第15話(中編)――「国家仏教の大計」

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『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【作品概要・地図】です。

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『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【登場人物】です。

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前書き

午後、杭州ハンジョウ知府ジーフー公邸に突然現れたのは、周帝国を背負う皇帝代理柴俊傑チャイ・ジュンジエであった。彼が求めたのは、日本から渡来した高僧奝然ちょうねん。腐敗しきった儒・道を退け、仏教をもって国を再び束ねるための構想が、いま明かされる。


本文


 午後1時、陽は少し傾き、知府ジーフー公邸の瓦は白銀のように輝いた。槐の葉を渡る風が、庭の水面に微細な皺を刻む。そこへ、周帝国の皇帝代理、柴俊傑チャイ・ジュンジエが、不意の電撃訪問を果たした。近習が門を押し開けるたび、革靴の底が敷石を打つ乾いた音が、奥へ奥へと響いていく。俊宥ジュンユは直ちに応対に出た。


 「俊宥ジュンユよ。無事に務めを果たしておるようだ。ところで、おまえんところに日本から来た仏教の高僧が滞在していると聞いたが。どこにおる。呼んで参れ」と柴俊傑チャイ・ジュンジエは低くもよく通る声で言い放った。


 俊宥ジュンユは私邸に滞在させていた奝然ちょうねんを謁見の間へと招いた。畳まれた几帳が開き、僧衣の麻が擦れる音が淡く響く。皇帝代理の眼は、鋼のように冷たく、しかし政治の炎で冴えていた。彼は仏教を国是に掲げ、腐敗の進んだ道教や儒教の権益と拮抗させるのではなく、むしろ“制度としての清廉”を前面に据えて国家を再編する構想を語ったのである。すなわち、宗教を祈祷の器に留めず、教育・救貧・経済・統治監査へと拡張する大計である。


 構想は具体的であった。第1に、長安チャンアンもしくは洛陽ルオヤンに巨大な大仏を建立し、壮大な伽藍とともに“国家の象徴”を視覚化すること。日本・高麗コリョ・天竺の技術を結集し、巡礼と布教の中心を築く。第2に、仏僧を国家行政へ組み込み、各地で監査官となして不正と汚職を摘発し、税収と救済を透明化すること。第3に、主要寺院の統制と浄化を断行し、国家直属の「仏教院」を設けて指導権を一元化すること。第4に、全国の寺院を学校として開放し、読み書きと仏法、そして道徳を授ける庶民教育の網を張ること。第5に、密教の儀礼をもって皇権の神聖化を支援し、即位や戦勝祈願、国家の危機に臨む護国法要を制度化すること――である。


 やがて柴俊傑チャイ・ジュンジエは、国家仏教政策の運用を奝然ちょうねんに一任した。慎重な沈黙ののち、僧はゆっくりと言葉を置いた。


 「その仕事にはぜひとも優秀な人材が必要です。俊宥ジュンユの側室と側女そばめ合計14名が適任です」と奝然ちょうねんは静かに告げた。


 柴俊傑チャイ・ジュンジエは一瞬、俊宥ジュンユの胸中を思いやり、断ろうとした。しかし、彼はすぐに考えを巡らせる。俊宥ジュンユはすでに独り立ちの段にあること、そして幸い彼女らは皆、子を孕んでいること――ならば、その未来は確かに後ろで守られている、と。結局のところ、国家のために情を断つ決断を下し、奝然ちょうねんの要請を容れたのである。


 配属は速やかに定まった。まず洛陽ルオヤンの白蓮寺には、第一側室の閔蘭姫ミン・ランヒが住職として入る。王侯貴族への仏法指導と宮廷儀礼の総括を担い、白絹の法衣が廊を渡るたび、香気は淡く宮城へと流れるであろう。


 長安チャンアンの大雲寺には、第二側室洪霊香ホン・リョンヒャンが赴任し、密教の秘儀と祈祷を統べる。真言が木魚の律に重なり、都の夜気にゆっくり沁みていくはずである。


 建康チエンカンの青蓮寺には、第三側室金瑞蘭キム・スイラン。ここでは施療院と学び舎を開き、麦粥の湯気と薬草の香りが、日の出とともに門前に立つ子らの列を迎えることになる。


 杭州ハンジョウの天祥寺には、側女そばめの中から4名が共同で入り、僧坊の出納と施薬、商人との連携を束ねる。銅銭が数珠のように掌の上で鳴り、帳簿の黒墨が日ごとに澄んでいくであろう。


