第6話
酒井は老婆に向かい合って座りました。老婆はジャラジャラと様々な装飾小物を、髪に、耳に、首に、腕に、その他全身のあらゆるところに身につけているのでした。この状態で外を歩いたならば周囲の環境から決定的に浮いてしまうでしょうが、老婆の様子は、この部屋には、この部屋のみには、恐ろしくマッチしていました。
「何かお悩み?」
口を開けずにいる酒井に、老婆が問いかけました。
酒井がどう話したものかと考えあぐねていると、それを緊張と取ったのか、老婆が言いました。
「まずは自己紹介してリラックスしましょう。わたしからいきますわ。わたしは人生相談師の
酒井はごくりとひとつ唾を飲み込んでから、ようやく口を開きました。
「僕は、酒井といいます。一介の会社員です」
酒井は手短かな自己紹介の後、光子に件の透明な生き物のことを話しました。すると、光子は何もかもあらかじめ分かっていたというふうに、何度も何度も首を縦にふって頷きました。
「やはりその件でしたか。あぁ、そうでしょう。そうでしょうとも。最近ご相談に来られる方は揃ってその件を持ってこられます。とくに若い方です。ちょうど、あなたくらいの」
酒井はもうすぐ四十です。若いと形容されたことにやや違和感を抱きつつも、眼の前の光子からすれば酒井はたしかに若いに違いないとも思い、老若の感覚の奥深さに思いを馳せるのでした。そこで酒井は自らの思考が逸脱していることにはたと気づき、頭を人生相談に戻しました。
「僕だけじゃないんですね。それは安心しました」
「えぇ、それはもう、うじゃうじゃ来ますよ。あらやだ、お客様にうじゃうじゃだなんて、言うものじゃないですわね。ごめんなさいね、つい。本当に最近増えたものですから。そのおかげでわたし、繁盛してるんですわよ。空前絶後の大繁盛。ふふふ」
光子は節くれだった指でジャラジャラと机上の様々な小物をいじりました。ビー玉、おはじき、勾玉といったものです。
「でも、僕の周りでは聞かないですね。みんな、隠しているということでしょうか……」
「あなただって、わたしに話すのが初めてではありませんの?」
たしかにそうでした。どうしてそのことに気付かなかったのでしょうか。皆が酒井のように自分だけで抱え込んでしまっているのなら、お互いが同じように透明な生き物を見ていたとしても、お互いそのことを知りようがないのです。
「でもね、これが、見えない人には見えないみたいですの。不思議ですわ。なにせ、このわたしが見えていないんですから。なんだかこのあいだ流行っていた風邪みたいです。そう、人によって味覚障害が出たり出なかったり、重症化したり軽症で済んだり、治癒しても後遺症に悩まされたり、治癒すればきれいさっぱり元通りになったり……あぁ、まったく摩訶不思議なウイルスでしたわ」
光子は話しながらどこか楽しそうです。光子の舌はすらすらと驚くほど速く回りました。きっと同じような話を何人もの人にしてきたのでしょう。空前絶後の大繁盛。光子は透明な生き物のおかげで、波にのって好調なのでした。
「この透明な生き物はですね、その点が酷似しています。見える人と見えない人がいるだけではなく、見えている人たちの中でも見えている生き物の姿は異なっているようですのよ」
「姿が異なる? そうなんですか?」
「ええ、そうなのです。そのようなのです。大きな奇怪な虫のように気色の悪い姿を見ている人もいれば、可愛らしい子犬ちゃんのようでむしろ出てきてくれてありがとうっておっしゃる人もいますのよ。ちなみに、酒井さんはどんな生き物が見えてらっしゃるの?」
「ええと、大きさは子猫くらいで、身体つきはどちらかというと爬虫類のようで……」
「あらやだ。可もなく不可もなくという感じですわね。まるで、酒井さんみたいに」
酒井は虚をつかれたように黙りました。光子は悪びれる様子を一切見せず笑っています。自分で言っていてツボに入った様子で、なかなか笑い終わりません。どうやら、光子にとっては傑作のギャグだったようです。
酒井は仕方なく、光子が笑い終わるのを待たずに口を開きました。
