先生(一)
池塘春草の夢、なんていうけれど、昨夜——薄明にかけての出来事は、きっと後に青春を振り返っても一番鮮明に思い出すことだと、今振り返っただけで顔がぽっと赧くなる。この思い出は決して悪いものでなく、しかし、背徳感というものを覚える様な、甘美で、優しくて、そして泡が弾けるくらいに、たったの一瞬のことで。これが色濃く、刻印をされたかの様に、それは思い出として脳裡にぐっと焼きついて離れない。
「疲れたろう」
少し低く、流麗で澄んだ声。それを耳にするだけで擽ったくて、そして安堵する。私、へんなのかしら。
間近に拝める、
萎れた
その人は私の汗だくではちゃめちゃになった髪を掻き分けて、
「お家には、帰らなくて好いのかい?」
と、心配をかけてくれるけれど、当の私は帰ることは疎か、この蒲団さえも出たくない一心で「貴女に
「ふふふ。なら、一つ、言わせてもらおうか」
そういってから、その人は私の全体を包み込む様に、柔らかな抱擁をする。
「死ぬ気で、恋をしてみないか」
脳裡に電流が流れる様な、刺戟的な言である。私、お家や良人のことを考えると、ちょっぴり波乱な人生を送ってきたと思っているけれど、しかして、たかが
でも、でもね。
「もし恋をするなら、死ぬ気でしたい」
——陽が昇り、早朝五時。夜中はからっきり寝ず、その人と事を致していたものだから、今になってぐっと眠気がやってきて、軈て私は、返事を聞くことなく、彼女の胸の内で熟睡に耽った。
×
次に起きたのは、ちょうど時計の針が正午を超した時だった。
いけない、家事をしてないわ! と周章に駆られて上体を起こすと、まったく見知らぬ光景が周囲に広がるもので、数瞬、頭がチンプンカンプンこんがらがる。湿った蒲団、陽差しの好い窓、畳の匂い、四散の原稿、狭隘の部屋。
「おはよう」
それから、その人。
「さっき朝風呂で銭湯に行った
「まあ、迷惑をかけてしまって」
「気にすることはない。なに、お家に帰りたくないと言うのなら、ここに居れば好いから」
好きなだけ、とその人は足の低い机に向き合い乍らそう付け足す。濶達で瀟洒たる人格に、私はもはや憧憬の眼差しをも抱いていた。最初、バアルで会った時には不穏な影まで垣間見えていたというのに。確かに事は致したけれど、その時だって無茶に乱暴することなく、極めて優しくて、ううんと、そう、愛があった。
愛——?
一体全体、どうしてこんなに度量のあるのでしょう?
疑念半分、情けなさを半分に桶を瞥見。純白のタオルに
「ありがとう!」
意気揚々と感謝が口を衝いて、私はその桶を抱え、独りでに嬉しくなって、その場をくるくる回る。急に可笑しくなったみたいに踊りだすから、その人も流石にびっくりして、それから、ほろ苦い笑みを零した。
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