第5話

「どうだい? 社会人生活は」

 宴もそろそろいい具合になってきたところで、いつの間にか母が隣に座っていました。好物のエビをせせりながら、目の端っこで酒井をちらりと見るようにして言います。酒井は社会人生活について特に報告すべきことを持ち合わせておらず、なかなか答えられずにいると、母が続けました。

「お前は子どもんときはほんと感受性が高くて、ちょっとしたことで泣いたり怒ったり、そりゃあ周りも大変だったよ。あるときから、フッとおとなしくなったけどさ」

「それ、何度も聞いてもう耳タコだよ。僕は物心ついた頃から今の性格だったから、今でも信じられない」

 すると、母はあまり見せない神妙な表情を浮かべて言いました。

「まあ、これは初めて言う母さんの考えだけどな。反動だったんじゃないかって、思ってんだ。感受性が強すぎるあまりお前の心が疲れちまって、その反動で心に厚い壁作っちまったんじゃないかって。それでおとなしくなっちまったんじゃないかって。だとしたら、母さんたちがもっとはやく気づいてやれたら、もっとこう、快活なまま……」

「いやいや」

酒井は母の言葉を遮るように口を開きました。母が責任を感じる必要はないと思うからです。

「そんなことはないと思うよ。少なくとも、そんな自覚はないよ。きっとただはやく大人になっただけだよ」

 酒井は言いながら、母の言うことも一理あるのかもしれないと思っていました。適切な時期に、適切なケアをほどこしていれば、酒井は母の言う高い感受性を今も外へ向けて表現していたかもしれません。それでも、酒井が今のようになったことは誰のせいでもありませんし、おとなしいことも特に悪いことではないと酒井は思っていました。今の性格だから、無難で平穏な日々をおくれているのですから――少なくとも、少し前までは。

「それならいいけど、社会人はもっと辛いこと多いから大丈夫だろうかって、ちょっと心配してんだ。どれだけ大人になったとはいえ、お前のもともとの心は、優しくて弱いと思うからさ」

 酒井はこのときふとあの透明な生き物のことを思い出しました。あれが見えるのは、自分のこの内面の特異性に関係しているのだろうかと想像しました。そして、酒井のようにあれが見えている人が他にいるのかどうか、ここのところ酒井は気になり始めていました。しかし、これは軽々しく聞けるものではありません。頭がおかしくなったと思われては、これまで丹念に積み上げてきた印象が崩れてしまうかもしれないですから。


 酒井は帰省のついでに、ひとりの友人に会っていくことにしました。酒井にはひとり、高校時代から仲良くしている友人がいました。

 酒井は友人をあまり多く持たないタイプですが、彼とは長年にわたって付き合いがありました。

「俺、今不倫してんだ」

「え?」

 会って早々、彼は言いました。

「フリンだよ。フ・リ・ン! ま、結婚もしてねぇお前にはよくわかんねぇか」

 彼は口の片側の端だけで笑うような嫌な笑い方をしました。酒井は彼がこんなふうに笑ったのを初めて見ました。彼はどうしてこんなことを言うんだろうと、酒井は思いました。不倫を頭から否定する気はありません。というより、こういうことは個別的な事情であって外野が何かを言えるものではないと、酒井は考えます。言える責任はないと言い換えることもできます。否定したところで、酒井には何の責任も負うことができませんから。要は、他人のことにそこまでの関心はないのです。

 彼は仮に不倫をしていても、それを友人に言うようなタイプではなかったように思います。彼は特に聖人君子でもなければ、大悪漢というわけでもなく、良いこともすれば、そりゃあ多少の悪いこともする、こう言ってはなんですが、どこにでもいる普通の男でした。多少の悪事を働いたところで、それを自慢気に語ることなければ、真剣に打ち明けて懺悔をすることもなく、ただしれっと、誰に語るでもなく無かったことにするようなタイプでした。

 何か、彼の性質を変える出来事があったのでしょうか。彼が不倫していることよりも、酒井はそっちのほうが心配なのでした。

「相手も家庭持ちでさ」

 彼は聞いてもいないのに話を進めました。

「お互い家庭を壊すつもりはないんだけど、心は繋がってるっていうかさ」

 そのときです。こちらを向いた彼の顔に、あの透明な生き物がしがみつくような格好で現れたのです。彼は気づいていないようです。彼は透明な生き物が見えない側の人間なのです。透明な生き物は、ふり向くように首だけをぐっと酒井の方へ曲げて、今回は明らかに酒井を睨みつけています。この生き物から敵意らしいものを感じたのはこれが初めてでした。酒井は怖気おぞけを感じました。背筋に何か嫌な感覚が走りました。

