酒井デス。困ってマス。

桐沢もい

第1話

 雨が降っていました。

 特徴のない雨です。激しく降りしきるわけでもなく、傘を差さなくてもいいようなぽつりぽつりという雨でもなく。

 普通の雨です。

 酒井は電車の吊り革につかまっていました。車窓を通してぼんやりと、両目の焦点を調節しながら、薄い灰色の空と、車窓の外側に付いた水滴とを交互に見ていました。まるで、カメラレンズの絞りを調節するように。

 酒井は手持ち無沙汰のとき、このように他人からは悟られにくいひとり遊びをするのが好きでした。あるときは自分の両手でジャンケンをしました。通常の方法ですると他人からばれてしまいますので、独自のルールを決めました。人差し指と中指に微かに力を入れてチョキ、親指から小指まですべての指に力を入れてグー、どの指にも力を入れなければパー、という具合です。こうすれば誰にも気づかれません。一回勝つごとに一ポイントとして、目的の駅に着くまでにより多くのポイントを獲得した方の手が勝利です。これまでの戦績を総合すると、右手がわずかに勝ち越しです。

 ひとり遊びは他にもいろいろあります。両目でカメラワークを模す今日の遊びも、よくやる遊びです。――――と、酒井は目を細めました。窓ガラスに焦点を合わせたときに、何かが見えた気がしたのです。窓ガラスでもなく、窓ガラスに付いた雨滴でもなければ、窓ガラスにうつる車内の景色でもない、何かが。しかし、それは次の瞬間には消えていました。酒井は、はてと首をかしげましたが、気をとり直して、すぐさま両目の遊びに戻りました。酒井は自分のペースが崩されることを過度に嫌うのです。

 車内は混んでいます。通勤ラッシュのこの時間帯はいつも混むのです。人いきれと雨の湿気があいまって、車内はとてもじめじめ、むしむししています。それでも酒井は特に不快な気分にもならず、両目のカメラで遊んでいます。

 他の乗客はどうでしょうか。眉間にしわを寄せて明らかに不快を顔いっぱいに広げている人、シャツの胸元をつまんでパタパタと身体に空気を送っている人、ハンカチで額や首筋ににじむ汗を拭きとる人、大きなため息を何度も吐き出す人と、どれもこれも今すぐこの環境から脱したいと言わんばかりの様子です。この環境下で、酒井のように澄ましていられる人はそんなにいないようです。

「おい! さっきからやめろや!」

 男の人が叫びました。声の感じからすると、中年頃の男性でしょうか。何があったのでしょう。酒井からは少し離れた場所での出来事ようで、詳しい様子はわかりません。

「わざとじゃねぇよ!」

 今度はもう少し若めの男性。

 酒井は目のカメラワークをいったん止めました。さすがの酒井も少し警戒します。

 おそらく、若めの男性の方の肩やら何やらが、中年の男性の方に何度もぶつかるかなにかしていたのでしょう。酒井はそんなふうに想像しました。

「あのなぁ、わざとかどうかとか、どうでもいいんだよ! 当たってんだよ! まず謝んのが礼儀だろ。ったく、最近の若いもんは」

 どうやら酒井の想像は当たったようです。酒井は次の停車駅で降りました。目的の駅まではまだふた駅ありましたが、面倒ごとにまき込まれたくなかったのです。車内は混んでいましたから、人をかき分けて降車するのが精一杯、とても車両を移る余裕などありませんでした。ですから、ひとまず降車して、次の電車を待つことにしたのです。

 次の電車も、もちろん人でいっぱいです。停車した電車が酒井の眼前で扉を開きます。扉の向こうは、人ひとりが乗る隙間も無いくらい、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれていました。酒井は軽く会釈をし、人の塊に自らの身体を強引に押し込み、どうにか乗り込むことに成功しました。こんなとき、酒井はいつも思います。人の身体って押せばいくらでも縮むんだな、と。

 扉が閉まると、酒井はその扉にへばりつくような格好になりました。電車が発車します。電車の揺れに合わせて酒井のすぐ近くに立つ乗客たちも揺れ、ときに酒井をより強く扉に押し付けました。さすがの酒井もこの状況には不快を感じずにはいられませんでしたが、あのままさきほどの電車に乗り続けて、他人の酷いいさかいを聞かされるよりはずいぶんマシでした。

「やめてください」

 と、女性の声がしました。今度も酒井から離れたところから聞こえてきたので、詳しい状況は確認できません。また酒井は少し緊張して耳を澄ませ、様子を窺いました。しかし、声はそれきりでしたので、揉め事には発展しなかったのでしょう。特に問題なさそうでしたので、酒井は、今度は目的の駅までその電車に乗り続けました。


