第2話
さて、定時が始まってもとくに挨拶や何かがかわされるわけではありません。十数秒のチャイムがただ鳴るだけです。早めに出社してすでに仕事を始めていた者はそのまま継続し、出社したばかりで仕事の準備をしている者もそのまま準備を継続します。朝イチで会議がある場合は、定時開始のチャイムが同時に会議開始の合図にはなりますけれど。
以前はそうではありませんでした。
以前は、定時開始のチャイムと同時にフロアの全社員が、いったん各々の手を止めて起立し、全員で「おはようございます」と挨拶をしました。それはもう、フロア全体に響き渡るような、窓や壁がガタガタと振動するような、小学一年生のような元気いっぱいの挨拶です。仕事はまず挨拶からと、全社的に啓発されていたのです。元気一杯の挨拶の後、部長からひとことふたことちょっとした話があるときもあれば、特に話すネタが無ければそのまま業務開始となるときもありました。
しかし、あるときを境にこの習慣は無くなりました。原因はひとつ、数年前に起こった新型風邪ウイルスの流行です。このウイルスは、感染しひとたび重症化すると死に至る可能性のある危険なウイルスでした。当時、人々は感染リスクをなるべく軽減するために、日常のありとあらゆる行動を制限しました。なるべく外出を避け、やむを得ず外出する際はマスクを必ず着用しました。人と人との近接した接触を避けるため、コミュニケーションはなるべく対面以外の方法(電話やチャット、ウェブ会議など)を取りました。娯楽施設では人々の密集を避けるため厳しい人数制限を設けたり、或いは暫くの間営業を停止したりしました。このウイルスは世界的に流行しましたから、国単位では出入国の制限も設けられました。
酒井が勤める会社も当然、様々な行動制限が設けられました。流行が始まってすぐの時期は、可能な社員は全員リモートワークとなりました。自宅からパソコンを繋いで仕事をしたのです。流行が落ち着き始めてからは緩やかに出社体制にもどっていきましたが、朝の挨拶は引き続き制限の対象となりました。皆がいっせいに挨拶をすれば、たとえマスクをしていても、一定の飛沫が飛び、感染リスクを高めるからです。
ワクチンが開発されたことや、未知のウイルスの得体の知れなさが時間の経過とともに徐々に薄まり、ウイルスに対する個々の認識が固まってきたことにより、人々は次第にこのウイルスに対する警戒を解いていきました。個々のペースで次第に外出するようになり、マスクを着用しない人も増えました。対面のコミュニケーションに対する抵抗もずいぶん緩和されました。各種娯楽施設が営業を徐々に平常運転へともどしていきました。
しかし、酒井の職場の朝の挨拶習慣は永久に失われました。おそらく、元々皆やりたくなかったのでしょう。そこに、やらないちょうどいい理由が舞い込んできたので、そのままなし崩し的にこの習慣を消滅させたのです。こういったことは人間社会には往々にしてあります。建前上やっていることというのは、結局、あってもなくてもたいして変わらず、何かちょっとしたことをきっかけにやらなくなってしまう、ほとんど無意味な行いなのかもしれません。
いずれにせよ、このような取るに足りない変化はあれど、社会の様子はウイルス流行前とほとんど変わらない状態に戻りました。
――少なくとも見かけ上は。
と、酒井は思っていました。完全には元通りになっていない、さらに言えば、ウイルス流行前と後とで社会の様相が微妙に変化したように酒井は感じていました。しかし、それは具体的にどこがどうと説明できるものではありませんでした。あえて言葉にするならば、“何かが静まった”ように感じました。その静寂が平穏を意味するのか、それともなにか良からぬことのまえぶれなのか、それは酒井にもわかりませんでした。ただ、何か、――以前より辺りをうごめいている小さく透明な生き物たちが、そっと口を閉ざした。そんなふうに感じました。そして、その生き物たちの存在が、ウイルス流行前と比べてかえって強調されて感じられるのでした。
そうです。これが、ときどき不意に酒井の視界に割り込んできては、酒井がその姿を見ようとするとすかさず姿を消してしまう正体不明の存在のその正体であると、酒井は考えるのです。なぜなら酒井はこれまでに、幾度かその姿を捉えることに成功していたのですから。
その生き物は子猫くらいの大きさで、しかしその体躯はどちらかというと爬虫類のそれに見えました。透明なので色や質感などはわかりません。けれど、見える――矛盾していますが、酒井が見ている光景は、そう表現するより他ないのでした。その生き物が何なのか、その存在が何を意味するのかは、酒井にも分かりませんでした。ただひとつ、今のところ何の実害もなさそうであるということだけは分かっているのです。
仕事を終えると、酒井はまっすぐ家に帰ります。郊外にあるワンルームの賃貸マンションです。ひとり暮らしで、犬も猫も飼っていません。結婚にも今のところ興味はありませんし、そんな相手もいません。自分ひとり食べていければいいのですから、現在の収入を考えれば、職場がある中心地に近いところに住むこともできます。しかし、酒井は質素な生活を常としていました。特に何かのためにお金を貯めているわけではなく、ただなんとなく贅沢な暮らしが身にしっくりこないのです。
玄関の扉を開ければ、そこには重く固い暗闇と耳に刺さるような静寂が待っています。部屋の電気スイッチを押すと、ひとまず暗闇は去りますが、男のひとり暮らしの雑然とした部屋が冷ややかな明かりに照らし出されるだけです。
