第8話
あの人が、おもむろにガラス戸を開けた。私が肌で感じることは出来ないが、どことなく淀んでいた部屋の中に、侘しさを纏った秋風が入り込んでくるのが分かった。
かさり。背後で小さな音がする。振り向くと、机の上に無造作に置かれた茶封筒がはためいていた。その封筒は、私が〝元〟妻になった日に置いていったものだ。
未だに中身を見ていないあの人は知る由もないだろう。あの中に入っているのが離婚届では無いという事に。
私は封筒から視線を外し、和室の仏壇を見やる。開かれた観音扉の中で、私が穏やかな微笑みを浮かべていた。
1年前に町内会の旅行で草津温泉へ行った時の写真だ。あの時、ちゃんと写真を撮っておいて良かったと心底思う。そうでなければ今頃、いつのものかも分からない昔の写真を遺影に使われるところだった。
あの日、私はあの人の〝元〟妻になった。
寿命というものは本当に突発的に訪れるものらしい。なんとも陳腐な話ではあるが、私がそう実感したのは死んでからだった。あの素晴らしく晴れ渡った門出の日、引っ越し先であるアパートに向かっていた私は、旅行鞄の重さに足を取られて歩道橋の階段を踏み外したらしい。
らしい、と言うのはあまりその瞬間の記憶が無いからだ。とにかくそのまま死んでしまったらしい私は、気が付けばこの住み慣れた家の中に漂っていて、あの人が警察からの電話に相槌を打っている光景を茫然と眺めていた。
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