籠炎の檻
第1話 灰を踏みしめて、誓う
――生ぬるい風が、頬をやさしく撫でていく。
その風は、どこか血と灰の匂いを孕んでいた。
まぶたの裏がじんわりと赤い。熱。光。――太陽の色。
ゆっくりと、重たいまぶたを持ち上げると、ぼんやりと白い光が目の前に浮かんだ。
布越しに揺れる淡い明かり。天幕。
どこか遠くで、人の声と、何かが燃える音が混じっている。
(……ここは……)
頭の奥がじんじんと痛い。
昨夜の熱が残るような、あるいはもっと深いところが軋んでいる。
喉の奥が焼け付くように乾き、呼吸すら苦しい。
胸がひくつき、息を吸い込むたびに、砂利のような苦味が鼻腔に入り込んでくる。
体を動かそうとした瞬間、腕と足が引っ張られる。
(……縄……?)
思考が現実に追いつかないまま、視線を落とす。
両手首と足首は太い荒縄で縛られていた。
擦れた皮膚がひりつく。
身体は薄い敷物の上に無造作に転がされ、まるで物のようだった。
草の匂いと土の冷たさが、じかに背中へ伝わる。
覚えのない天井。知らない空気。
ここがどこかもわからない。
かすかに、炭がはぜる音。
遠くで馬が嘶く声。
天幕の外のどこかで、兵たちが怒鳴り合っているようだ。
皮膚にまとわりつく汗と、夜明け前の冷気。
遠い戦場の気配。
(……戦いのあと……私、捕まったんだ……)
記憶が、ぶつ切りに胸を貫く。――閃く刃。
荒れ狂う炎の壁。
あの巨体が舞い上がる。
届いた、と思った短剣の感触。
そして――振り下ろされた手刀の感触。
息が止まる瞬間の、あの、冷たい暗闇。
その全てが、今も身体のどこかに残っていた。
喉の奥に、痛みと、惨めなほどの恐怖が張り付いている。
指先が、かすかに震えた。
「起きたか、坊主」
不意に、低い男の声が外から響いた。
厚い布が、ぱたりとめくられ、眩しい朝の日差しが天幕に流れ込む。
一瞬、光が目に痛い。反射的に目を細める。
逆光の中に、影が立っていた。
斬馬刀を背に担ぎ、広い肩と分厚い腕――林黄牙。
昨夜、血の上に立ち尽くしていたあの男が、ゆるやかにこちらを見下ろしている。
黄牙の顔には、どこか気楽そうな薄笑いが浮かんでいた。
日焼けした頬に刻まれた皺が、その表情をより一層意地悪く見せる。
だが、油断のない目は野生獣のように鋭く、獲物を値踏みする冷たさを帯びている。
「おいおい、睨むなって。まだ殺しちゃいねぇだろ?」
低く響く声。
明るさの中に、どこか棘を孕んだ冗談。
玲華は答えず、ただ黙って男を見返す。
呼吸を抑え、震えを悟られぬよう、歯を強く食いしばる。
小さな体の奥から、湧き上がる悔しさが喉を焦がしていた。
黄牙は、こちらの態度を面白がるように、口元に深く笑みを刻む。
「お前、なかなか面白いガキだな。目覚めても吠えねぇ。泣きもわめきもしねぇ……気に入ったぜ」
低く、どこか愉悦を含んだ声が、耳に残る。
その後ろから、ぺたぺたと乾いた草履の音。
青い軽装鎧を纏い、細身の男がのんびりと天幕に入ってくる。
彼の剣には、昨日の血がまだ乾ききらず、僅かに鉄臭い匂いが漂う。
眠たげな目元であくびを噛み殺し、飄々とした様子で、黄牙の背後に立つ。
「おはよう、坊や。生きててなにより。……ね、将軍?」
玲華は一瞬だけ目線をそちらに投げた。
青鎧の男は、それを見逃さず、唇を皮肉げに吊り上げてみせる。
「おやおや。無口なんだ。肝が据わってるのか、声が出ないのか。どっちだろうね」
静かな皮肉に、黄牙が眉を寄せる。
「おい、余計なこと言うな」
顎で男を制す。
声音に微かに苛立ちが混じる。
「こいつは俺の獲物だ。怖がらせんじゃねぇ」
「へいへい、ご主人さまは今日もご機嫌ですねぇ、林将軍」
「……清遊。うるせぇぞ」
「うるさくしてるのは将軍でしょ」
冗談めかした声が、天幕の中に漂う。
清遊は、草履を脱いでその場にぺたりと座り込む。
やる気のなさそうな仕草。
それでいて、隙がない。
玲華は、今の自分の置かれた状況を、改めて噛み締めていた。
両手両足を縛られ、剣も、自由もない。
ただ無力な子供として、敵の本陣の真ん中に転がされている。
負けた悔しさが、喉の奥に塊になって残っていた。