 成都セイトの浄慧寺には3名が派遣され、真言と印を学ぶ修行僧の育成に力を注ぐ。松脂の香りが門外に濃く、山風が朝夕の声明を遠く運ぶ。


 揚州ヨウシュウの瑞光寺には3名が着任し、巡礼者の受け入れを整える。水運の町に響く鐘の余韻は、旅装の埃をやさしく落とすであろう。


 そして福州フクシュウの円通寺には1名が入り、写経院と文化事業を司る。薄い雁皮紙に筆がすべり、灯芯の炎が揺れるたび、仏典の黒が永遠の形を得るのである。


 こうして、俊宥ジュンユの側室と側女そばめたちは、仏教国家建設の要として各地の要寺院に散った。事の理は明白であり、制度としては瑕疵がない。だが、理が正しいほど、胸の内に残る熱は冷ましがたい。別れの間、絹の袖は涙でほんのり重く、沈香の香がいっそう濃く感じられた。廊の奥で鈴虫がひとつ鳴き、風が一度だけ簾を揺らした。


 彼女たちにとって、俊宥ジュンユと一生を共にするはずだった日々を畳むことは、身を裂くより辛かったのである。その痛みは、俊宥ジュンユとて同じであった。けれども、別れの涙を飲み干してなお、彼らの歩みは前へ進む。鐘の余韻が消えるころ、江南の空には、澄んだ青がいちだんと広がっていた。


 出立の朝、薄い霞を透かした日輪が、杭州ハンジョウ知府ジーフー公邸の庭に斜めの光を落とした。新緑の梧桐が微かに鳴り、苔を含んだ石畳は夜露を抱いて冷たい。煮炊きの白い湯気と、炒った胡麻の香ばしさが台所から流れ、厩では新しい藁の匂いと馬の体温が混じり合っていた。旅支度を終えた俊宥ジュンユの側室と側女そばめたちは、錦の覆いをかけた行李を背に静かに列を成し、薄い緊張と別離の匂いが、香炉の伽羅に重ねて漂っている。


 第一側室の閔蘭姫ミン・ランヒは、袖口をわずかに握りしめ、真っすぐに俊宥ジュンユを見つめた。「閣下、私たちは必ずこの役目を全うします。しかし、あなたと離れるのがこれほど辛いとは思いませんでした」と言い、涙の光を、毅然さの奥にそっと隠した。


 続けて、第二側室の洪霊香ホン・リョンヒャンが、柔らかな微笑の縁で目を潤ませた。「私たちはあなたと共に生き、共に歩むことが運命だと思っていました。それでも、あなたが選んだ道を信じ、支え続けます」と、香の煙にほどける声で告げる。


 第三側室の金瑞蘭キム・スイランは、背筋を正して口を開いた。「どうか、体を大切にしてください」――短いひと言に、抑えた呼吸と鋭い眼差しが、言外の愛情と悲しみを宿していた。


 列のなかの側女そばめたちも、目元を指で拭いながら、名残の視線を俊宥ジュンユに絡めた。「閣下……どうか私たちを忘れないでください」と、ひとりが震える声で言うと、周りの肩がわずかに震え、その震えは列に伝播して小さな波紋となった。


 俊宥ジュンユは、ひとりずつの顔を確かめるように見渡し、掌をそっと伸ばして、冷えた指を温かな手で包んだ。「私が忘れるはずがない。お前たちがどこにいようと、私の心は常に共にある」と静かに告げると、すすり泣きが胸の底でほどけ、涙の塩が朝風に細く蒸発していった。


 そのとき、砂利を踏む落ち着いた足音が近づき、柴俊傑チャイ・ジュンジエが影を落とした。「俊宥ジュンユ、これもまた、お前の成長の一歩だ。大切なものを手放すことも、時には必要なのだ」と低い声が庭石に響く。続いて、僧衣の麻が擦れる音とともに奝然ちょうねんが一歩前へ進み、「彼女たちの新たな道は、仏の教えを広めることで、あなたが築く世界を支えることになるでしょう。どうか、強くいてください」と穏やかに言葉を添えた。


 俊宥ジュンユは深く息を吸い、朝の冷気と土の匂いを胸に満たしてから、もう一度、別れの顔を見渡した。「皆、必ず幸せになれ。お前たちが築く寺院が、世の人々の光となることを願っている」と告げる。車輪の鉄が軋み、御者が舌を鳴らす短い音が続いた。馬車がゆっくりと動き出し、薄紅の簾が揺れて、別れの手が最後の弧を描く。茘枝を積んだ籠の甘い香りが一陣の風に乗り、遠ざかる車輪の音に溶けていった。


後書き

寺院は単なる祈りの場から、国家を支える学び舎と救済の拠点へと変貌する。その中心に据えられたのは、俊宥が愛した閔蘭姫ミン・ランヒ洪霊香ホン・リョンヒャン金瑞蘭キム・スイラン、そして側女そばめたち。別れの涙と香の匂いの中で、彼女らは新たな道へと旅立ち、俊宥の胸には空白と決意が同時に刻まれていった。

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