第7話
ある日、酒井が担当している商談に川島が同行することになりました。先輩の仕事を間近で見て勉強するための同行です。その日酒井は先方に配布する資料をうっかり社内に置き忘れてきてしまいました。商談のさなかそのことに気づき酒井は慌てましたが、隣からするするとその資料が現れました。川島が横から差し出してきたのです。どうやら万一のために準備しておいてくれたようです。酒井は川島にだけ聞こえるくらいの小さな声で礼を言い、そのまま資料を商談相手に配布しました。おかげで、酒井は不手際を相手方にさとられることなく商談を進めることができました。
商談の後、川島と別れてから、酒井は何の気無しにこんなチャットを彼女に送りました。
「今日はほんとうにありがとう。助かりました」
――こんな感じでよかったのかな?
酒井は確かめるように心のなかでつぶやきました。川島からの返信はありませんでしたが、酒井は特に気にしませんでした。しかし、しばらく時がすぎると、また川島から「また送ってくれなくなりましたよね~」と、職場で不意に声をかけられたのでした。「話題がなくてさ」と酒井が返すと、「なんでもいいんですよ~」と川島が言いました。酒井は、これが今どきの感覚なのだろうか……と思いながらも、今度また何かちょっとした話題を見つけて送ってみようと考えました。
「人はどうして戦争するんだろうね。って、唐突すぎるよね。今、テレビのニュース見てて」
酒井は今自分が関心を寄せている事柄についてチャットを送ってみました。あまりに唐突すぎるかとも思いましたが、チャットを送るように催促しているのは川島の方ですし、今ニュースを見ていて、と付け足すことで自然さを演出しました。
驚くべきことに、酒井が送ったチャットにはすぐに既読マークが付きました。返信もその後すぐ来ました。
「ニュース最近そればっかですよね〜。わたしも知ってますよ〜」
チャットでも語尾を伸ばすのか、と酒井は思いました。酒井は少し、持論を披露してみることにしました。
「僕ね、国と国はさ、何かもめごとがあった際に戦争なんかせずに、勝ち負けはじゃんけんか腕相撲ででも決めたらいいと思うんだ。争っている国同士の代表が集まってさ。その方が平和だと思わない? 勝ち負けもちゃんとつくし」
するとどうでしょう。今度は先ほどと打って変わって、既読がいっこうに付きません。はじめの返信の速さとの落差に、酒井は少々不安になりました。ただ、川島には川島の生活があり、ずっとスマホの画面を睨んでいるわけでもなかろうと考えると、酒井はそれ以上気にすることはなかったのでした。結局、返信があったのは酒井が床につく頃、酒井がチャットを送信してから優に五時間ほどが経っていました。
「おもしろいですね〜それ、今度使ってみます〜」
返信はそれだけでした。酒井はどうも肩透かしにあったような感じがしましたので、チャットはそれきりにして就寝しました。
やはり川島さんはよくわからない、というのが酒井の感想でした。
「酒井さん、聞きましたよ。川島さんに強引にアカウント交換を迫ったって。それから、送ったチャットが既読スルーされてるにも関わらず、次々と執拗にチャットを送り続けてるって」
「え?」
酒井は耳を疑いました。今、耳に入ってきた情報がすべて事実と異なるからでした。
「いやいや、それは違うよ」
酒井は慌てて否定します。言いがかりにもほどがあります。
「それは、誰から聞いたのかな?」
「あのさ、アカウント交換を申し出たのは川島さんの方からだし、チャットも……」
「キモいっす」
しかし、升谷は酒井に最後まで言わせてくれませんでした。言い訳などどうでもよいというように。
キモい……その言葉に酒井は驚きました。自分がその言葉で形容されたことに驚いたのです。自分がキモいかキモくないかなんて、酒井にはどうでもよいことでした。それよりも、仮に酒井のことをそう思っている人がいたとしても、あえて口に出して言われることはないだろうと思っていました。そのような価値もないという意味での――つまり、取るに足りないというか、空気のようなというか、酒井はそういう立場を確立しているつもりでした。しかし、今酒井は確実に、後輩からの忌避の対象になりかけているようです。
「酒井さん、何歳ですか? ずいぶん年、離れてますよね。ロリコンすか?」
ロリコン? キモい? 酒井の感情はいよいよどうにかなりそうでした。そうした言葉をかけられないようにこれまで細心の注意を払って、ふるまってきたのです。反対に言えば、そうした言葉に対する耐性は全く備わっていないのでした。
「升谷くん、僕の話を聞いてくれないか?」
酒井の声は震えました。少々前のめりにならずにはいられませんでした。
「聞く話なんてありませんよ。もう、この会社では、酒井さんのことをキモいと思ってる人が多数派です。今さら、何言っても遅いっす」
酒井がこれまで積み上げてきたものが瓦解していく音が聞こえるようでした。酒井はなにも言い返すことができません。酒井の頭の中はただただ混乱するのでした。
「あ、そういえば、酒井さんがチャットした戦争の話について、川島さんの意見聞いてますよ。意見というか、感想ですね。どーでもい! とのことです」
酒井はそこでひとつのことに気づきました。透明な生き物が出てきていないのです。これまでの経験から、こういった場合は必ず姿を現していたのに、今回は気配すら感じられません。これはまた違う事象ということなのでしょうか。
酒井は今回ばかりは、透明な生き物が姿を現さないことに不安を覚えたのでした。
――自分は本当に下心が無かっただろうか?
