第4話

 酒井は川島とアカウント交換をした日、「よろしくお願いします」と挨拶を送りあいました。これは、アカウント交換を行った際の通過儀礼のようなものです。そして、その後は特にやり取りは行いませんでした。酒井は、川島の言った通り、業務上必要な場合にのみ活用するつもりでした。そもそも酒井は誰かとチャットをすることに慣れていませんでしたから。まして後輩とチャットするなんて、まったく要領がわからないのです。

 そのまま何もやり取りすることなく月日が経過し、酒井は川島とアカウント交換をしたことさえ記憶の彼方へ失いかけていました。

 そんな折、酒井は、会社の空気の微妙な変化を感じていました。社員たちが酒井に対して、以前に比べてわずかによそよそしくなったような……しかし、それは気のせいかもしれないと思える程度のものでした。ちょうど、件の風邪ウイルス流行前後で社会の空気が微妙に変化したように感じるのと同じ感覚でした。

 しかしこのときは、もしかすると酒井自身の内面に何らかの変化が生じていて、そのせいで本当は何も変わっていない周りの空気に変化を感じているのかもしれないと、そんな推測も酒井の頭の中で持ち上がりました。そのことについて、酒井は頭をひねってみましたが、心当たりはありませんでした。酒井の内面が動くような出来事は特に無かったように思えました。しかし、何故か、酒井は考えれば考えるほど、この変化が酒井の内面から来ているような気がしてならないのでした。

 すると酒井はまた透明な生き物の存在を感じました。一匹ではありません。複数匹が、酒井の背に腹に首に、そして頭の上にもぞもぞと身をよじらせているのです。酒井はこそばゆくて、身をぶるぶると震わせました。

「酒井、まさかちびっちゃったのか?」

 マネージャーが黄色い歯を覗かせてにやりと笑います。彼は周囲のちょっとした動きを目ざとく見つけては、このようにちょっかいをかけてきます。要するに、暇なのです。出た腹に片手を添え、いつも椅子の背もたれにふんぞり返るようにして座り、ろくに仕事なんてしていません。

 こういうとき、いつもなら誰からともなく場の空気を和らげる言葉が投げかけられるのですが、このときは誰も何も発言しませんでした。皆が我関せずといった風に澄ました顔でパソコンから視線を外しません。酒井も何か発言するタイミングを逃してしまいました。周囲から何の反応も得られないマネージャーの顔には、次第に不機嫌の色が滲み始めます。

 酒井は場の空気に耐えられず、いったん席を立つことにしました。酒井が座席を離れると背後から、「はっは! やっぱりだ。あいつ、トイレ行くんだぜ」と、マネージャーの聞き苦しい濁声だみごえが聞こえてきました。


 酒井はトイレの個室の中で突っ立っていました。腕を組み、天を仰ぎ、考えを巡らせます。用を足しにトイレに来たのではないのですから、ズボンと下着を下ろし、便座に腰掛ける必要はありません。

 酒井は困っていました。何故なら、これまで酒井は、周囲の空気に溶け込むことで面倒事を被らずにうまくやってこれていたのに、ここのところそこに微かな綻びが生まれつつあるのを感じていたからです。“空気”の微妙な変調とでもいうものが起こっているようで、そのせいで、酒井は微妙なズレを、自分と、自分の周囲の空気との間に感じていました。酒井は焦りました。このままでは、せっかくこつこつと築き上げてきた平穏な日常が瓦解するかもしれません。酒井が最も忌み嫌う“周囲で起こっている面倒事”に巻き込まれるかもしれません。

――どうも、あの透明な生き物が気になり始めてから、物事がおかしくなり始めた気がする。

 酒井はそう思いました。そして、それは確実にあの風邪ウイルス流行が契機なのでした。流行中、感染回避のために人々が物理的距離をとりました。流行がとりあえずの収束を迎えてからは、また元通り人々の物理的距離は近づきましたが、いったん離れた時期に、元に戻り難い断絶が人々の間に生まれたのかもしれません。多くの人が気付かないような静かな断絶です。それは酒井以外の人間にとってはたいしたことのない断絶なのかもしれません。周囲を観察していて酒井はそう思いました。この断絶に戸惑いを感じているのは少なくとも全員ではなさそうでした。では、どのような人が酒井と同じように戸惑いを感じているのでしょうか。おそらくそれは、特定の条件を満たした人なのではないかと思いました。その者の感受性だったり、人格の特性だったりというものの傾向や強度が、一定の条件に当てはまる場合にのみ、この社会の変容を感受できるのではないかというのが、酒井の立てた仮説です。

