第15話(前編)――「市場に響く若獅子の声」

―――――――――――――――――

『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【作品概要・地図】です。

https://kakuyomu.jp/users/happy-isl/news/16818792439784908680

『忘れられた皇子』(第十三章第15話)【登場人物】です。

https://kakuyomu.jp/users/happy-isl/news/16818792439784971567

―――――――――――――――――


前書き

992年5月27日、杭州ハンジョウの朝。市場を覆う霧が晴れゆく中、俊宥ジュンユは前夜の翠雲楼スイウンロウでの会話を思い返していた。女将白玲珑バイ・リンロンが語った切実な願い──息子李慕然リ・ムーランを科挙に合格させたいという祈り。それを胸に、俊宥は新たな一手を打つ決意を固める。


本文


 992年5月27日午前9時、杭州ハンジョウ知府ジーフー公邸に柔らかな朝靄が降りていた。庭の池は薄く波立ち、睡蓮の葉に残る露が光を弾く。台所からは米を炊く甘い湯気と、刻んだ生姜の香りが漂い、遠く市場の方角では、俵を降ろす鈍い衝突音と、商人たちの抑えた笑いが早くも交じり合っていた。江南地域の軍政長官を務める俊宥ジュンユは、昨夜の妓楼『翠雲楼スイウンロウ』での一幕を思い出していた。女将の白玲珑バイ・リンロンは、息子李慕然リ・ムーランを科挙に合格させることを唯一の慰めとして語った。その声音の奥に沈む孤独と誇りを思い、俊宥ジュンユは、その願いを必ず汲み上げると胸中で誓っていたのである。


 広間の御簾を上げると、磨かれた床面に朝の光が斜めに走った。香炉の白い煙が細くのぼり、薄い伽羅の匂いが部屋を均一に満たす。俊宥ジュンユは若き官吏候補、李慕然リ・ムーランを呼びつけた。


 「李慕然リ・ムーラン、昨夜お前の母君、白玲珑バイ・リンロン殿から素晴らしい策を授かった。その策を今日、市場で実行に移す。お前がこれを率先して行うのだ」と俊宥ジュンユは静かながらも通る声で告げた。


 「はい、閣下!」と李慕然リ・ムーランは即座に答えた。緊張で喉仏が小さく上下したが、瞳には冴えた意志が宿っている。


 そこへ、駆け足の足音が廊下に弾み、砂塵の匂いとともに一人の役人が飛び込んだ。


 「閣下!市場で役人の不正徴収に抗議する商人たちが大騒動を起こしています!」と役人は肩で息をしながら叫んだ。


 「分かった。すぐに向かうぞ」と俊宥ジュンユは立ち上がり、裳裾の絹を払った。薄い衣擦れの音が、決断の合図のように室内に走った。


 市場に出ると、熱気はすでに真昼のそれであった。乾いた土埃が光をにごらせ、魚を捌く生臭さと、胡椒や山椒の刺激的な匂いが鼻腔を刺す。俵を積む掛け声、秤の皿が触れ合う金属音、怒号と嘆きが渦を巻き、一触即発の緊張が大路の上に張り詰めている。


 李慕然リ・ムーランは一歩、二歩と前に出た。足裏に石畳の冷たさを確かめ、胸いっぱいに熱い空気を吸い込むと、腹から声を放った。


 「静まりなさい!今日より税の徴収は市場でなく役所で行う! 正当な税額は既に公示されている。役人が市場で直接徴収するのは不正行為である!」と、李慕然リ・ムーランは明確に言い渡した。


 群衆は潮が引くように静まり、汗に濡れた顔がいっせいにこちらを向いた。秤の揺れが止み、遠くで鳴く鶏の声まで聞こえる。沈黙を破ったのは、白髪まじりの古参商人である。


 「これが真実だ。我々がこれまで徴収された税は、不当であり不正だったのだ!」と古参商人は声を張り上げた。


 堰を切ったように歓声が上がった。掌が打ち鳴らされ、粗布と絹の袖が風をうむ。石臼の回転が再び速くなり、店先の旗が鮮やかな朱を振る。不正を働いた小役人が慌てて人波を割って逃れようとしたが、槍先を揃えた兵士たちが素早く取り囲み、麻縄の軋む音とともに捕らえた。


 俊宥ジュンユは少し離れた酒肆の軒先から、その光景を黙然と見守った。樽の木香と酒粕の甘い匂いが、喧噪の縁でゆるやかに漂っている。


 「よくやった、李慕然リ・ムーラン。君の行動は民を救っただけではない。母上の名誉も取り戻したのだ」と俊宥ジュンユは穏やかに告げ、確かな頷きを与えた。市場には新たな呼吸が満ち、人々の歓喜と感謝の声が空高く輪を描いた。


後書き

市場での騒動を前に、若き李慕然リ・ムーランは母の名誉と民の声を背に立ち上がる。俊宥が示した改革の一歩は確かな実を結び、群衆の怒りは歓喜へと変わった。江南の風は、ただの少年を“新星”へと押し上げつつあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る