最終話
光子は酒井の顔を見ると大げさに相好をくずし、たちまち満面の笑みを浮かべて、ジャラジャラと色々な小物が付いた手をふりました。
「ぼうや、久しぶり。元気してらした?」
ぼうやと呼ばれて酒井は面食らいましたが、特にそこに触れることはせず、愛想笑いと小さな会釈をして、光子の正面の椅子に腰掛けました。
「それで、今日は何かしら。透明な生き物の件でご相談に来られた方で、リピーターさんはぼうやだけですわよ」
「そうなんですか?」
酒井は、「自分だけ」という事実が提示されるごとに不安を感じました。自分だけが社会のスタンダードから外れていくような感覚に襲われました。
「ええ。透明な生き物は、言ってしまえば実害はありませんから、皆さん一度ここでわたしに吐き出してしまえば、あとはつつがなく共存していらっしゃるのかと、想像していますわ。その他の人生相談――職場の人間関係だとか、夫婦の不仲だとか、そういったことのほうが、よほど込み入っていてやっかいですから」
酒井が先日目の当たりにした、透明な生き物の断末魔は、到底「つつがなく」などとは言えないものでした。酒井はそのことを話しました。
「あらまぁ。それは、剣呑ですこと。ぼうやは順応できなかったんですわね。或いは、透明な生き物の方がぼうやに順応できなかったのか……いずれにせよ、多くの方々が共存の道を歩み始めた透明な生き物に、ぼうやは敵意を向けられてしまったのかもしれません」
酒井は頭が痛くなってきました。こんな得体の知れない生物がどうのというような、つかみどころのない話ではなく、精神の病や、脳の発達上の問題を指摘されたほうがまだ幾分マシに思えました。酒井はどう理解していいかわかりませんでした。
「あの……、僕はこのことを、どう受け止めればいいでしょう?」
「どうか、ご自身の身を守ってください」
「身を……守る?」
「そうです。わたしが今から言うことを、どうか悲観なさらずに聞いてくださいね」
光子は神妙な顔をしました。光子があまりの神妙さを表すので、酒井はここはいい加減な気持ちで聞いてはならないと、背筋を伸ばし、肩に力を入れて身構えました。
「ぼうやは取り憑かれてしまったのだと、わたしは見ていますわ。災禍後生物に」
「さいかご生物?」
「ええ。災いという意味の災禍、その後に現れる生物という意味で、災禍後生物です。わたし独自の呼び名ですけれど。呼び名なんてどうでもいいですの。大切なのは、社会全体を巻き込むような災いの後には、何かしらのそういうヘンテコな生物が必ず現れるということ。見える人にしか見えないし、見える人の間でも、見えている生物の姿がちょっとずつ違う。摩訶不思議な生物ですわ。じわじわと人間を蝕んでいく。どのような人に災禍後生物が見え、どのような人がその影響を受けやすいかは、わたしもまだ正確には把握していませんが、おそらく、ひとつには感受性の高さだと思っていますわ」
酒井は、いよいよ不安になってきました。
「取り憑かれると、どうなるんですか?」
「わかりませんわ。先の大地震の後にも、相談に来られた方の中に幾名か災禍後生物に取り憑かれたご様子の方がいらっしゃいましたが、いかんせんリピート率が悪いもので、経過を追えていないんです」
「そうですか……」
「ただ……ご用心なさってください。ぼうやはせっかく二度も私を頼っていらしてくれた。できることなら、無事、乗り切ってほしいのです」
そう言われても、酒井はどうしていいか分かりませんでした。
「嫌な予感がしますの」
光子はそう言ったきり、少しの間、口をつぐみました。光子と酒井が無言で正面から見つめ合います。そこには奇妙な緊張感がありました。酒井は話の続きを辛抱強く待ちました。そして、とうとう待ちきれずに「嫌な予感とは何ですか?」と、質問しようとしたとき、ようやく光子は口を開きました。
「ぼうやが見ている透明な生き物は、どこか危険な匂いがしますわ。もっとも、ほとんどの方々にとってこの透明な生き物は実害が無いようですから、この生き物たちが、例えば人類の生活を揺るがすようなことはないと思いますの。けれど、ぼうやから聞く透明な生き物の近頃見せている不穏な動きは、致命的でこそないけれど、内面からじわじわと消耗させていくような、悪意を感じますわ」
二回目の人生相談はそこで終わりました。
――この世界では、いたるところで常に何かが起こっている。しかし、同時に常に何も起こっていない。
酒井はぼんやりとそんなことを考えていました。しかし、少なくとも酒井自身においては、何かが確実に変わろうとしていました。
