軽薄な女ではないの。

 でも、でもね。

「もし恋をするなら、死ぬ気でしたい」

 ——陽が昇り、早朝五時。夜中はからっきり寝ず、その人と事を致していたものだから、今になってぐっと眠気がやってきて、軈て私は、返事を聞くことなく、彼女の胸の内で熟睡に耽った。

×

 次に起きたのは、ちょうど時計の針が正午を超した時だった。

 いけない、家事をしてないわ! と周章に駆られて上体を起こすと、まったく見知らぬ光景が周囲に広がるもので、数瞬、頭がチンプンカンプンこんがらがる。湿った蒲団、陽差しの好い窓、畳の匂い、四散の原稿、狭隘の部屋。

「おはよう」

 それから、その人。

「さっき朝風呂で銭湯に行ったついで、色々と買い揃えてきたから、それで支度を済ませなさい」

「まあ、迷惑をかけてしまって」

「気にすることはない。なに、お家に帰りたくないと言うのなら、ここに居れば好いから」

 好きなだけ、とその人は足の低い机に向き合い乍らそう付け足す。濶達で瀟洒たる人格に、私はもはや憧憬の眼差しをも抱いていた。最初、バアルで会った時には不穏な影まで垣間見えていたというのに。確かに事は致したけれど、その時だって無茶に乱暴することなく、極めて優しくて、ううんと、そう、愛があった。

 愛——?

 一体全体、どうしてこんなに度量のあるのでしょう?

 疑念半分、情けなさを半分に桶を瞥見。純白のタオルに歯刷子はぶらし、その他雑具に、更には替えの着物までが新調されていて、私はその刹那に、悟った。ようやく、理解した。これは、赤い糸だわ。小学の時分、家庭教師のセンセに言われた、右足の小指にある目に見えない赤い糸が、運命の人と結ばれていて、何れやお嫁に行けるなんていう。小学で夢にみて、中学で嘘と知り、高学で忘却。そして今、そんな迷信が、夢でないことを悟った。しみじみ、真であると痛感した。そう思うと、何故だか胸が高鳴った。ええ、たしかに、運命だわ!

「ありがとう!」

 意気揚々と感謝が口を衝いて、私はその桶を抱え、独りでに嬉しくなって、その場をくるくる回る。急に可笑しくなったみたいに踊りだすから、その人も流石にびっくりして、それから、ほろ苦い笑みを零した。

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