第2話 沈黙のまま、燃えるものを胸に
幕舎の外に引きずり出される――そう覚悟していた。
だが、荒縄で縛られた手足ではまともに歩けず、立ち上がることさえできなかった。
「ちっ、使えねぇな」
黄牙が舌打ちをして、大きな腕を伸ばした。
そのまま玲華の体を軽々と担ぎ上げる。
「っ……!」
広い肩に腹を押しつけられ、視界がぐらりと逆さに傾いた。
血が頭に下がり、こめかみがずきずきと痛む。
食い込む肩の骨が肋に当たり、息をするだけで苦しい。
だが、呻き声を漏らすのは屈辱のようで、歯を食いしばって耐えた。
布をはためかせて外に出た瞬間、焦げ臭さと乾いた灰の匂いが鼻を突いた。
目の前には逆さまの空。白い煙がゆらゆらとたなびき、東の空を朱に染める朝日が、まるで血のように赤かった。
頭を振って視線を落とせば――そこに広がるのは、灰に覆われた藍都の残骸。
瓦礫と焦土。
黒焦げになった梁が折れ曲がり、まだ熱を孕んだ煙があちこちで立ちのぼっている。
人の声も、笑いも、もはやない。
ただ、焼け落ちた家々と、灰色の地面があるだけだった。
(……町が……)
逆さの視界の中で、見慣れたはずの通りが、瓦礫と灰に埋もれていく。
涙は出なかった。
胸の奥が、ただ冷たく乾いていくだけだった。
けれど、縛られた足首が小刻みに震えていることに、自分でも気づいてしまう。
震えるなと必死に自分に言い聞かせる。
こんな奴らに弱い自分なんて見せたくない。
グッと奥歯を噛み締めた。
「坊主、軽いな。骨と皮ばっかりだ」
肩に担いだまま、黄牙が笑う。その声は冗談めかしているのに、どこか獣の息遣いに似ていた。
「そりゃそうですよ、将軍。子供ですからね」
清遊がのんびりとした調子で後ろを歩く。
ぺたぺたと草履が地面を打ち、気の抜けた音が続いた。
「でもまあ、暴れるよりは楽でいいでしょう……おい坊や、気分はどうだ?景色がいつもと違って見えるんじゃないか?」
玲華は答えなかった。
答えたところで、どうなるものでもない。
ただ、胃の奥からこみあげる吐き気を必死に堪え、唇を強く噛みしめた。
通り過ぎる兵たちの視線が突き刺さる。
「あれが例のガキか」
「将軍が担いでるぞ」
――そんなひそひそ声が耳に入る。
まるで珍しい獲物でも眺めるかのように、好奇の色を帯びた視線が集まる。
屈辱で喉の奥が熱くなった。
やがて、一頭の馬が前に引かれてきた。
栗毛の大きな馬。荒い鼻息を吐き、土をかく蹄が力強い。
逆さまの視界にその姿が映り、次の瞬間――黄牙は玲華を乱暴に地面へ下ろした。
どさり、と背中に土の冷たさが広がる。
荒縄で縛られた手足は痺れ、思うように動かない。
清遊がしゃがみ込み、短剣を抜いた。
ひやりと刃が触れ、足首を縛っていた縄が切り落とされる。
自由になった足に血が通い、じんじんとした痛みが遅れて押し寄せてきた。
「足は自由だ。逃げるなら今だぞ」
清遊がにやりと笑う。
「もっとも、三歩走れば将軍の刃に届くけどな」
その言葉に、兵の何人かがくすくすと笑った。
玲華は唇を結び、睨み返す。
逃げる気などなかった。――いや、逃げられなかった。
今はただ、心の奥底で燃える炎を守るしかない。
黄牙が顎をしゃくる。
「乗れ」
馬の腹に手をかけ、震える足で鞍に登ろうとする。
だが縄で擦れた手首が痛み、体を支えるのも苦しい。
もたつく玲華を見て、黄牙がため息をついた。
大きな手で背中を押し、そのままぐいと鞍の上へ放り上げる。
「っ……!」
視界が一気に広がった。
見えたのは――灰の大地。
瓦礫と煤の山。
立ちのぼる煙。
焦げた匂いと、乾いた熱気で喉がひりつく。
風が吹くたび、細かな灰が舞い、まるで死者の囁きのように耳をかすめた。
どこまでも広がるのは、焼け落ちた故郷の残骸だけだった。
(……灰しか残ってない……)
喉の奥がひきつった。
あまりに多くを失いすぎて、泣く力すら残っていない。
黄牙が自分の馬にひらりと跨る。
巨体に似合わぬ軽さだった。
彼は手綱を軽く引き、低く命じる。
「出るぞ」
兵たちの怒号が飛ぶ。
部隊が動き出し、灰に覆われた大地を踏みしめて進軍する。
玲華の馬も引かれるように歩き出した。
耳に届くのは、兵たちの笑い声と、遠くで泣き叫ぶ声。
燃え尽きかけの建物からは、まだ煙がくすぶり、ぱちぱちと音を立てて崩れていく。
焦げた木の破片が風に舞い、肩に落ちた。
指で払い落とすと、灰が指先にまとわりつき、冷たい感触を残した。
(……父上……兄上……)
胸の奥で名を呼ぶ。
答える声は、どこからも返ってこなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
――このまま終わるわけにはいかない。
喉が焼けるように乾いていても、声にできない誓いが胸の奥で熱を帯びる。
この灰を踏みしめて進むたび、その誓いは深く刻まれていった。
清遊が、横目でちらりと玲華を見やった。
「……黙ってる割に、目が死んでないな」
冗談とも本音ともつかぬ口調。
玲華は無視した。
黄牙が前を見据えたまま、低く笑う。
「こいつは面白ぇ。生き残るか、死ぬか……賭けてみるのも悪くねぇ」
兵たちのざわめきの中、玲華は拳を握りしめる。
灰の大地の下で眠る家族に、心の中で誓った。
必ず、仇を討つ。
必ず、この炎を絶やさずに――。
(……絶対に、終わらせない)
焼け落ちた町の上で、誓いだけが玲華を支えていた。
紅き風は空を駆ける 雪野耳子 @yukimimidou
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