酒井は電車の吊り革につかまっていた。車窓を通してぼんやりと、両目の焦点を調節しながら、薄い灰色の空と、車窓の外側に付いた水滴とを交互に見ている。まるで、カメラレンズの絞りを調節するように。
雨が降っている。
特徴のない雨だ。激しく降りしきるわけでもなく、傘を差さなくてもいいようなぽつりぽつりという雨でもなく。
普通の雨だ。
しかし、今酒井が見ている薄い灰色の空のはるか向こうの空に、黒黒と不気味な影が見える。ゆっくり、しかし確実にこちらに近づいてくる。
「あんた。……おい、聞いてんのか、あんた!」
ぼんやりと立っていた酒井は、正面の座席に座る男の発言が自分に向けられたものだとははじめ思わなかった。したがって、反応がワンテンポ遅れる。
酒井はとっさに頭を下げ、「すみません」と掠れた声を出した。突然のことに驚いて、うまく声を出せなかった。
「すみませんじゃねぇだろ。あんた、アレか? オレらに喧嘩売ってんか?」
「えっと、どういうことですか? 僕、何かしましたでしょうか?」
男に凄まれて萎縮しながらも、いったいこの男は何を言っているのだろうと酒井は首を傾げる。「オレら」という表現も引っかかった。いったい誰々のことを指しているのか。
すると、酒井の左側に立つ男が、酒井の肩をつんつんとつついた。酒井がそちらに顔を向けると、男は無言で自身の口元を指で示した。白いマスクが顔の下半分を覆っている。
そこでようやく酒井はひとつのことに思い当たった。首を回して車両内を見渡す。乗客が全員、マスクを着用している。
酒井は事態を把握し慌てた。
「ふん、なんだよ。うっかりさんか。いいけどよ、ちょっとあんたら、お気楽過ぎねぇか? パンデミックはまだ続いてんだよ。ひとつのウイルスがちょっとおとなしくなったからってさ、油断してんじゃねえよ!」
酒井が乗り込んだ車両は『マスク着用者専用車両』だった。パンデミックの収束後、設置された車両。風邪ウイルスの大流行がひとまず落ち着きを見せた後も、感染予防の重要性を学んだ人々の中から、平時からマスクを着用することが重要と考える人が出てきた。そういった人々の意見を尊重して設置された車両だ。
酒井は乗客をかき分けながら、車両間の接続部の扉へ向けて進んだ。その間、方々から舌打ちやひそひそ話が聞こえてきた。
こんなことは酒井にしては珍しいことだった。酒井はもちろんマスク着用者専用車両のことは知っていたし、電車内がトラブルの魔窟であることは酒井が最もよく知り、これまでそれら他人のトラブルに巻き込まれないことはもちろん、自分がトラブルの当事者になることだけは絶対に無いよう、いつも細心の注意を払ってきたのだ。それは一度たりともブレたことが無い。しかし、今回は自分が他の乗客の迷惑になる行為をしていた。それは、酒井自身、信じられない驚きだった。
――僕は、人生相談師が言うように、あの生き物に取り憑かれてしまったのだろうか。
酒井にとってこれは決定的だった。外的な環境の変化はまだ受け入れられる、というより受け入れるしかない。外的な要因は自分でどうにかなるものではないから、自身のふるまいを調整することによってやり過ごすしかない、それが酒井の基本的な考え方だ。しかし、今、確実に自身の中に変化が生じ始めている、それも自分が感知しないうちに着々と進行している。それは、酒井にとって非常に由々しき事態だった。自分自身までも、自分の力でどうにもならないのなら、酒井はどのようにして安寧な日常を維持すればよいのか。
周囲から浴びせられる舌打ちやひそひそ声に耐えられず、結局酒井は電車を降りることにした。
――何がどうなってしまったんだろう。僕は何もしていないのに、僕の周囲のあらゆる物事が悪い方向に向かっている。やはり、あの風邪ウイルスの流行が何かを狂わせてしまったのだろうか。だとしたら、それは何だ? 全く実態がつかめない。
酒井は駅のホームに立っていた。安全のために引かれた線を踏み越え、線路の際に立っていることに、酒井は気付いていない。ホームドアが設置されていない駅だった。特急電車通過のアナウンスがホームに鳴り響く。そのとき、透明な生き物が酒井の背後に現れた。
酒井はもうその気配を感じることはできなかった。
〈了〉
酒井デス。困ってマス。 桐沢もい @kutsu_kakato
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