第3話

 ある日、酒井は後輩社員の外勤に同行しました。後輩が担当している商談相手の本社に後輩とともに出向き、そこで後輩が行うプレゼンのサポートをするためです。一人でも十分対応できる後輩でしたが、同行者がいた方が不測の事態に柔軟な対応がしやすいということもあり、こうした商談には必ず二人以上で臨む体制になっていました。

 商談は夕方でしたので、その日二人は平常通りまず出社していました。酒井は後輩との外勤業務があることを忘れかけていました。出発の時間が近づき、パソコン内のカレンダー機能にリマインドされてはじめて外勤のことを思い出したくらいです。

 時間になると二人は会社を出発し、電車を乗り継いで外勤先へ向かいます。その道すがら、後輩も緊張していますので、口数は少なめです。酒井もこうしたときに後輩をリラックスさせるために他愛のない会話をふったりするタイプでもありませんから、二人はほとんど無言で肩を並べて歩き、電車に揺られている間もほとんど会話を交わしませんでした。

 吊り革を握り、車窓を流れる景色を眺めながら、酒井はひとり遊びを始めました。右から左へとものすごいスピードで流れていく車窓の景色を、眼球を右から左へ素早く動かすことで止まっているように見る遊びをしました。それだけでは面白くありませんから、看板や広告に書かれている文字をできる限り多く読むことを目標にしました。

――大野歯科

――今の一歩が未来の百歩! 北塾

――金・プラチナ・ブランド品 買ます

 そこで酒井は目をみはり、口もとをほころばせました。誤った送り仮名をふった看板が平然と街に掲げられているのですから、笑わずにはいられません。これは思いがけない幸運です。酒井はうきうきしました。そして次に酒井の眼前を流れ過ぎた看板――

――パンデミックで人と人との関係が希薄になった今こそ

 そこまでは読めたものの、電信柱や背の高いビルに邪魔をされて、続きを読むことができませんでした。酒井は続きが気になり、眼球だけでなく首も曲げて広告を追います。しかし、書かれた文字を読むにはその広告は既に遠すぎ、たちまち見えなくなりました。

「酒井さん、どうしたんですか〜?」

 隣の後輩が酒井をのぞき込みます。酒井は遠のく看板を目で追うあまり、まるで隣の後輩をジロジロと見るような格好になってしまっていたのです。

「あ、いや、なんでもないよ」

 酒井は歯切れ悪くこたえました。後輩はいぶかしむように眉を寄せたのち、視線を正面に戻しました。そこで酒井はあることに気づき、目をみはりました。後輩の肩に例の透明な生き物が乗っているのです。生き物は首を曲げ、静かに酒井のことを見ています。後輩の肩はただの足場で、関心は酒井の方にあるのだと言わんばかりに。

「ほんとうに、なんですか〜?」

 酒井は後輩ではなく透明な生き物を見ているつもりでしたが、後輩は酒井が再び自分のことをジロジロと見ていると思ったのです。

「あ、いや。肩の……」

 後輩は、酒井の指先が自分の肩口を指していることを確認し、

「え? やだ〜、スーツ汚れてますか〜?」

「あ、いや、気のせいだったみたい。光の加減で」

 酒井はごまかしました。

「気遣ってくれてありがとうございます〜」

 後輩は感情のこもらない礼の言葉を放り投げて、また前方に視線を戻しました。

 先の広告が酒井の頭から離れません。パンデミックで人と人との関係が希薄になった今、――この続きは何だったんだろう? と、酒井は気になって仕方がありませんでした。パンデミックを経て人々の関わり合いが希薄になったかどうかについては、酒井は正直なところよく分かりません。そもそも、パンデミック以前から人と人との関係性が希薄になっていく流れはあったように思います。職場の人たちとは仕事上の付き合いにとどめたり、飲み会に参加しなくても何も言われなくなったり(その結果、周囲からの印象がどうなるかはまた別の問題ですが)。本当に仲の良い友人とだけ付き合っていればいいというような感覚や、恋愛はめんどくさいといった風潮もパンデミック以前からありました。ただ、それらの傾向がさらに強くなったというか、たしかにパンデミックが、そういった傾向が“状態”へと固まるための決定打になったと言うことはできるのかもしれない、と酒井は思いました。

