第15話(後編)――「廂軍《シャンジュン》の再生」

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『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【作品概要・地図】です。

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『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【登場人物】です。

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前書き

心を裂く別離を経た俊宥ジュンユに、皇帝代理柴俊傑チャイ・ジュンジエは新たな大役を与える。地方軍廂軍シャンジュンの再建である。腐敗と弛緩に沈む兵をどう立て直すのか。俊宥と李慕然リ・ムーランの新しい試練が始まろうとしていた。


本文


 やがて庭に静寂が戻る。俊宥ジュンユは、立ち尽くしたまま、去りゆく背の残像が心に沈むのを感じていた。言葉にならぬ想いが、胸の内で幾重にも重なり、静かに去来していたのである。


 それより前、柴俊傑チャイ・ジュンジエは、皇帝としての決断の代償をひとしずく苦く噛みしめていた。国の枠を立て直すためとはいえ、俊宥ジュンユの側室と側女そばめたちを各地の寺院へ配したことは、彼の背に重く残った。罪責の影が消えぬまま、彼は別の形で未来を補う道を選ぶ。すなわち、地方軍廂軍シャンジュンの改革を、俊宥ジュンユに委ねることである。


 玉座の間は、砥いだ玉石の床が冷えを宿し、龍文の幔幕が微かに鳴った。香炉の沈香は深く、音はすべて澄んでいる。そこで柴俊傑チャイ・ジュンジエは静かに命じた。「お前に廂軍シャンジュンの訓練を任せる」。声は落ち着き、しかし鋼の芯を持って響いた。


 「我が軍は強固でなければならない。北宋が滅んだのは、地方軍を軽視しすぎたからだ。もしも中華統一がなされず、北宋が存続していたならば、遅かれ早かれ後に現れる北方の国により滅びていたことだろう。お前はそうならぬよう、よくよく廂軍シャンジュンを鍛え上げよ」


 俊宥ジュンユは、灯芯の炎に照らされた皇帝の眼差しをじっと受け止めた。「承知しました、陛下」と膝をつき、石の冷たさを膝頭で確かめながら、短くも重い忠誠を置いた。


 命を受け、俊宥ジュンユが向かったのは、杭州ハンジョウ郊外の廂軍シャンジュン駐屯地である。夏草の匂いと、固く乾いた地面の埃が立ちのぼる。訓練場では、粗末な革帯で甲を締めた兵が雑然と並び、槍の穂先は揺れ、弓弦は張りが甘い。汗と油の匂い、木槌の鈍い響き、遠くで家鴨が鳴く声まで混じって、秩序は薄く、規律はまだ匂いになっていない。


 「これが廂軍シャンジュンの現状か…」と、俊宥ジュンユは吐息とともに言葉を落とし、荒地に張るべき筋を心中で引き直した。ここから始めるのである。


 兵の列のなかに、ひときわ目の覚める動きを見せる若者がいた。16歳の李慕然リ・ムーラン。目配せは速く、足取りは迷いがない。市場での騒擾を鎮めた折の胆力も記憶に新しい。


 「李慕然リ・ムーランよ。商人たちの市場での騒動を鎮圧したお前の功績は大きい。良くやった」と俊宥ジュンユは名を呼ぶ。若者は即座に膝をつき、拳を胸に当てた。


 「はい、将軍!」


 「お前を廂軍シャンジュンの小隊長に任じる。これより、杭州ハンジョウの兵を鍛え上げるのだ」


 指名の瞬間、李慕然リ・ムーランの瞳に刃先のような光が走った。燻る火に薪が足される音が、胸の奥で確かに鳴る。「ありがとうございます! 全身全霊をかけて、訓練に励みます!」と、若い声が空に抜けた。


 改革は、朝の冷気とともに始まった。夜明けの粥鍋が湯気を上げ、塩気のきいた沢庵の香りが粗卓に広がる。食を終えると、槍術、弓術、陣形――基礎の基礎を、日が昇って沈むまで叩き込む。李慕然リ・ムーランには、掛け声と秩序の節を担わせ、列の乱れを一拍で正させた。


 「お前たちはただの農民ではない。兵士として戦い、生き残る術を学べ!」と俊宥ジュンユの怒号が鼓膜を震わせ、胸骨に響く。倒れそうな者の脇に、別の腕が差し込まれ、泥の味が口の中に広がる。弓弦が乾いた音で鳴り、矢羽が空を裂く。汗は目尻を刺し、掌の豆は破れて鉄の味を呼んだ。厳しさの中に、少しずつ互いの息が合い、雑然は隊列へ、無秩序は統制へと、汗の塩で線描されていく。


 数ヶ月が過ぎ、空は高く、雲は薄くのびる季節となった。視察に訪れた柴俊傑チャイ・ジュンジエの前に、規律ある兵の列が真っ直ぐに伸びる。槍は同じ角度で陽を返し、弓は合図一拍で放たれ、的の中心に矢羽が集まって白い花を咲かせた。


 「ふむ…」と、柴俊傑チャイ・ジュンジエは満足の色を隠さず頷いた。俊宥ジュンユが一歩進み出て、深く頭を垂れる。


 「陛下、廂軍シャンジュンは、着実に鍛え上げております」


 「よくやった。これで地方軍の力が強化されれば、我が国の守りも盤石となる」と皇帝は応じ、視線を新任の小隊長に移した。


 「お前が新たな指揮官か」


 「はい、陛下!」


 柴俊傑チャイ・ジュンジエは、李慕然リ・ムーランの肩に軽く手を置き、「期待しているぞ」と静かに告げる。その掌の温度は、若い筋肉に確かな重みとして残り、列の端まで伝わる見えない鼓動となった。


 こうして、廂軍シャンジュンの改革は確かな歩幅を得て、地方の土と汗の匂いの中から、国家の骨格を支える力へと育ちつつあったのである。


後書き

汗と泥にまみれた日々の鍛錬の果て、無秩序だった兵は次第に規律を取り戻す。数ヶ月後、柴俊傑チャイ・ジュンジエの視察のもと、槍と弓が一糸乱れずに揃い、兵たちの気迫は大地を震わせた。皇帝代理の「期待しているぞ」という声が、未来の戦の予兆を孕みながら、若き俊宥ジュンユ李慕然リ・ムーランの胸に重く刻まれた。

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