第9話
本当は、少しだけ意地悪するだけのつもりだった。私はあの人が自分の言った事は決して曲げない人だと分かっていた。だから例え本気で私に離婚をする意思があったとしても、あの日、私に「離婚はせん」とぶっきらぼうに言い放った言葉を必ず守るだろうと確信していたのだ。
封筒の中には離婚届ではなく、旅行会社にこっそりと立てて貰った海外旅行のプラン表が入っている。行先はマルタ。私の居ない生活に耐えきれなくなったあの人が「やっぱり戻って来てくれ。お前が居ないと駄目なんや」と似合わない男泣きをしたきたら「仕方ないわね」なんて笑いながら帰ってきて、そしてどうせ封の開いていない封筒からプラン表を取り出して、あの人に見せつけるつもりだった。
「私たち、まだどこにだって行けるわよね」
そんな私の言葉に、あの人が「当たり前やろ」と返してくれるのを期待しながら。
私たちは1本の木のようだ。どれだけ天に向かって枝を伸ばして行こうと、この足は地中に埋まったままぴくりとも動かない。けれどそれを不自由だと捉えなければ、茂らせてきた葉がいかに美しかったのかを知る事が出来るのかもしれない。
あの人は、いつ封筒の中身に気が付いてくれるだろう。どうか早く、すべてに気が付いてほしい。あの人の覚束ない家事の手付きに、どうしようもないもどかしさを感じている私に。心臓がぐちゃぐちゃに引き千切られてしまいそうなほどに後悔している私に。あの人の傍からずっと離れられないでいる私に。私が居ない日常に少しも慣れてほしくないと思っている私に。言えなかったすべての言葉を、一つも余す事なく伝えたいと願う私に。
「おらんとおらんで寂しいもんやな」
あなたはひっそりと呟く。ふわふわと漂った私は、そっとあなたの隣に寄り添う。どこまでも澄み切った青空の下で、あなたが育てた不器用な優しさが枝を揺らしている。私たちはいつまでも並んでそれを見つめ続ける。安心の中に根を生やした、どこにでもある二本の木のように。
- 完 -
自縛される自由 上條 一音 @ichine_kamijyo
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