 パンデミックが社会にもたらした変容は、人と人との関係性、そして、この透明な生き物です。そこにどのような関連があるのかはわかりません。酒井はもう一度、後輩の肩に乗る生き物の方を見ました。生き物は、じっと酒井を見つめています。鳴き声ひとつ上げません。以前は鳴き声を上げていたような気がします。しかし、どんな鳴き声だったかは思い出せません。動きももっと活発だった気がしますが、それも定かではありません。酒井自身、どうしてそう思うのかはわからないのでした。


 商談の場所、つまり相手方の本社の近くまで来たとき、ようやく酒井は自分からあれこれと話し始めます。後輩が予定している商談の段取りを手短に確認し、後輩と酒井の間で頭合せをするためです。酒井は商談の進行はおおむね後輩に任せるつもりでしたが、フォローをする身として、最低限の段取りは把握しておきたいのです。その程度なら直前に確認することで十分でしたので、酒井はここに至るまで、たいして何も口にしなかったのでした。

 商談は首尾よく進行しました。自社ができる業務範囲とその強み、反対に自社が対応できないこと、相手方が我々と業務提携することのメリットを十五分ほどで説明し、その後活発な質疑応答に更に十五分ほど。正味三十分の商談でした。

 商談を終え、建物を出て少し歩いたところで、酒井はネクタイを緩めながら、

「お疲れ様」

 とだけ、隣を歩く後輩に言いました。

 酒井は口数は少ないけれど語調が柔らかで人当たりがよいと、後輩たちから評判――というのが、酒井本人の認識です。ですから、その認識どおり行動することが、酒井がこの会社において気をつけている唯一の行動基準でした。

 こうありたいというのが先にあるのではなく、自然に振る舞っているうちに付いた評判に従ってその後も変化なく行動する――というのが、酒井の生き方でした。あくまで自身の自然体を乱されたくないのです。

「お疲れ様です〜。はぁ、緊張しました。でも、今日は酒井さんがいてくれてうまくいきました〜。ありがとうございます〜」

 何かと語尾を伸ばす後輩、川島です。酒井はこのときはじめて、同行している後輩を川島だと認識しました。実際そんなはずはないのですが、業務を実行している間は酒井にとってはその後輩が誰かなどどうでもよい情報で(それが誰であろうとやることは同じだからです)、「後輩その一」くらいにしか思っていないのです。結果的に、業務が終わって肩の力を抜いたところで、ようやく個別の誰々として認識するというわけです。

「商談がうまく運んでよかった」

「ほんとですよ〜。酒井さんのおかげです〜」

「いやいや、川島さんの実力だよ」

「ありがとうございます〜。あ、そうだ!」

 と、川島がスマホをスーツのポケットから取り出して、

「アカウント、交換しませんか?」

 と、チャットアプリを画面に表示させました。

「ほら、業務上のこととか、気軽にやり取りできると便利なこともありますし〜」

 普段、酒井はチャットアプリなどのアカウントを後輩と交換することは控えていました。理由はいくつかあります。ひとつには、今の若い世代の感覚を重んじてのことです。プライベートまで仕事の人間関係を持ち込みたくないと考える人が多いでしょうから。そしてひとつには、先輩が後輩に何かを強要すればパワハラになりえるからです。ことに、パワハラやセクハラといったことに世の中はどんどん敏感になっています。頭の中のアップデートが追いついていないことを素直に認め、自身の感覚が伴わなくても世の中が敏感になっていることには慎重にならなければならないと、酒井は考えるのでした。

 しかしながら一番の理由は、言うまでもなく、酒井自身が面倒な人間関係を避けたいと考えているからです。先輩、後輩限らず、酒井はほとんど誰とも積極的にアカウント交換をしませんでした。しかし、このときは後輩の側から申し出てくる分にはよかろうと考え、快くアカウント交換に応じました。これが、後々問題を引き起こすことになるとは知らず。

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