 酒井は深いため息を吐き出し、両腕を天井へ向けておもいっきり伸びをしました。そして、早々にトイレを後にしました。あまり長くトイレにこもっていては、また自席に戻った際にマネージャーに何を言われるかわかりませんから。


 年始の仕事が休みの間、酒井は実家に帰省しました。毎年、この時期になると何となく帰省します。実家があるのは都会から離れた田舎町です。酒井の両親は農業を営み、生計を立てています。生活にはけっして余裕はありませんが、酒井からの仕送りが不要なほどには何とか生活していました。酒井は特に両親と仲が良いということはなく、かといって悪いということもなく、休暇を一人暮らしのアパートで過ごしていても退屈なので、暇つぶしがてら帰省するのでした。酒井の妹――佳代子かよこも毎年だいたい同じ時期に帰省します。旦那の奏太そうたと、夏頃に産まれたばかりの赤ちゃんを連れていました。奏太の実家は節目の時期に家族で集まるようなことを嫌うらしく、年始は奏太も酒井家に交じっているのでした。

 小ぶりな座敷部屋に集まって、おせち料理を乗せた小さな卓を家族で囲みました。ところせましと置かれたお重の中は、数の子、黒豆、田作り、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き、そして赤々と立派なエビと、豪華に彩られています。皆、卓上の料理には手を付けず、背筋をピンと伸ばして正座し、何かを待っています。酒井家ではまず、父が年始の挨拶を兼ねた短い言葉を話す習慣になっており、父が口を開くのを静かに待っているのでした。

「先の風邪ウイルスの流行には、ほんとどうなることかと思ったが、みんな健康そうで何よりだ。うん。ほんとうに良かった。今年も集まってくれてありがとう」

 そう言って、酒井の父は幸運を噛みしめるように、うんうんと頷きました。そして、とりなおしたように息を深く吸い込んで続けました。

「新年あけましておめでとう。今年もよろしく!」

 新年の挨拶といっても手短にこれだけです。“必要最低限”とか“当たり障りのないように”といった精神は、酒井本人だけの性質ではなく、酒井家全体に浸透した精神といえるのです。

 続いて朱塗りのお銚子を使って、時計回りに順々に、お屠蘇を盃に注ぎ合いながら回します。お屠蘇を飲み終えると、料理を各自のとり皿にとり分け始めました。すると、佳代子が数の子ばかりを自分のとり皿へ移し始めました。その間、赤ちゃんの抱っこは奏太が引き受けています。ほとんど自分のとり皿にとり分けてしまった佳代子は、今度はバクバクと破竹の勢いで口へほうり込み始めました。佳代子だけではありません。酒井は田作りを、こちらもひとりで平らげてしまう勢いでほおばっています。これは酒井家に昔からある光景でした。奏太も含めてここにいる家族は皆、ふたりの好物を了解済みですから、誰も数の子と田作りには手を出さず、それ以外のものを各々のとり皿にとり分けて食べました。

 めいめい、近況報告などをしていると、奏太が言います。

「ほんとうに、情けないです」

 奏太は会社になじめず、現在休職中とのことです。その会社は体育会系の社風で、おとなしい性格の奏太があまりなじめていないという話は、酒井も以前から聞いていました。その会社は、先のパンデミックの最中は完全在宅ワークを導入しましたが、パンデミックの収束とともに次第に出社基本の勤務形態へと戻りました。しかし、奏太は在宅ワークで一度会社との距離が遠のいてしまったために、出社へとうまく気持ちを切りかえることができず、しまいには精神科にて適応障害の診断を受け、そのまま休職することになったのでした。

「まあ、必ずしも男が働かないといけないわけでもないからな。幸い、佳代子の方に手に職があるのだし、無理に働くこともないだろう。今の会社が合わないなら、他の会社に移るのも一考だ」

 酒井は父の横で、顔には出さないまでも心中ではたいへん驚きました。父がこんなことを言うなんて、信じられなかったからです。なんてことはない言葉ですが、これまで酒井が理解している父の口から出た言葉とは思えませんでした。父は、働くということに関しては、どちらかというと昔ながらの感覚を頑固に保持していて、男は働いてこそだし、職を転々とするのは忍耐が欠けている証拠だと考える人でした。酒井の就職のときなどは、就職試験を受ける会社について前のめりにあれこれ意見を言ってきましたし、佳代子のときは、女は働き口を探すよりも、器量をみがいていい相手を見つけなさいと言うほどだったのです。

 時代に即して柔軟に思考を変えたと言えばとても好ましいことのように思えますが、酒井は少々違和感を覚えずにはいられませんでした。この年になって考え方をこうも変えられるものでしょうか。

 酒井の心中とは裏腹に、

「優しいお言葉、助かります」

 と、奏太はあくまで真面目にこたえていました。

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