「でも、どうして風邪ウイルスの流行後にこの生き物たちの様子が変わったんでしょう? なにか因果関係はあるのでしょうか」
すると光子の笑いがぴたりと止みました。急に訪れた沈黙と光子の醸すただならぬ気配を目にして、酒井は背筋に悪寒を感じました。
「今、何ておっしゃいました?」
光子の声がオクターブ低くなりました。
「生き物たちの様子が変わった……と、そうおっしゃいましたか? すると、風邪ウイルス流行より前から、あなたには生き物たちの姿が見えていたと?」
酒井は何か責められているようで、どうもばつが悪い気がしました。
「いえ、すみません。脅かすつもりはなかったのよ。ただ、前から見えていたというのは、あなたが初めてだったものですから」
「そうなんですか……」
酒井はそれの意味することが分かりませんでした。生き物の姿を以前より認知していたのが酒井だけだったとして、それがいったい何を意味するのでしょう。
「あらやだ、黙っちゃって。そんなに怯えなさらなくてもいいですわよ。正直なところ、わたしにも何が何だかわかりませんの。以前からいたけれど、ごく一部の人間しか気付いていなかったということも考えられますわ。その意味については、わたしも分かりませんけれど。なにせ、わたしには見えていないんですもの」
そして、光子は最後に、おほほと乾いた笑いをつけ加えました。
「ただ、ひとつわたしから言えることがあるとすれば、これはウイルス感染の後遺症とか、そういう話じゃありません。ウイルス感染、いいえ、パンデミックはきっかけに過ぎませんわ。それで変容したのは人々の健康ではなく、心ですのよ。わたしは人生相談師――人の心も専門領域の範疇ですから、わかりますの。これは医学の問題でも生物学の問題でもなく、社会学、人文学における出来事ですことよ。わたしはそう見ています。もちろん人の心は医学、生物学とも密接に関わってはいますけれど、ここではあくまで主因がどこにあるかということですわ」
何々学とか、専門がどうとか、主因が何かとか、そんなことは酒井にとってどうでもいいことでした。酒井はただ、解決策を知りたかったのです。
「それで、僕はどうしたらいいのでしょうか?」
「わかりませんわ」
そこで、人生相談は終わりました。なんでも、光子曰く、人生相談は短時間の対話を繰り返すのがいいのだそうです。
一回分の料金は五百円と、とても安価でした。
「何か送ってくださいよ〜」
酒井は、コンビニでコーヒーを買ってきて、ちょうど自席に戻ったところでした。昼休みです。昼ご飯は、出勤時にコンビニに寄って買ったおにぎりと菓子パンで済ませましたが、舌と喉が食後のコーヒーを無性に欲しがるので、コンビニに買いに出ていたのでした。
酒井の席の近くを通りがかりに川島が声をかけてきたのです。耳打ちするように、小さな声で。
酒井ははじめ、何のことかわからず考え込みました。
――送る? 郵送物か、それともe-mailか?
しかし、そんな酒井の様子を見て川島はクスッと控えめな笑みを漏らし、ポケットから自身のスマホを取り出してみせました。そこでようやく、酒井は川島の言葉の意味がわかりました。
「ああ、チャットね」
「そうです〜。忘れてたんですか〜」
「ごめんね。僕、あまりチャットやらないから」
「ただの挨拶でもいいんで、何か送ってください〜」
「う〜ん、でも、何を送ればいいだろう? 話題が思いつかないな」
酒井は間の抜けた笑いを川島に送って、困惑を伝えました。
「何でもいいんですよ〜。それこそ、今日の天気の話とかでもいいんです〜」
「天気? まあ、それなら送れなくもないけど……」
酒井は川島の意図をわかりかねましたが、まあそういうものなのだろうと思い、今度何か短い時候の挨拶でも送ってみようと思いました。後輩に何もないのにチャットを送ることには抵抗がありましたが、相手から求めてきているのだから構わないだろうと考えたのです。しかし、結局酒井は、またチャットを送ることを忘れてしまうのでした。
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