酒井は自問しました。思い返してみれば、わずかばかりの下心はあったかもしれないという気がしてきました。アカウント交換を持ち出してきたのは川島です。そして、酒井から何も送らないでいたら、何か送ってくださいよと、チャットを催促してきたのも川島です。川島が酒井に何かしらの好意を持っていると考えるのが自然です。後輩の女の子から好意を持たれて、嬉しくなかったかと言えば、それは嘘になります。何かを期待しなかったかと言えば嘘になります。いいえ、正直なところ、それも自信を持ってそうとは言えませんでした。そんな心持ちがあったような、なかったような、ぼんやりとした感覚があるのみでした。
――でも、仮に心の片隅で何かを期待していたにしても、僕は責められるような悪いことをしただろうか?
酒井の自問は止まらないのでした。
社内的なちょっとした雑務の進め方について川島と打ち合わせをする機会がありました。会議室でふたりきりでしたから、打ち合わせの本題が終わった後、酒井は川島に例のことを聞いてみました。
「今、社内で僕はいくらか腫れ物扱いされているようなんだ。どうやら、その、川島さんとのチャットのことが原因らしい。僕にもきっと落ち度はあったんだと思う。もしそうだとしたら謝るけれど、どうも僕には、どうしてこうなったのかがいまひとつ釈然としないんだ」
「知ってます。まわりから言われますもん。川島さん大変だったね。酒井から変なことされてない? って」
「川島さんは、どう答えてるの?」
「何もないよって。本当に何もされてないから心配しないでって。実際、何もされてないし、不快な思いもしていませんから」
「そう。それを聞いて、ひとまず安心したよ。でも、どうして周りのみんなは……」
「暇つぶしですよ」
川島は、酒井が言い終えるより先にそう言いました。
「暇つぶし?」
酒井は川島の言っていることの意味を分かりかねました。暇つぶし?
「そうです。私のただの暇つぶしです」
「川島さんの?」
酒井は少々会話がすれ違っている感覚に襲われました。主語が違っているように感じました。
――川島さんは何が言いたいのだろう?
「そうです。私は酒井さんからのチャットが本当に欲しいと思っていたので催促しました。でも、酒井さんは特に返信を求めていなさそうだったので、私は返信しませんでした。ただ、それだけです。それだけの暇つぶしです」
さも当たり前のように言われると、不思議なことに言っていることがそうおかしいことではないような気がしてきました。確かに筋は通っています。ですが、やはり違和感は消えません。
「もちろん、こういうことになるかなとは思っていましたよ。……こういうことっていうのは、つまり、周りの人が誤解して酒井さんばかり悪者にされてしまうということです。私も、自分が周りからどういう風に思われているかとか、ちゃんと理解してるので、私の言動によって酒井さんにどんな印象が付くかっていうことは想像できました」
そこで言葉を切った川島は、酒井の方に顔を向けました。どこにも感情がこもらない、中立的な顔でした。そしてひと言あっさりとこう言いました。
「でも、それは私とは関係のないことです」
これはちょっとおかしいかもしれない、と酒井は思いました。
私とは関係のないこと――果たしてそうだろうか、と酒井は首を傾げました。このとき酒井は一歩踏み込んでみようと思いました。普段、酒井はそんなことはしません。しかし、このときばかりは、自分が当事者なのですから、ある程度踏み込む権利があると考えました。
「川島さんはある程度確信があってそうしたのだから、関係ないということはないんじゃないかな?」
「いえ、関係ありません。酒井さんがご自身のことをちゃんと理解していたなら、私とチャットしないという選択肢もあったはずです。そこに、私が関与する義理は無いはずです」
どうしてか、酒井は川島の言っていることもそれなりに筋が通っている気がしてしまいました。それでも拭えない違和感はありますが、それがどこから来ているものなのか、つかむことができずにいるのでした。
「すると、この件は全面的に僕の責任だから、僕自身で何とかしないといけない、ということになるのかな」
「そう考えることも酒井さんの勝手です。私とは関係ありません。どうでもいいことです」
ここにきて、ようやく川島の声色に感情らしいものが宿り始めました。うっすら苛立ちが感じられます。
「あぁ、そうだ、私はそもそも暇つぶしだけで生きてるんです。やることすべて暇つぶしなので。だから、あまり質問しないでください。本当に、それだけなんです。何も考えていないんです」
わからない――と酒井は思いました。川島の考えていることが、全然わかりませんでした。酒井の目からは、川島が「自分とは関係ない」「行動原理はいつも暇つぶし」という理屈だけですべてを片付けようとしているように思えました。酒井と双方向的な対話を行う気などさらさら無いように思えました。
酒井はこの話をどこからどう手繰っていけばよいか全く見当がつかなくなっていました。酒井の思考はこの時、決定的に停止しました。
酒井はそのとき、両目の焦点を調節し、酒井から見て川島のちょうど向こう側にある古びたプロジェクターと、川島の白く光るようなうなじとに交互に焦点を合わせようとしました。カメラレンズの絞りを調節するように。しかし、いつものようにはうまくいきません。目の焦点はそのどちらにもピタリと合うことなく、視界全体がぼやけるばかりなのでした
そのとき、透明な生き物が現れました。それも、一匹や二匹ではありません。壁、床、天井と、会議室の空間にびっしりとその小さな体躯を這わせているのでした。それは、現れたというよりは、もともとそこにいたものが急に見えるようになったと言ったほうが、このとき酒井が持った感覚に近いのでした。
そして、おびただしい数の透明な生き物たちは、突如、耳をつんざくようなきんきんした鳴き声を上げ、おそらくそのまま息絶えました。それらは、もうぴくりとも動かなくなりました。酒井は世の中の変調と、世の中と酒井との関係に起こる変調を知るすべを失ったのかもしれません。あるいは、これこそがまさしく酒井をとりまくあらゆることの変調の極みなのかもしれません。
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