酒井は荷物をそのへんの床に置き、洗面所で手を洗うと、台所で晩御飯の支度を始めました。といっても、ごく簡単なものを用意するだけです。肉と切った野菜を、塩こしょうなどの適当な味付けで炒めます。ときどき煮物や和え物、汁物などを作って添えたりしますが、たいてい仕事で疲れているので省略します。お米はちょうどいい時間に炊きあがるように、朝方、炊飯器の予約機能をセットしておきます。
作ったおかずを皿に盛り、白米を椀によそい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注ぎ、それらを盆に乗せて、居間スペースの机に運びます。固く弾力の失われたソファに疲れ果てた腰を落とし、ここでようやく、帰宅後はじめて身体中の緊張を緩め、深く大きい溜め息を吐き出します。
一日の疲れが酒井の身体中に滞留していました。酒井は自分ほど淡々と仕事をしている人間はいないと思っていましたが、それでも一日働けば一定の疲労は避けられません。その一日分の疲労を、帰宅後から翌日の出勤までの間に癒やし、心身をまっさらな状態に戻して、また代わりばえのしない一日を始める。ただそれだけの繰り返しの日々ですが、酒井は概ね満足していました。ルーティーンの範囲内で生活をしていれば問題なく毎日が過ぎていくという保証さえあれば、特段の変化はなくとも酒井は退屈せずに日々を過ごすことができるのです。
酒井はテレビをつけました。ニュース番組が映し出されます。戦争のニュースです。 世界では大国が小国に戦争をしかけていました。大国が小国を自国に取り込みたいがためです。これまでその大国は小国に対し、天然ガスの供給停止を脅迫手段として用い、自国の野望を叶えようとしていましたが、脅迫の効果がうすいと悟った大国は、ついに武力に訴える決断をしたのでした。国の規模の差とはうらはらに、戦闘は苛烈をきわめ、長引き、両国の軍隊から大量の死者を出しています。そして、罪のない一般市民も多く死んでいます。酒井はこうした戦争のニュースを見るたび、心を痛めました。
――人はみな必死に生きている。等しく、平穏と安寧を求めている。
酒井は、そう信じていました。
――それなのに、目に見えない大きな枠組みの中に取り込まれた人々は、それを忘れ、私欲のために、或いは措定した(酒井にとっては理解のしがたい)大義のために、人々の無垢な願いを、そして命を踏みにじる。
酒井はその現実に首を傾げずにはいられませんでした。人の命を奪ってまで満たさなければならない私欲や大義などあるはずがないと確信しているからです。
――それでも、人々はこうした醜い争いをやめることはないだろう。
酒井が日々をただ何も無いように過ごすのは、こうした思考の流れがあるのです。人は他人をどうこうすることなんてできません。いわんや、世界をやです。ですから、自分は極力そうした争いごとの被害を受けないよう、息を潜めて暮らしているのです。
そのとき、酒井の視界の端で何かが動きました。例の小さく透明な生き物です。風邪ウイルス流行の収束以降、戦争のニュースを見るときにも必ず(戦争のニュースと何の関係があるのかは分かりませんが)現れるようになりました。やはり、それらは鳴き声ひとつ上げません。その生き物はいつも、息を潜めながら酒井のことをじっと観察しているようなのです。酒井は気味悪く思いました。ですが、その生き物から敵意らしいものを感じたことはありませんでしたので、酒井は今のところその生き物のことをそっとしています。
気を取り直し、思考の続きを始めます。
――それにしても、どうして国家間の問題事をジャンケンで決めるのではいけないのか。対話で決めることができず、どうしても何かしらの勝負を行わないといけないのなら、膨大な手間と甚大な犠牲を払う戦争などではなく、ジャンケン、あるいは腕相撲でもいい、簡単かつ後腐れない方法で決めてしまえばいいではないか。
酒井はいつもそう思います。それがどれほど馬鹿げた考えかは、酒井もわかっています。けれど、やはりジャンケンや腕相撲で決められるならそれ以上のことはないと酒井は思うのです。
と、何故か今日は酒井の目に涙が滲んでいました。正確には涙が滲んでいるような感じがしただけです。何故なら、酒井は戦争のニュースに心を痛めはしても、泣くほどに感情が高ぶったことはこれまで一度もなかったからです。首を傾げつつ、酒井は手の甲で目元を拭いました。湿った手の甲を見て、酒井は眉をひそめました。酒井自身、涙を流すほど感情が動いている自覚はありませんでしたが、涙を流しているということは、その程度の感情の動きがあったということです。しかし……。酒井の思考はそんな堂々巡りになりました。
すると、小さく透明な生き物が酒井の背を這い、肩口に達し、そこから首、頭へと到達しました。酒井はその間、むずかゆさに身をよじらせていました。物理的な接触があったのはこれが初めてでした。手を伸ばせば触れられる位置にいます。でも、それは少し怖い気がしました。噛みついてくるかもしれません。毒がないとも言い切れません。
酒井はあわてて腰を上げ、洗面所へ行き、鏡に自分の姿を映しました。目が微かに赤らんでいます。透明な生き物は映っていませんでした。先ほどまで頭の上に感じていた重みも消え去っていました。どうやら透明な生き物はどこかへ行ったようです。透明な生き物はふとした時に現れますが、こうやって姿を捉えようとすると、ふっと消えてしまうのです。
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