 このときはじめて、酒井はこの生き物を何とかしなければならないと思いました。これを放置していてはいけない。さもなくば、殺される――酒井は本気でそう思いました。


「相談乗ります……?」

 酒井は街角でぽつねんと立っていました。冷たい風が地上に吹きつける冬の午後でした。パーカーの上にもこもこしたダウンコートをはおり、チノパンの上にウィンドブレーカーズボンを重ねて穿いていました。まるで熊のようです。それほど気候は冷え込んでいたのです。

 酒井は、コンクリート壁に乱暴に貼られた広告を読み上げていました。

「人生相談歴五十年のベテラン人生相談師があなたの悩みを解き放ちます」

――人生相談師?

 酒井は聞き慣れない言葉に首を傾げました。ただ、最後の売り文句が酒井を引きつけて離しませんでした。

「超常現象や怪奇が得意。見えちゃった人、まずは相談を。放っておくと大変なことになります」

 ニッチだな……と酒井は乾いた笑いを浮かべました。そして、とてもいかがわしいと感じました。しかし、今の酒井にはピタリと当てはまる領域でもあり、酒井はどうしてもこの人生相談師が気になって仕方がありませんでした。

 広告の右下の隅に、それだけではとうていたどり着けそうにない、子どもの落書きのような地図が付されていました。酒井はそれをスマホのカメラでパシャリと撮影し、それを頼りに行ってみることにしました。

 道すがら、酒井はすれ違う人たちの視線が気になりました。何かやましいことがあるわけではありませんが、こんなところに行っては最後、何かよからぬ沼のような状態から抜け出せなくなってしまうのではないかという不安が、自分がまわりの人たちから取り残されてしまうのではないかという恐怖が、酒井をいつになく神経質にさせるのでした。

 酒井は地図の指し示す場所あたりに到着しましたが、そこには大きな高架と、その周りに資材置き場や、用途が定まっていないとみられる空き地、小さな公園などがあるのみで、それらしい建物は見当たりません。

 酒井は地図をもう一度確認しました。おそらく高架を表していると思われる線に、おそらく目的地を表していると思われる星マークが重なっています。地図の縮尺に比して星マークが大きすぎるので、正確な位置を知れないのです。酒井は、高架下を見てみることにしました。

 高架下に入ると、そこはどんよりとした空気で満たされていました。壁に小ぶりな扉がひとつあります。お粗末すぎる地図でははっきりとこことは言い切れませんが、周辺を見回してみても他にそれらしい場所はなく、ここの可能性が高そうです。

 酒井は扉の前に立ちました。ずいぶんと傷んだ木製の扉で、一部朽ちて浅黒くなっているところがあります。そして、どこか異様な空気を放つ扉です。何かの“気”をまとっているような感じがします。それが高架下の壁にポツンとあるひとつの扉という、特異なシチュエーションから来るものなのか、それともその扉そのものに起因するものなのかはわかりませんでした。扉には金属製のノブがついています。酒井はそれをつかみ、軽く回して扉を引いてみました。すると、扉はギィギィと音を鳴らして開きました。

 扉の先には短い階段がありました。階段を上った先はつきあたりになっていて、通路が右に折れているようです。そこに「人生相談師」と書かれた看板が立っています。どうやら、ここで間違いないようです。

 酒井はその空間がもつ独特の雰囲気にまず気後れをおこしそうになりました。階段に沿うようにして壁棚が設置されており、そこには様々な異国風の置物が飾られています。薄暗い照明がそれら置物の影をあたりの壁に投影し、不気味な雰囲気を醸しています。足を踏み入れたら最後、もう後戻りはできないというような気配がします。

 酒井はしかし、勇気をふり起こして足を前に踏み出しました。あの透明な生き物から感じられた敵意の方が酒井にとっては幾倍も恐ろしかったのです。

階段を上って看板の前を右へ折れました。すると、そこには小さな部屋がありました。階段の壁棚の何倍もの数の異国風の置物が乱雑に配置され、その周囲にはビー玉やおはじきの類、また勾玉やミサンガのようなものが多数散らばっています。それは、そういう雰囲気を出すための安っぽい演出にも見えましたし、それそのものが何かのまじないに欠かせない“場”のようにも見えました。

 それら様々な物の山の向こうに小ぶりな机があり、老婆がこちらを向いて座っているのでした。

「いらっしゃい。あらやだ、かわいいお客さんだこと」

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