(……あのとき、あと少し……)
首を落とせていれば。倒せていれば。
どれほどのことを、変えられたのか。
けれど現実は、手も足も縛られ、声すらままならない。
無力な自分を噛みしめるしかなかった。
「さて。これからどうするかだが……」
黄牙が頭をがしがしと掻きながら、こちらを一瞥する。
額に刻まれた皺と、眠そうな清遊の背中。
その対比が奇妙だった。
「とりあえず、俺の屋敷に連れてく」
「連れてくって、ガキでも捕虜ですよ。マズいですって」
清遊が、あくび混じりに口を挟む。
「別にこんなガキ一人にウチの大将は文句言わねぇよ」
「でも、林将軍とこのガキが戦ったってのは軍の連中知ってるわけで、俺がここに来たのだって、みんなに様子見てこいって言われたからですよ。興玖のヤツなんて『大将が稚児趣味に走ったぁ』って騒いで」
黄牙の瞳に、一瞬殺気が走る。
清遊は肩をすくめて、言い訳のように手を振る。
「お、俺が言ったんじゃないですってば!そんな目で見ないでくださいよ!」
一瞬、幕舎の中に重苦しい沈黙が落ちた。
林黄牙は、清遊を射抜くような目で睨みつける。
その顔は、普段の粗雑な笑みを消し、鋭い刃のような無感情さと、獲物を観察する狩人の興味がないまぜになっていた。
わずかに吊り上がった口元には、怒りとも嘲りともつかない色がにじむ。
その圧だけで、場の空気が冷たく、緊張したものに変わっていく。
「まあ、いい。馬鹿どもの口はお前が塞いどけ」
玲華を見下ろす黄牙の目は、冷たさと興味の混じった色をしていた。
「雅亮のとこには俺があとで連れてく」
「後でって……本当に大丈夫ですか?街の奴らは皆殺しって命令だったじゃないですか」
「こんな面白いヤツ、殺すのなんて持ったいねぇだろ」
その言葉を聞いた瞬間、玲華の心臓が冷たく縮みあがった。
――皆殺し。
自分の家族も、藍都の人々も、その一言でまとめて「消す」と言い切る残酷さ。
あの夜の、炎に包まれた家と、地に倒れた父と兄の姿が、ふたたび脳裏をよぎる。
――自分のせいで、みんなが殺されたのかもしれない。
もし自分が、あのときもう少し強ければ、誰かひとりでも守れたのかもしれない。
絶望が、喉の奥まで満ちてくる。
それでも――
玲華は唇をきつく噛んだ。
絶対に、このまま終わりにしてやるものか。
自分が生きて捕らわれたのは、きっと復讐を果たすためだ。
必ず、この手で仇を討つ。
父も兄も、家族も、町の人たちも。皆の無念を――自分が晴らす。
清遊は、呆れたような溜息をわざとらしく吐いた。
「まあ、その気持ちはわからなくもないですが、あとでどうなっても知りませんよ」
清遊は、視線を落とし、玲華を見る。
どこかいたずらっぽい、しかし哀れみも混ざったような表情。
「命拾いしたな、坊主。まあ、幸運かどうかはわからないけど」
意味ありげな言葉と、曖昧な笑み。
「さて、坊主。お前、馬に乗れるか?」
玲華は、黙って目を細めた。自分の足にかかる縄の感触。身体の芯が冷たい。
だが心の奥底では、復讐の炎だけが小さく、しかし消えることなく燃え続けている。
「だんまりか」
黄牙は楽しげに嗤う。
「清遊、予定通り、一刻後に撤収する。あとゴミはしっかりと跡形もなく燃やしとけよ」
その言葉に、清遊はすっと表情を引き締める。
今までの軽さが嘘のように消え、無言で膝をつき、頭を下げた。
「承知いたしました」
幕舎の外では、焚き火がぱちぱちと音を立て、遠くで怒号や泣き声が混ざりあって消えていく。
――自分は、この荒涼とした戦場のただなかにいる。
荒縄の食い込む手首の痛み。
乾いた喉。
身体の芯まで染みついた血と煙の匂い。
無力感と、悔しさ。――そして、ここから逃げなければならないという小さな焦り。
そして、どれだけ絶望しても、必ず仇を取る。
その思いだけは絶対に曲げないと、玲華はもう一度、奥歯を噛みしめた。
(……わかってたことだ。ここからが、地獄の始まりだって)
玲華は、幕舎の中に射し込む光の向こうを、静かに睨みつけた。
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