 酒井の十の指がパソコンのキーボードを打ちます。それはもう流水のごとく速く、そよ風のごとく自然です。酒井はこの会社で一番タイピングが上手いと自負していました。もちろん全社でタイピング競争なんてしませんから、本当に一番かどうかなんてわかりません。もしかすると、平均くらいでたいしたことはないかもしれません。それでも、酒井は会社イチだと固く信じていました。信じるのはタダです。そして、誰にも迷惑をかけません。酒井は、そうしたことはかたはしから信じることにしているのです。

升谷ますたに! おい、升谷!」

 嗄れ声がフロア中に轟きます。唾が飛んでいます。酒井が所属するチームのマネージャーです。とっぷりと膨らんだお腹がベルトの上に乗り、ワイシャツのボタンが弾けそうです。

「はい!」

 升谷亮平が快活に返事をしました。

「ポットの湯沸かし、今日お前が当番だろ!」

 彼がマネージャーからお咎めを受けるのはいつものことです。ですから、酒井にはマネージャーの怒りの種が何なのか、マネージャーがそれを言葉にするよりも前から分かっていました。

 酒井は予想通りであることが分かった瞬間、「ビンゴ!」と、心のなかで言いました。もちろん、表情には出さず、目はパソコンのモニターに固定、指は変わらずキーボードを打ち続けます。とばっちりを食ってはたまりませんから。

「これじゃ朝の珈琲が入れられねぇじゃねぇか! 毎回毎回、言われるまで……」

 叱責の言葉も毎回同じで、酒井は聞き飽きていますから、後半は意識の外に追い出してしまいました。マネージャーの「朝の珈琲」という言い回しに、毎回心の中でクスッとひと笑いしているのは内緒です。

 明日は酒井が当番。忘れないようにしようと、しっかり心に刻みます。――――と、またです。また、正体の知れない何かが視界にうつりました。今度は酒井の左方向、目の端でかすかに捉える程度でした。酒井はすかさずその方向に視線を移しましたが、やはりそれはもう姿を消しているのです。その正体不明の何かについて、実は酒井には少々心当たりがありました。しかし、確証が得られず、また、実害もないですから、放っておくことにしているのです。

「懲りないですよね〜、升谷」

 酒井は肩を跳ね上がらせて驚きました。

「ふふふ、すみません~。急に話しかけて」

酒井のそばを通りがかりに耳打ちするように囁きかけたのは、升谷と同期の川島早苗です。何かと語尾を伸ばして話す子です。社歴では酒井の七つ下。上体をやや屈めた姿勢のために、川島のさらさらの長い黒髪が彼女の顔の下半分のところにストリングカーテンのように下がります。

 川島は酒井に懐いている後輩のうちの一人でした。酒井は後輩に懐かれる傾向にありました。懐かれると言っても、このように通りがかりに軽口をかわす程度のものですが、酒井の何事にも不干渉、中立的な態度が後輩の気を楽にさせるのかもしれません。

 川島は酒井のリアクションを特に待つことなく、自席へと戻っていきました。

 キーン、コーン

 業務開始の予鈴が鳴りました。酒井は定時が始まるよりもかなり余裕をもって出社し、すでに仕事を始めていたのです。いつもそうしています。

 理由はいくつかあります。

 第一に、通勤ラッシュのピークの時間帯を避けるためです。少し時間を早めたところで混んでいることに変わりはないのですが、ピークに比べればいくらかマシです。酒井は他人との身体の接触を過度に嫌いました。それが少しでも軽減されるなら、朝の少々の早起きなど屁でもありません。

 第二に、多くの同僚が会社の門に押し寄せる時間帯を避けるためです。始業間近の時間帯はたくさんの社員が会社の門をくぐります。そして、そういった時間帯は、自然、顔見知りの社員とも多くすれ違うことになります。挨拶や会話が生まれることもしばしばです。酒井はそういったことを煩わしいと感じました。なるべく人との交流を避け、なるべく声を発さずに過ごしたいと考えていました。そのためなら、朝の早起きなどやはり屁でもないのです。

 第三に、今日のような揉め事が電車内で起こったとき、その電車を降りてやり過ごしても会社の始業に間に合うようにするためです。酒井は面倒事に巻き込まれることを過度に嫌いました。仮にたとえ始業に間に合わないことが分かっていても、酒井は電車を降りるでしょう。酒井にとって面倒事を避けることが、何と比べても優先なのです。ただ、思いのほか電車内のトラブルというものが多いことが分かってから、確実を期して早めの電車に乗ることにしたのです。

 これらの理由を総合すれば、早起きに伴う心身の緊張や疲労など、屁で一発、吹き飛んでしまうのです。

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